可愛い犬の従弟 - 1/5

ドラコ編

 暖かな日差しが黒のローブに吸い込まれ、背中がポカポカする。随分いい天気だ。青々とした空にはスッと長い雲があるばかり。つい数週間前までの灰色の重々しい空の面影は何処にもなかった。
 もう春なのか、としみじみと思う。春は嫌いだ。雪が溶けきってしまえばさっぱりするが、それまでグチョグチョドロドロの地面を踏みしめなければならないなんて。考えただけで出かけるのが億劫になる。クィディッチの練習はグンと楽になるだろうが…――
「ドラコ、どうしたの? ぼうっとして……やっぱりお友達がいないと退屈かしら」
 悲しげな母上の声でハッとした。
「いいえ、そんなことはありません!」
「ごめんなさいね……今年のクリスマスは家に帰ってこなかったでしょう、あのダンスパーティーで……あなたに会えなくて、ずっと寂しかったのよ。お父さまは学業の邪魔をするな、おとなしくイースター休暇に帰ってくるのを待てと仰ったけど、イースター休暇なんて数週間も先じゃない」
 母上は憂鬱そうに長い睫毛を伏せて、ふうっと溜め息を吐いた。数週間がまるで一千年と言わんばかりだ。
「父親ってどうしてあんなに冷淡なのかしらね。こんな時は少し羨ましくなるわ」
「僕も母上に会えなくて寂しかったです」
 そう正直に言うと、母上は少し……ほんの少しだけ笑ってみせた。母上を喜ばせるための嘘だと思われたのかもしれない。
 ご機嫌取りなんかじゃないのに。クラッブやゴイル、それにパンジーなんかとはホグズミード村でわざわざ会わなくたって、いつだって顔を見られる。母上とはそうじゃない。学校に入学して以来、夏休みとクリスマス、イースター以外に会えることなんてまずないのだ。それも、こんな風に父上抜きで。
 父上のことは尊敬しているし、好きか嫌いかと問われれば迷わず前者を選ぶだろう。けれど、父上の側にいるとどうも窮屈な気がした。常に叱られやしないかと気を張っていなければならず、くつろげない。
 母上にはそんなところがちっともない。いつも穏やかで、優しい微笑を浮かべている。ヴィーラも顔負けの美貌は年を経ても衰えず、僕はこんな母親を持たない奴らを気の毒に思っていた。
 僕は通りを往く学校の連中の目も気にせず、母上の手を取った。もしポッターやウィーズリーの奴に見られたら散々からかわれるだろうが、その時はその時だ。かまうものか。
 手を繋いだまま通りを歩いていくと、母上は何かほしいものはないかと尋ねてきた。ホグズミードの菓子は散々食べつくした後だったし、妙な物をほしがって母上を幻滅させるのは気が引けた。父上が仰るには、僕には物の良し悪しが判断できないらしいから。
 でも、折角訊いてくださったのに何もほしがらなければ、きっと気分を害されるだろう。僕はお茶が飲みたい、と答えておいた。母上は先ほどとは打って変わった笑みを浮かべ、【三本の箒】にいこうと言った。ホグワーツ時代、母上も例に洩れずあのパブに通い詰めていたらしい。なつかしいわ、とつぶやきながら僕の手を引いていく。
 【三本の箒】の看板が目に入る辺りで、母上がピタリと足をとめた。僕は繋ぎとめられて、思わずつんのめりそうになった。僕の身長はすでに母上を越していたが、それにも関わらず母上は地に深く打ちつけられた杭のようにピクリとも動かなかった。信じられない、と言いたげに見開かれた目。
「母上…?」
 僕の声が聞こえていないのか、一点だけを凝視し続けている。視線を追うと、三人の女の子達が目に入った。キャアキャアと甲高い声で女の子達と判断したのだが…――真ん中の子のローブが奇妙な形に蠢き、黒い影が滑りでてきた。いや、影じゃない。でかい黒犬だ。あの森番の役立たずの犬くらい大きい。
 母上は何も言わず、僕の手を振りほどいて犬の方に駆けていった。僕は驚いた。長いショールを地面と水平になるようになびかせながら走る様は文献で見たニホンのニンジャのようだ。
 黒い犬はピクンと耳をそばだて、迫る母上を振り返った。おろおろと左右を見回し、逃げ場を求めているようだった。迷ったのが黒犬にとって不運だった。なんと母上はあと数歩というところであろうことか飛びかかっていったのだ――でかい野良犬に!
 きゃあっ――女の子達の絶叫が耳に入り、僕はようやく自分を取り戻した。
「母上ーっ!!」
 噛まれるかもしれない。それが原因で病気にでもなったら? 僕は杖を取りだして走っていった。ところが。
「ああ、可愛いわね。わんちゃん? あなたのおウチは何処? 一人ぼっちなの?」
 母上は小さな子供に話しかけるような甘ったるい声で犬に話しかけていた。何処にそんな力があったのか、片手で首をつかみ、グイと持ち上げている。嘘だろう? 僕はゴシゴシと目をこすった。僕の目がおかしくないのなら、これは夢だ。そうに違いない。じゃなきゃ、どうして母上にこんなことができるんだ?
 母上は相変わらず優しい表情のまま、犬の身体を激しく揺すぶっている。犬は舌をダラリと出し、力なくうなっている。
「は、は、はは…、うえ…?」
「なあに?」
 母上は僕の存在をようやく思いだしたらしい。聖母よりもなお神々しい慈しみに満ちた表情で僕を見た。黒犬の巨体を顔より高い位置に持ち上げながら。犬の口からヨダレが垂れ落ちているのに母上は気づいているのか?
「そ、その……あの……」
「ドラコ。あなたを誘っておきながらごめんなさいね。私、この一人ぼっちのわんちゃんが可哀想で」
 可哀想? 表情と声を聞く限りでは確かにそうなんだろう……けど。母上がパッと手を離すと、犬は砂袋のように落ちた。まだピクピクと動いてるから死んではいないだろう。多分。
「この痩せた身体を見て。十分に食べてないのよ。私、このわんちゃんのおウチにいってくるわ。何か食べ物をあげて、少しはまともにしてあげなくちゃ」
 優しい優しい口調だったが、何故か質問を許してくれない雰囲気があった。
 母上はもう一度犬の首の根を引っつかむと、地面に倒れ伏した身体を引きずっていった。箒よりも重い物を持ったことのない母上が、自分の身体ほどもある犬を。父上にだってできないんじゃないだろうか。
 女の子達の視線も気にならず、僕は母上と犬の姿が見えなくなるまでその場にぼうっと突っ立っていた。