クローバーの花言葉

 身体を揺れ起こされ、目を開けると、ひどく不安そうに僕を覗き込むパンジーの顔があった。
「またひどくうなされていたわ。大丈夫?」
「……ああ」
 額が冷たい。手をやると、そこはじっとりと濡れていた。何か恐ろしいものから身を守るように掛け物を引き寄せ、身体にまといつけていた。夏の最中だというのに。
 パンジーは手を伸ばし、寝台横の小机に置いた燭台に火を灯した。振り返り、僕を見る目は何処か怯えているように見えた。
「お茶でも飲まない? 気分が落ち着くと思うわ」
 気分を奮い立たせるようにことさら明るく言うと、返事も聞かずにさっさと部屋をでていった。パンジーは何も聞こうとしない。毎夜のように僕がうなされる理由を。まるで知ること自体を恐れているように。
 夢を見るのだ。ホグワーツに通っていた頃に出会った【彼女】と見た【夢】を。

 ハーマイオニー・グレンジャーと僕との関係を知っていた奴は、おそらくいないだろう。パンジーと、ウィーズリーの末っ子以外には。彼女達にしたって、厳密に言うと知っていたわけではない。ただ、そうだったのではないかと感づいただけ。親しい友人にさえも打ち明けられない、秘めたものだったのだ。なぜなら、彼女の出身はマグル。いまだ純血を重んじる魔法界においては蔑まれてしかるべき存在であったから。僕自身も最初はそうだった。彼女の生まれを貶め、事あるごとに彼女をなじった。
 けれど、あれはいつだったか。そうだ、僕があのハグリッドの授業中に怪我を負った時、不仲にも関わらず、真っ先に駆け寄ってきたのはハーマイオニーだった。大嫌いな奴が怪我をしたから様子を見て、後で笑いものにしてやろう……そんな表情ではなかった。心配でたまらないといった様子で「大丈夫?」とか「医務室にいったらすぐによくなるわ」とか励ますようなことさえ、言ってくれた。それがハーマイオニーを意識し始めたきっかけだ。少しずつ、周りの目を盗んで話しかけるようになった。それまでのように馬鹿にした態度ではなく、スリザリン寮生に対するのと同じ態度で。最初は訝しんでいたハーマイオニーも僕の話に応じてくれるようになり、少しずつ距離を縮めていった。
 告白したのは四年生の終わり頃。三校対抗試合のダンスパーティーで、ハーマイオニーは見事に花開いた。彼女はまともな格好さえすれば相当の美人だとは思っていたが、予想以上だった。それまでハーマイオニーのことをからかっていた奴らまでが、彼女のことを意識しだした。四年間も側にへばりつきながら彼女の魅力に気づかなかったウィーズリーも心を動かされたようだったから、僕も焦っていたのだ。
 ハーマイオニーは二つ返事で承諾してくれた。決め手が何だったのかは分からないが、ともかく僕達はつきあうことになった。
 ただ、そこで大きな問題があることに気づかないわけにはいかなかった。父のことだ。
 我が父ルシウスは純血以外の魔法族を毛嫌いしていた。もし僕がハーマイオニーとつきあっていることを知れば、別れさせられるくらいではすまない。災いの芽は摘んでおくに限ると、学校を転校させられる……いや、そのくらいなら、まだいい。最悪、ハーマイオニーの命を狙うかもしれないと思ったのだ。何せ、ハーマイオニーは【あの方】の仇敵ポッターの親友なのだから。彼女を殺せば、息子を丸め込もうとする邪魔者を片づけられるだけではない。ポッターに打撃を与えたということで【あの方】に取り入ることだってできるのだ。危険に見合うだけのメリットがあれば、ルシウスなら何をしてもおかしくはなかった。
 皆から隠れて、ハーマイオニーと会うのはホグワーツ城を見下ろせる緩やかな丘だった。クローバーのそよぐ、緑の丘。飛行術の苦手な彼女のために、いつも箒に相乗りして連れていった。少しスピードを上げたくらいで、彼女は決まって声を張り上げ、腰をつかむ手に力を入れた。着くなり、口を押さえて、座り込んだのをまるで昨日のことのように思いだせる。
 ハァ、と苦しげに息を吐いて、仰向けに倒れたこともあった。血の気のない顔で目を瞑られると、少し心配になってくる。起こそうと肩に触れた途端、彼女の両手が首に伸びた。そのまま彼女の上に倒れこむと、何がおかしいのかクスクスと笑いだした。
 ――いつも、こんな風にできたらいいのに。
 残念そうにつぶやき、思い直したように言った。
 ――卒業したら…、周りの目を気にする必要もなくなったら。いつか、そんな時がきたら、あなたとずっとこうしていられる?
 敷き詰められたクローバーの上で、僕達は【いつか】の未来を誓い合った。【いつか】の日が訪れるのは、いつになるのか。そんな日が本当にあるのかどうか分からないままに。
 そして…――

「お待たせ。はい、ドラコ」
 いそいそとパンジーが戻ってきた。差しだされたグラスの中身を見ると、苦笑せずにはいられない。
「お茶じゃなかったのか?」
「ブランデーの方がよく眠れるかと思って」
「またうなされたら君のせいだな」
 一旦起き上がって、寝台に座り直すと、パンジーがぴたりと寄り添ってきた。彼女はシュミーズ一枚しか身に着けていなかった。透けるように薄い白の布地の下の、健康的な肌が艶めかしい。
 カチリとグラスをあわせ、酒を注ぎ込むと、彼女はジッと僕を見つめた。黒目がちな瞳は潤んでいて、泣きそうに見える。
「酒に弱いくせに、そんな一気に飲むから。しょうがないな」
「ドラコ……」
 グラスを取り落としてしまい、こぼれた液体がシーツを濡らした。縋りつくようにのしかかってくるパンジーの身体は重く、背中を冷やすシーツとは対照的に熱かった。
 【いつか】の約束の日は、もうこない。永遠に。ハーマイオニーはもういないから。死んでしまったのだから。まぶたの裏に甦るハーマイオニーの姿を消すように、パンジーに触れた。
 もう、いいんだ。いなくなった女のことを一生追い続けるわけにはいかないんだから。忘れてしまえ。夢で逢うのも、もう終わりにしろ。過去を追及せずに、ずっと想い続けてくれたパンジーに応えてやるんだ…――こう決心するのも、もう何度目だろうか。数えるのも億劫だ。

 ――ドラコ。
 決意を鈍らすように、ハーマイオニーの幻が現れる。
 ――四葉のクローバーは幸運をもたらすのよ。マグルの伝承で嫌かもしれないけど、あなたに……お守りよ。この先、離れ離れになっても、あなたが無事でいますように。
 僕にはお守りなんかいらない。僕が側についててやれないのだから。守ってやれないのだから、自分のお守りにしろとあれほど言ったのに。

「……ドラコ?」
 当惑したようなパンジーの声で我に返った。見てはいけないものを見てしまったようにふいと目を逸らすパンジーに、慌てて目元に手を当てた。泣いていたようだ。
「ごめん、パンジー……ここ最近寝れなくて疲れてるみたいだ。今日はもう……」
「私こそ、ごめんなさい。明日は早かったのよね……私、まだもう少し起きてるわ。先に寝てて」
 杖を一振りし、シーツの染みを消し去ると、パンジーはナイトガウンをはおってでていった。

 一人になっても眠りは訪れず、それから一睡もできなかった。部屋に戻ってこないパンジーを幸いに、誰にも顔を合わせずにすむよう日が昇るとすぐに屋敷を発った。パンジーを探しだして、何か言うべきだとも思ったが、考えがまとまらない。結婚から一月経った今なお、寝所を共にしながら身体を寄り添わせるだけ。彼女にはなんの落ち度もないのに、抱けない理由をどう弁解していいものか分からない。
 今回の任務はいい機会だ。【あの方】とハリー・ポッターとの決着はついたが、まだ各地に不死鳥の騎士団の残党が残っている。散り散りになった仲間達を集め、決起を計っているとの情報があった。そんな奴らが立てこもるのに適した場所は何処か。真っ先に思い浮かべたのはホグワーツだった。少数の仲間達とホグズミードで待ち合わせ、ホグワーツに向かいながら、僕は何処かホッとしていた。任務を前にした気負いは少しもなかった。ホグワーツにいき、任務を終えたらハーマイオニーと逢っていたあの丘へいこう。あの場所にいって、思い出が思い出にすぎないことをこの目で確かめたら、きっと忘れられる。そう思って。

 城の中は荒れ果てていた。もう一年以上無人だとは聞いていたが、人がいなくなっただけでこうもひどくなるのかと思わせるほどに。玄関ホールの隅には大きな蜘蛛の巣が張っていた。吹きさらしの渡り廊下から流れてきたのだろう。砂が堆積し、床も天井もまだら模様になっている。かつて多くの生徒で賑わっていた大広間はがらんどうになっていて、割れたステンドグラスがうら寂しい。手分けして探していったが、特に誰かがひそんでいる様子はなかった。
「アテが外れたか。帰るか」
 誰かがこぼした言葉に、違う誰かが反応する。
「いや、こうも荒れた様子を見せつけられると逆に怪しい。誰かが術を使って痕跡を隠している可能性もある」
「騎士団の奴らにそんな知恵が回るもんか」
「じゃ、もしも騎士団の残党のアジトがここで、後々それが【あの方】の耳に入ってもいいのか? 【あの方】は無能者を嫌う。手落ちがあったとすれば、どんな叱責を受けようと仕方ないのだぞ」
「マルフォイ、どうする?」
 意見を求めることで、マルフォイ家の次期当主を立てたのだろう。こんなところでまで身分が問われる。無法者どもの集まりなのに、まったくお笑い草だ。
「そうだな……まだ探していないところはあるか?」
 寮だ、という声が上がった。寮はホグワーツが学校として機能しなくなった後も、なお他寮の者を寄せつけないようになっているらしい。今ここにいる仲間のほとんどがスリザリン寮出身で、レイブンクロー寮出身者が三名、ハッフルパフ出身者が一名、グリフィンドール寮出身者にいたっては一人もいなかった。
「なら、決まりだな。それぞれ自分の出身だった寮にいって、なんとか中に押し入れ。おそらく合言葉は学校が閉鎖するときのものと変わっていないはずだ」
「グリフィンドールはどうするんだ?」
「僕が見てこよう。寮の位置は大体知ってるからな。外から様子を探ってくる」
 終わり次第、玄関ホールで集まることを取り決め、仲間達と別れた。
 ひとまず校庭にでて、競技場へと足を向けた。選手達の控え室に入り込み、予備の箒の中から一番クセのない箒をつかむと、空に向かって駆けだした。
 グリフィンドール寮のある塔は、城の中で一番高い位置にあると聞いたことがあった。まっすぐに塔に向かい、窓から中を覗き込んでみた。室内は暗かったが、特になんの異常もない。
 一旦窓から離れると、勢いをつけて蹴りつけた。派手な音を立てて、ガラスが割れる。何度か蹴りつけ、窓枠から尖ったガラスの残りを全て取り払ってしまうと、中に入った。
 外から見ているよりも、実際中に入って見た方がひどい有様だった。肖像画という肖像画から人の姿は消えていたし、床には壊れた物が散乱していた。随分慌てて寮を逃げだしたのだろう。壁にかけられた絵画や盾もところどころ曲がっていて、今にもずり落ちそうに見える物もある。箒から下りると、今さっき割ったばかりのガラスが踏まさり、嫌な音が立った。
 談話室には誰もいない。となると、誰かが隠れられるとすれば……二つの扉に目をやり、まずは左側を開けた。思った通り、そこには階段が隠されていた。男子寮、女子寮のどちらだろう。
 下から順々に最上階の部屋まで検めていったが、特に何も見つからなかった。階段を下りていき、談話室へのドアを押し開けた。その瞬間、ドンッと鈍い衝撃が身体に走った。一体何が、と考えるまでもなく、両膝が床についていた。前かがみに倒れた僕の手を、誰かの足が踏みつけた。
「おい! いきなり攻撃をするなんて……」
「こいつは敵だ! 確かめなくたって分かる。マルフォイだ、知ってるだろう?」
 聞き覚えのある声だと思ったが、誰かは分からない。思いきって顔を上げてみると、四、五人の魔法使いに取り囲まれていた。頭角らしい男が、さらに攻撃しようとする男を押し留めていた。暴れる男の顔には見覚えがあった。確か同じ学年のレイブンクロー生だ。名前までは思いだせない。
「死喰い人なんだ、コイツは! 【あの人】の手下だ……!! 殺すんだ、今すぐに!」
「駄目だ! 敵だからといって、すぐに殺すなんて! 規律を乱すわけにはいかないッ!」
 まさか、本当に騎士団の連中が隠れていたなんて…――仲間を呼ばなくては。
 その瞬間、身体の内側から激しい衝撃が走った。また攻撃されたのかと思ったが、違った。衝撃を少しでも緩めようと口を押さえると、手のひらにはべっとりと赤いものがついていた。血だと思った瞬間、さらに激しい衝撃が走る。咳き込んだだけなのに、苦しい。息ができない。
 指先が震えだし、視界の端の方から少しずつ影が迫ってきた。まぶたが重い。何か言い争う声と、床を伝って振動が伝っていたが、よく分からない。
 死ぬのか。僕は、このまま……。
 ズルリと力が抜けて、完全に床に倒れた。身体が物になってしまったように、感覚がなくなっていた。最後にもう一度……、もう一度だけあそこにいきたい。
 あそこ……? 何処だ?
「馬鹿ッ、何やってる! 逃がしやがって……!!」

 身体がふわふわと動く。感覚があるのは手だけだ。何かを握っている。硬くて、ゴツゴツとした物を……箒だ。何故、箒を握っているんだ? 空を飛んでいる? 何処へ向かっているんだ? 血まみれの手が、箒から離れた。一瞬、身体に羽が生え、舞い上がったような感覚があったが、次の瞬間には地に落ちていた。斜面をゴロゴロと転がっていき、あちこちを擦ったようだった。
「……ぅ、く……」
 身体を起こそうとしたが、それはかなわなかった。喉の奥にたまっていた血を吐くと、呼吸が少しだけ楽になった。乗り手のいなくなった箒が、青空を泳ぎ、やがて見えなくなった。そして、それと入れ替わりに視界に入ってきたのは人の足だった。
 どうやってか逃げだせたのに、もう追っ手がきたのか……どうせ、もう長くはない。どうなろうと知ったことじゃない…――
「……そ、んな……まさか……」
 ふわふわの髪をなびかせて、僕を見下ろしているのは幻だ。生身の彼女はいなくなったのだ。僕の目の前で、仲間の手にかかって死んだ……。
 ――いつかの約束を覚えている、ドラコ?
 ハーマイオニーがそっと問いかけてくる。
 かぐわしいクローバーの丘での誓いを忘れたことなんて一度もない。いつも頭の片隅にあって、消えてくれなかった。
「ああ、そうか……君は…、ここにいたんだ……」
 ハーマイオニーもそうだったんだろうか。約束したから。彼女の想いはここに辿り着いたのか。
 手が動かない。彼女に触れられないのがもどかしい。穏やかな笑みを浮かべて、ハーマイオニーが近づいてくる。太陽を後光に、きらきら輝く髪がとてもきれいだ。ぼさぼさだって馬鹿にしてばかりだったけれど、好きだったんだ。伝えられないままだと思っていた。
「約束…、果たすよ……ハーマイ、オニー……」
 これからは、ずっと一緒だ。いつまでも、ずっと一緒にいよう…――
 瞳を閉じると、柔らかな唇が重ねられた。サワサワ……サワサワ……。風に揺れる草の音が、少しずつ、小さくなって消えていく……。

(2006/07/9)