可愛い犬の従弟 - 2/5

シリウス編

 身体が引きずられるたびに雪が毛の合間にすり込まれていく。けど、もう冷たさなんて感じない。感じるのは、死、死、死。エンドレスに死という言葉だけだ。辺りが夜みたいに暗い。ああ、苦しい、これはディメンターに見せられている悪夢の続きなのか、そうに違いない、そうじゃなきゃ嫌だ。せっかくせっかくシャバに戻ってきたっていうのに。
 緑の閃光に包まれた瞬間、ジェームズもこんな苦しみを味わったんだろうか。
 我が最愛の友、ジェームズ・ポッター。あいつと悪戯をして駆け回っていた頃が人生最良の時だった。毎日が冒険のようで、それまで家に押し込められていたのが前世の記憶のように感じられたほどに。
 あいつにもう一度会えるなら、死ぬのもそう悪くないかもしれない――そうぼんやりと思った時だった。全身に鈍い衝動が打ち寄せてきたのは。
 少しだけ楽になった。そう思ったのも一瞬で、一気に喉に押し寄せてきた空気にむせ返った。
「お久しぶりね、シリウス」
 ゼイゼイうるさい息遣いが治まるのを見計らって、頭上の人物が声を発した。一瞬間前、俺をくくり殺そうとしていたとは思えない優しい声で。
 親愛なる従姉、ナルシッサ・ブラック――いや、もうナルシッサ・マルフォイだったか。
 学生時代、俺はナルシッサと恋人の関係にあった。もちろん家の連中に悟られないよう気を配っていた。知られたら最後、拍手喝采花吹雪に彩られたバージンロードに押しやられ、その先の牢獄に一生囚われたことだろう。ナルシッサと一緒に、ブラック家の血の呪縛に。
 純血を誇るあまり、何処までもねじくれ曲がったブラック家。そこから抜け出したい一心で生きてきたというのに、惹かれたのが従姉だったとは全く皮肉だ。狂気に満ちた母の最後の呪いだろうか。
 俺にはどうしてもナルシッサの望む言葉が言えなかった。結婚の「け」の字も口にしたことはない。愛していたのは確かだし、何度も親しく触れあったというのに。
 何も言わない俺に業を煮やしたのか、やがてナルシッサはあの悪名高いルシウス・マルフォイに走った。送りつけられた結婚式の招待状をビリビリに破り捨て、暖炉の中に放り入れた後、俺は家を飛び出した。
 彼女とはそれっきり会っていなかった。今日この日まで。
 俺以外の誰かのものになったナルシッサなんて見たくなかった。ことにルシウス・マルフォイの妻とは――最悪だ。夫に始終何を吹き込まれているか分かったものじゃない。さっき俺を殺そうとしたことでも敵意があるのは明らかだ。
 隙を突いて逃げよう。俺が捕まれば、ハリーのアキレス腱になりかねない。いざとなれば、ナルシッサを…――殺してでも。
「シリウス」
 彼女はもう一度俺を呼んだ。声が微かに震えている。しゃがんで、俺の目を覗き込んだ。くっきりとした目は相変わらず人形のようだった。つけたように長い睫毛を数度上下させたと思うと、どっと涙があふれ返る。
「会いたかった、ずっと……会いたかった……」
 その言葉が十数年の隔ても、確執も押し流した。
 犬の姿では何を言うことも、濡れた顔を拭ってやることもできない。辺りを見回し、ここが住処にしていた洞窟の近くだと確認すると、人間の姿に戻った。
 ボロボロに擦り切れた囚人用のローブをまとい、髪もヒゲも伸び放題、痩せこけて汚れきった姿を見ても彼女はたじろがなかった。神への感謝をささやき、いっそう身体を押しつけてきた。十数年ぶりに感じる彼女の温もりは柔らかく、優しかった。
 鼻先にツンと刺激が走り、慌てて彼女の身体を引きはがした。
「……汚れるぞ」
「汚れるのなんて、かまわないわ。また生きてあなたに会えるなんて」
「夢にも思わなかった、か?」
 ようやく顔を離すと、ナルシッサは笑った。まだ目には涙のつぶがまとわりついている。
「あのアズカバンを脱走するなんて誰も思わないわ……でも、私は信じてた。どんな場所も、人も、あなたをずっと繋ぎとめておくことなんかできないって」
「また繋ぎとめられるかもしれないけどな」
「どういうこと?」
「お前、ルシウスの奴に言いつけるだろ? お尋ね者のシリウス・ブラックをここで見たって。大臣閣下の覚えがめでたい旦那はごまをする機会を見逃さないはずだ」
 彼女は気分を害した風もなく、そっと首を振った。
「私がルシウスに言うと思って? 私、その気になればあなたがアニメーガスだってこと、十年以上前に言ってたわ」
 確かにその通りだ。彼女とつきあっていた頃、何度か犬の姿になるのを見せたことがある。友人達との秘密を打ち明けたのは少しばかり軽率だったかもしれないが、ナルシッサは口が堅いし、事実十年以上も秘密を守り通してくれた。彼女がそのことを洩らしていたら、アズカバンを脱獄することなど到底できなかっただろう。
「マルフォイとはうまくいってるのか?」
 何を期待したわけでもないが、訊かずにはいられなかった。
「子供が一人いるわ。息子よ」
「聞いたよ」
 澱みなく答えるナルシッサ。ルシウスに触れないのは不仲だからか、俺を気遣ってか。声音からはどちらとも読み取れなかった。
 マルフォイ家の長子誕生の報は、アズカバンに収監される前に風の噂で聞いていた。なのに、おかしなことだが、今こうしてナルシッサ自身の口から聞くと信じられないという気持ちが込み上げてくる。いや、どちらかというと信じたくない……だろうか。
 ナルシッサの顔が急に曇った。不機嫌そうなその表情は俺を見る時の母によく似ていた。ナルシッサの中にブラック家の血が息づいているのを嫌でも思いださせてくれる。
「ハリー・ポッターからでしょう。あなたはあの子の名づけ親ですものね。
 ワールドカップの時に見たわ、あの子を……本当にそっくりだった、あの父親に。見た目も、きっと中身もそっくりなんでしょうね」
「まるでジェームズに似てるのが悪いみたいな言い方だな」
「私は……ポッターが許せないの。あなたがアズカバンに収容される羽目になったのだって、ポッターの【秘密の守り人】になったせいだわ」
「それはジェームズのせいじゃない! あのおべんちゃらな裏切り者、ペティグリューのせいだ!!」
「大きな声をださないで。捕まってもいいの?」
 冷ややかな声を浴びせられた。まだまだ腹が立って仕方なかったが、ナルシッサの言う通りだ。いくら人家から離れたところとはいえ、もし誰かがこの場にいたら魔法省に通報されるだろう。
 睨みあったまま、しばらく黙っていた。口を利けば収まりかけた怒りが噴火しそうだった。
 やがて、ナルシッサがぽつりと言った。
「ねえ、ここに何しにきたの?」
「なんだっていいだろう。お前には関係ない」
 ジェームズを悪者と決めてかかるのにムカムカしていたせいもあるが、ハリーに会ったと答えたらますます火に油を注ぐことが分かっていたから、とりあえずそう言っておいた。
 それがどうもまずかったらしい。ナルシッサの目が危険な色を帯び、すっくと立ち上がった。
「そう、確かに関係ないわよね。私とあなたはただの従姉弟だし、それすらあなたが家を飛びだした時点で無効……私とあなたは家族じゃない。心配や意見もできないってわけね?
 ええ、じゃあ、心配でも意見でもない。赤の他人として一つ訊かせていただくわ、シリウス。さっきは一体何をしてたのかしら、パブの前で? 私の目に間違いがなければ、娘ほどに年の離れた女の子達を相手に随分楽しく遊んでいたみたいですけど」
 目の前に杖を突きつけられ、俺はもう一度首を絞められたように息ができなくなった。