嫌い嫌いも好きのうち?
四階の廊下は【賢者の石】を守っていた三頭犬や、恐ろしいトラップの数々がなくなった後も滅多に寄りつく生徒はいなかった。というのも、薄暗い廊下には中世の騎士が身に着けていたらしい鎧兜やクリーチャーの石像が居並んでいて、通りがかるだけで襲いかかってきそうな不気味さが漂っていたからだろう。
行動力のある一部の生徒達――ハリー・ポッターとその友人達は、一年生の頃に味わった苦い経験をあえて思いだしたくないのか、四階にいくのは極力避けていたし、破天荒で知られるウィーズリー家の双子が、何も知らない新入生を肝試しと称して連れていくことはあったが、それも年に一、二回。
ここに定期的に足を向けるのは、ジニー・ウィーズリーくらいなものだ。彼女が少なくとも週に二度そこに足を運ぶのは、何も兄達のように誰かを連れていっておどかすためではない。この廊下にはジニーだけの【秘密の部屋】があるのだ。それはサラザール・スリザリンの残した洞窟めいた不気味な部屋とは違う。グランドピアノがただ一つ置かれた、誰からも忘れ去られた部屋だ。
二年生の冬休みが終わりに近づいた頃から、ジニーはそこで歌の練習をするようになった。ジニーはその部屋に行くのが好きだった。防音魔法が完璧になされているそこでは思う存分歌うことができたし、人目を憚ることなく恋人の【彼】と会うこともできた。彼――そう、誰からも恐れられる【闇の帝王】の前身、トム・リドルの【記憶】と。
ジニーにとって、リドルと一緒にこの部屋にいる時間は何にもまして大切だった。彼の奏でる音色に歌を乗せると、心が溶けあっていくように感じ、満たされていく。
「じゃ、そろそろ終わりにしようか」
「もう?」
だから、ピアノのフタを閉めて立ち上がったリドルに、ジニーは今日もおなじみの返事をした。二人きりの時間が終わるのが、たまらなく寂しい。
「またくればいいよ。これ以上君を連れ回していたら忠実な騎士達に見つかってしまう」
「パーシーはそうかもね。でも、見つかりっこないわ。フレッドとジョージなら分からないけど……でも、あの二人は自分達の遊びに夢中であたしのことなんか探したりしないと思うの」
暗にもう少しだけここにいたいのだと訴えてみたが、リドルはきっぱりと言った。
「フレッドもジョージも妹想いな点ではパーシーに負けず劣らずだよ。いつも君に目を光らせている。さ、帰ろう。また明日にでもくればいいじゃないか」
「……うん」
リドルは渋々頷いたジニーをエスコートするように手を取った。
すでに日は落ちかけ、群青色に染まった東側の廊下にはひんやりとした空気が流れていた。昼間以上に、嫌な感じだ。一人だったら、とてもくる気にはなれないだろうとジニーは思った。
「怖い?」
心を読んだように言うリドルに、ジニーは慌てて首を振った。
「ううん、全然!」
「隠さなくてもいいんだよ。ごめんね、ジニー……まだ思いだすんだろ、あのこと」
去年の事件のことを言っているのだ。死に瀕した【秘密の部屋】の事件以来、ジニーは暗いところが怖くなった。それはリドルと親しくなった後も変わらない。いくら彼が改心した、もうあんなことはしないと思っていても、暗いところにいると身体がこわばってしまう。またあの恐ろしい部屋に引きずり込まれるのでないかという不安が襲ってくるのだ。
「大丈夫。トムと一緒だから、怖くない……ホントよっ」
彼が事件のことを後悔しているのが分かるだけに申し訳なくて、そう言わずにはいられなかった。
ジニーの優しい嘘を見抜いたのだろう。リドルは「ありがとう」と言ったきり、黙り込んでしまった。
一旦階段を下り、三階の真ん中の階段の方へと向かっていく中、ジニーは何か話題を変えなくてはと落ち着きなく辺りを見回していた。大広間に近づけば、リドルは姿を消してしまう――誰かに存在を知られれば、ダンブルドアに消されてしまうからと、リドルは人目につくのを極度に恐れているのだ。こんな気まずい別れ方をしたくなかったし、二人で過ごす時間を最後まで楽しみたいという気持ちもあった。
何か、言わなくては。何か、何か…――
「あっ」
「どうしたの?」
「マルフォイが下に」
ジニーはガラスのはまっていない剥きだしの窓から身を乗りだし、中庭を見下ろした。ほのかな明かりにもまばゆいほどに光る見事なブロンドは間違いない。ホグワーツに入って以来の天敵、ドラコ・マルフォイだ。それに彼が駆け寄っていく先には、
「ハーマイオニー! あの人、またハーマイオニーにひどいことをするつもりだわ」
ベンチに腰かけたまま、近づいていくマルフォイにも気づいていないらしい。ハーマイオニーは顔も上げなかった。ハリーとロンは、大事な友達を放ったらかしにして何をしているんだろう!?
助けてあげなきゃ――身を翻したジニーは、能面のようなリドルの顔に向き合って驚いた。目が合うと、リドルは笑った。なんとか捻りだしたような、不自然な笑みだった。
「目ざといね、ジニー。そんなに彼が気になる?」
「彼……って、マルフォイのこと? 嫌いだから目につくの。あの人いつもひどいんだもの。廊下で会うたび、からかってきて……トムだって知ってるでしょ?」
「嫌いだから、ねえ」
「なに? それ以外に理由がある?」
含みを持たせた言い方に、ジニーはイライラと言った。いつものリドルではなかった。わざと考え込むようにのろのろと喋っている気がした。今、こうしている間にもハーマイオニーがマルフォイに呪いをかけられているかもしれないのに。
リドルは一緒に階下に行く気はないらしい。たった今までジニーのいた場所にヒョイと腰かけ、足をぶらぶらさせた。
「トム、危ない……!」
びっくりしてローブを引っ張るジニーに、リドルは素っ気なく言った。
「平気さ、どうせ落ちたって死にやしない」
「だけど……」
ジニーは突き放すような声音に僅かにたじろいだ。その目に怯えが混じったのを見て取ると、リドルは身体をよじってジニーの頭を撫でた。
「ごめん、ジニー。君が彼を見つけるのがあまりにも早いから」
「……えっ?」
ぽかんと口を開けたまま、ジニーはリドルを見つめた。すると、リドルの頬が少しだけ赤くなったように見えた。彼は目を伏せ、気まずそうに言い足した。
「マルフォイのことが気になるのかと思ったんだ……昔、ポッターを見つける時みたいに早かったから」
「……トム? あたしが、マルフォイを好きだと思ったの? なんで? あたし、あの人のこと、大っ嫌いなのに」
「いや、ほら。嫌いってことは、それだけ関心があるってことだし……それに、マルフォイの方も君を見ては突っかかってくるだろ。好きな娘の気を惹きたくて、わざとあんな風に振る舞っているんだと……ジニー?」
ジニーは声を立てて笑いだした。
「ト……、トム! まさか、そ、そんなこと思いつくだなんて……」
目の端に浮かんだ涙を拭いながら、ジニーはなんとか笑いをこらえようと必死だった。この年上の恋人が、思っている以上に自分を気にかけていることは知っていた。ハリーのことを話題に出すと、いまだに彼の顔がこわばるのが【未来の彼】を倒したせいだけではないことも。けれど、まさか、ドラコ・マルフォイにまで嫉妬するとは思わなかった。
「ひどいな。そこまで笑うことじゃないよ」
「だ…、だって……ああ、ごめん、ごめんなさい、トム! 怒らないで…、悪かったわ! でも、ねえ。あたしがマルフォイを……っていうのも、マルフォイがあたしを好きになるっていうのもありえないと思うわ」
「マルフォイはかなりハンサムな部類だろ」
「トムには負けるわ。それにあの人、トムみたいに優しくないもの」
「まあ、君がそうでも……マルフォイが君を好きな可能性は」
「ないわ。好きな女の子をいじめるはずがないでしょ? トムならどう?」
彼の言葉を遮って否定した途端、ジニーは押しつぶされそうになった。力強い腕の中で、窒息しそうなほどに。気づけば、向かい合うようにリドルの膝に座らされていた。
「……たまに、こうしたくなるかな」
耳元でささやくリドルの首に、ジニーは両手を絡めた。彼の肩越しに見下ろした中庭に、去っていくマルフォイと、それを見送るハーマイオニーの姿が見えた。決闘をした様子はないし、ハーマイオニーは一瞬マルフォイを追いかけようとしたように見えた。
好きな娘の気を惹きたくて、わざとあんな風に振る舞っている――先のリドルの言葉を思いだし、ジニーはまさか、と打ち消した。あの純血至上主義のマルフォイが、マグル出身のハーマイオニーを好きになるはずがない。でも、好きになったとしたら? 彼女がマグル出身だから素直になれないだけだとしたら?
首筋に熱い息を感じ、ジニーはふるりと震えた。肩を撫でる手つきに注意を払って、余計なことは考えないようにしたが、チラリとかすめた考えは急速に成長していく。ハリーとロンに知られたら、つまらない憶測だと散々笑われるに違いない。でも。
「トム…、大好き……」
きっとこんな風に素直に気持ちを言い表わせるのは、幸せなことだ。喘ぐようにジニーはつぶやいた。
(2006/06/02)