可愛い犬の従弟 - 3/5

ナルシッサ編

 みるみる青ざめていくシリウスの口から洩れるのは浅い息だけ。溺れかけている人が洩らすようなか細いものだった。ぐうの音もでないってわけかしら?
 昔からシリウスはそうだった。普段は女の子になんか全然興味はありませんって態度をとっていたくせに、それはあくまでポーズ――この格好つけ男は極度のムッツリスケベだった。犬の姿になれるのをいいことに女の子と見れば誰にでもすり寄って、膝に飛び乗ったり、足を舐めたり、匂いを嗅いだり…。アン姉さまに添い寝して、図々しくも胸に鼻面を押し当てて眠っているふりをしていたこともあった。尻尾が嬉しそうにパタパタ動いているのに気づいて、私はとても情けなく思った。ベラ姉さま相手だと、さすがに腰が引けてそんなこともできなかったようだけど。もし、そんな勇気があったら見物だったでしょう。きっと犬鍋にされていたに違いないもの。
 愛とは赦し――そう思えばこそ、私は彼の見下げ果てたセクハラ行為を見て見ぬふりをしておいてあげた。正確に言うと考えないようにしていた。いつまでも目を逸らし続けることはできなかったけれど。
 私が現実を直視したのは、アン姉さまがマグル出身の男と駆け落ちした年だった。思えば、姉さまの一件が大きく関係していたのだと思う。それまで何かと理由をつけて私を家から出したがらなかったお父さまが、マルフォイ邸のハウス・パーティーに私も連れていってくださった。そして、婚約者としてルシウスに引き合わされた。有無を言わさず、突然に。そのことを知らなかったのは、おそらく私だけだったのだろう。震える私の手を取ってダンスの輪に誘い入れたルシウスは、愉快な見世物でも見るような目で私を見ていた。
 私はどうするべきか思い悩んだ。シリウスが家のしがらみを嫌っていることは十分に分かっていたから、何年待とうと彼が何かを約束することはないのだと諦めていた。それでも、私は彼以外の誰かを結婚相手にと考えたことはなかった。愛してもいない誰かのところに嫁ぐことなど考えられなかった。
 けれど、一度公にしてしまった婚約発表を覆せば、ブラック家の、そしてお父さまの沽券に関わる。私を深く愛してくださった、大好きなお父さま。私がアン姉さまの二の舞になれば、どれほど悲しまれるだろう……。
 進退窮まって、私は賭けをすることにした。もし、シリウスに全てを打ち明け、少しでも私を引きとめる素振りを見せてくれたら、彼と共に家を捨てようと。私を可愛がってくださった大好きなお父さまを裏切るために、彼に背中を一押ししてほしかった。
 シリウスはとめてくれた…――顔を真っ赤にして、鼻をつまみながら「あいつは絶対変態プレイをするからやめておけ」と。その一言が正反対の方向に後押ししてくれた。
 プレイボーイで知られていたルシウスは顔からしてSっぽくて、鞭や皮手袋、器材、薬なんかを持ちだして喜びそうな雰囲気があった。確かにその予想の大半を裏切らなかったけれど。
 それでも一緒に暮らしていく上で人の心配をするフリをしながら妙な方向に思いを巡らすムッツリスケベより、取り繕わない分だけオープンスケベの方がマシだと思ったから。
 そして、その選択は正しかったのだと思う。まさか年端もいかない女の子達まで毒牙にかけようとするほど、彼の欲望がねじくれていたなんて。
「何か弁解のお言葉は?」
 喉のくぼみにピタリと杖を突きつけると、シリウスは無抵抗なのを強調するように空の両手を上げた。
「……ナ、ナルシッサ、誤解だ」
「誤解?」
 この期に及んで、まだ何か言い訳があるとでもいうのか、シリウスは喘ぎの最中に洩らした。杖の先端を少しだけ離してあげると、少しでも誠意を見せようという魂胆なのか、きっちりと膝をそろえて座り直した。恥じ入るように、小声でささやく。
「その……アズカバンを出て以来、俺はロクなものを食べていなかった……ネズミくらいしか食べていなかったんだ」
「ネ、ネズミですって!? 嫌だわ、シリウス……ペストにかかったらどうするの!」
 病原菌の媒介を食べるなんて信じられない。それも犬の姿だったら、きっと生肉のままだわ。味には人一倍うるさくて、少しでも口にあわなければ食事を下げさせた屋敷しもべ妖精泣かせのシリウスが…――俄かには信じられなかった。けれど、文字通り骨と皮だけになった彼を見ていると、それが全くの嘘ではないことが分かる。
「いや、まあ……ほら、そんなわけでな。分かるだろ…? 空腹で意識が朦朧としてたんだ。女の子達の足が肉そのものに見えてきて」
「そうだったの。私ったら……てっきり、あなたが子供相手に発情しているのかと思ったの」
「馬鹿言うなよ。俺は熟女好み……」
 言って、シリウスはしまったと言わんばかりに口を塞いだ。
「と、とにかく! 子供に興味はない。首を賭けてもいい」
「子供には、ね」
 シリウスは決まり悪そうに頭をかいた。
「昔のことを言っているなら、謝るよ。俺も若かったからさ……」
 はじめての謝罪の言葉に心が熱くなった。責めたことは一度もなかったけれど、目の届くところでも浮気を繰り返されるのはつらかった。けれど、罪悪感を感じるということは、私のことを少しは気に留めてくれていたということだから。私を好きでいてくれたということだから。
「もう過ぎたことよ」
 でも、今さら謝られたところで何も変わらない。私とシリウスはもう十年以上も前に終わってしまった。私はルシウスの妻、そして子供まである身なのだから。
 このまま、ここにいてはいけない。流されてはいけない。
「ナルシッサ」
「帰るわ。さようなら、シリウス。もう二度と逢えないでしょうけれど、あなたの無事を祈っているわ……私の大事な従弟」
 急いで背を向けた途端、手首をつかまれた。振りほどくよりも早く身体を回されて、向き直される。どんな表情をしているのか確かめる間もなく、私は彼の胸に抱かれていた。思わず涙が出そうになった。汗と泥が染み込んで刺激的な臭いがするローブのせいでは決してない。
「俺は今でもお前だけを」
 肩に、腰に回された手が撫でていく。ゴツゴツした大きな手が段々と下に流れていって、
「どさくさに紛れて何処まで触ってるの!」
彼の顎に強烈なアッパーを決めてしまった。浮かび上がったシリウスの身体が大の字に倒れる。一度「うげ」と雑魚キャラがだすような情けない声を上げて弾んだ後、そのまま動かなくなった。これぞ至上の喜びという笑みを浮かべたままの口元から泡を噴いている。
「……馬鹿」
 肝心なところでどうしてこうなんだろう。長年愛すべき野良犬を演じていて、頭まで犬化してしまったのかしら。
 しゃがんで彼の顔を覗き込むと、溜め息の代わりに笑いが込み上げてきた。どうしようもない馬鹿でムッツリスケベでヘタレでも、それでも私はシリウスのことが好きだった。心を焦がす想いではなくなっても、彼を愛していると気づいてしまった。
 そう、馬鹿なのは私も同じだわ。