カタルシス
四階の人気のない暗い廊下にある、壁にぴったりと張りついた石柱の一つには、とある仕掛けがあった。火の灯った上部にばかり目を奪われがちだが、足元をよくよく探ってみれば、ヒビ割れで自然生じたようにも見えるくぼみの真ん中にボタンがあるのだ。押せば石柱は扉のように左右にぱっくりと開き、小さな部屋への通路ができる。
グランドピアノがたった一つ置かれたその部屋の床にホコリはなく、室内を照らす燭台に刺さった蝋燭は真新しい。ピアノも隅々までピカピカに磨かれていて、漆黒の表面には指紋一つ見当たらない。不自然なまでに清潔感があった。まるで魔法に守られているかのように。
リドルはピアノの椅子に腰かけ、入り口側の少し離れたところに立つジニーに優しい眼差しを送っていた。部屋の隅々まで響き渡る、澄んだソプラノ。柔らかでいて、よく通る声が耳に心地いい。ありきたりなメロディも歌い手によっては心揺すぶるものとなることを、リドルはその時初めて知った。両手を広げ、胸を張って歌う姿はとてもきれいで、見慣れたジニーが何処かに消えて、何か神聖なモノが宿ったようにさえ感じられる。
鳥が水面に降り立つようにそっと最後まで歌い終えると、はにかみながらジニーが歩み寄ってくる。ほんのりと染まった頬は熱唱のためだろうか。
「どうだった、トム?」
「聖歌隊に入りたいって言うだけある。とても上手だったよ、ジニー」
「本当っ? ありがと。トムにそう言ってもらえると自信が湧くわ」
ジニーは嬉しそうに笑った。
ホグワーツには少人数で結成される聖歌隊がある。聖歌とはいってもキリスト教の賛美歌ではもちろんない。数千年の昔、マグル界から分断された魔法界はその信仰のほとんどが廃れてしまっている。クリスマスやガイ・フォークス、ハロウィーンもただどんちゃん騒ぎをする祭として残っているにすぎず、マグル出身者はいざ知らず、純粋な魔法族で本来の意味を知る者は少なくなってしまった。
聖歌隊の呼称も同様だ。ホグワーツの聖歌隊は主に創設者や、過去の偉人を讃える歌を紡ぐ。一年生から七年生を交え、全ての寮からそれぞれ男女五名ずつ選出される。生徒達の間ではクィディッチのメンバー同様、聖歌隊の一員になるのはこの上もなく名誉なことと考えられていた。
ジニーがその聖歌隊に入りたいと言いだしたのは、年が明けた頃だった。彼女の言葉に、リドルは少なからず驚かされた。それまで人前で目立つのを嫌っていた彼女が、どういう心境の変化だろうと。
ジニーに訊くと、
「うーん…、そうね、どうしてかしら。何か自信を持てるものがほしかった……のかな。
あたし、お兄ちゃん達のこと大好きだけど、コンプレックスでもあったの。皆それぞれ光るものがあるのに、あたし一人なんの才能もないって思えて……。
家族は皆、あたしが末っ子だし、一族中で唯一の女の子だからって可愛がってくれたけど、ただそれだけで注目されるのは嫌だった。それに、誰それウィーズリーの妹って言われ続けるのも……だから、多分何か他人から認められるものがほしかったんだと思う」
と、自分でも答えを探しているような、たどたどしい答えが返ってきた。
他人から認められるもの――その昔、自分もそう思っていたと、リドルは過去に思いを馳せた。
純血主義のスリザリンで混血の身の上はつらかった。孤児院での他人のお情けに縋る暮らしよりは遥かにマシだったが、それでも周囲から刺すような視線を向けられるのは嫌でならなかった。悪いのは自分ではなく、生まれ。純血の、それもサラザール・スリザリンの偉大な血を穢した父親が悪いのだと思わねばやっていられなかった。
誰よりも力を持てば。恐怖でもいい、自分を認めさせれば、きっと誰も自分を傷つけることなどできない。【十六歳までの自分】を【未来の自分】に結びつけるのは、おそらくこの想いなのだろうと思う。
想いは同じなのに、ジニーは何故こうも明るい面へと向かっていけるのだろう。リドルはまた歌い始めたジニーを見つめていた。彼女を観察していれば、答えが導きだされるような気がしたのかもしれない。
まだ歌に集中していない時にそうしたのがまずかったらしい。視線を意識したジニーの口がすぼまり、
「……あっ、今のところ。半音ずれたよ」
「えっ?」
「ここ」
リドルは鍵盤に手を置き、たった今ジニーが歌ったばかりのフレーズを弾いてみせた。ジニーは信じられないというようにパチパチと目をまたたく。
「……トム? トムって、もしかしてピアノ弾けるの? 音、聴き取れるの?」
「ああ、知らなかったっけ? 僕のいた孤児院にあったから、暇な時に練習をしてたんだ」
本と同じで、ピアノは自分だけの世界に浸れるから好きだった。晴れている時、外で遊ぶ孤児達を尻目に、何時間でもピアノに向きあっていたものだ。
ごく自然にそう言ってのけたリドルに、ジニーは目を輝かせた。
「すごいっ、すごいよ、トム…! ね、今でも何か弾ける? 聴きたいわ、なんでもいい。何か弾いて」
ピアノになど触れたこともないジニーにとっては、左右別々に手を動かせるだけでも尊敬ものなのだ。ましてや音を聞き分けることができるなんて神業に近い。
興奮してはしゃぐジニーに、リドルは肩を竦めた。
「ずっと弾いてないし、下手だよ」
「いいの。聴きたい。お願い」
両手を合わせて熱心に言うのを断りきれず、リドルは仕方ないというように硬い鍵盤に指を這わせた。ジニーの視線を意識して、今度はリドルの方が硬くなる番だった。血が上る頬とは反対に、指先はどんどん冷たくなっていく。手が言うことを聞かず、満足な音がでない。
リドルはふっと息を吐いて、力を抜いた。ボールを一つ持つ程度に手を丸めると、小さな頃からよく聴いていた曲の一つを弾き始めた。曲名は知らないし、譜面を見たこともない。耳で聴いただけのメロディを頭に思い浮かべ、なぞっていった。何処か物悲しくも、美しい旋律が胸に残っていた。弾いていくうちに、リドルは自分の奏でる音に夢中になっていった。自分が何処にいるのかも忘れて、ただ音楽にのめり込んでいく。
ハッと我に返ると、ジニーが手を叩きながら目に涙をためていた。
「トム、すごい……とってもきれいな音。きれいな曲だった……あたし、涙がでそうになったわ」
「嬉しいけど、大げさだよ」
気恥ずかしさからそう答えると、ジニーは首を振る。
「そんなことない。本当に……トム、あたし、トムの手が好きよ」
「手?」
リドルは自分の手に注目してみる。他の箇所同様白くなめらかな肌に、すんなりと伸びた指と卵形の爪。サイズが小さければ、女のそれと言っても通るほどだ。
けれど、ジニーは何を言いたいのだろう。
首を傾げるリドルに、ジニーは目の端をこすって笑う。
「あんなに優しくて、心に響く音をだせるトムの手が好き」
「僕の手はもう血で汚れているんだよ」
十六歳の時点ですでになんの罪もない少女を殺し、その汚名をハグリッドになすりつけた。その後、【ヴォルデモート卿】となって多くの人を死に至らしめた【未来】を考えると、褒め言葉を甘受するのは気が引けた。
ジニーはリドルの口にださない後悔の気持ちを感じ取ったのか、首を振った。
「トムの手は、きっと人を感動させるためにあるんだって……あたしは思ったの」
リドルは微笑し、ありがとうとささやいた。どんな過ちも償いの方法があるのだと…――過去形ではなく、あえて現在形で言ってくれたことが、ジニーの思いやりに思えた。
(2005/01/02)