My flower
このところジニーは急に大人びた。今は身長がぐんぐん伸びる時期なのだろう。顔が気持ち小さくなった気がするし、ふっくらとしていた手足は長くなって丸みがなくなった。ローブから覗く足は転んだら折れそうなほど華奢だった。
人間は成長するものだ。そんな当たり前のことを都合よく忘れていた自分にリドルは苦笑する。出会ったのは彼女が十一の時。それから一年以上経っているのだから当然のことだというのに。
いつの間にか目線も近づき、前ほど屈まなくても顔を覗き込めるようになったことに気づき、リドルの心に苦いものが広がる。身体の成長と共に少しずつ変わっていくジニーを見ていると、騙されたような複雑な気分になった。
とは言っても、ジニーのことが嫌いになったわけではない。こぼれるような笑みを浮かべる小さな女の子に示した愛情をそっくりそのまま、口元を押さえてはにかんで笑う少女に捧げていた。
リドル自身、胸を曇らす微かな苛立ちの正体が分からなかった。その日、ジニーと顔をつきあわせるまでは。
「トム。見て、ママが新しいセーターつくってくれたの。ね、似合う?」
パチパチと勢いよく爆ぜる暖炉の前で、ジニーはつまさきで軽やかにターンする。少し大きめのセーターは彼女の瞳と同色で、翻る赤毛によく映えた。
はしゃぐジニーを見て、リドルは自然と口元が緩むのを感じた。
十二月は年末の追い込みとばかりにテストの連続で忙しかったせいもあるが、ここ数週間ジニーとまともに顔をつきあわせる時間はなかった。テスト期間でも、いつもなら人気のない図書館で会うことができたが、先月アズカバンから脱獄した凶悪犯がホグワーツ城内に侵入してきて警戒の目が一層強まったため、危険は冒せなかった。
もし誰かに見咎められたら、その時が自分の存在を消される時だとリドルには分かっていた。寛大なダンブルドアとはいえ、ヴォルデモート卿を赦す慈悲は持ちあわせていないだろう。
そうやって自重していただけに、クリスマスを二人で過ごせるのが嬉しかった。休みの間はジニーの家族にさえ気をつければ、毎日でも会うことができる。
「よく似合うよ、ジニー。いつもそうけど、今日は特別可愛く見える」
パッとジニーは顔を輝かせる。
「ホント?」
「僕の言葉が信用できない?」
「だって……トムはすごい嘘つきだもの」
クスリと笑ってジニーが洩らす。冗談とも本気ともつかない響きに、リドルは落ち着かなくなり、自分を見上げるトビ色の目から視線を逸らした。
「いいの。お世辞でも嬉しかったから。ありがとう」
ジニーの声は淡々としていて、リドルはそれ以上何も言えなかった。
去年までは確かにジニーに嘘ばかりついていたが、今は違う。そう口に出したかったが、なんの信憑性もない言葉だと自分でも思った。今もジニーの弱みにつけ込んで存在しているというのに、誰が信じるだろう。
楽しい空気が一気にしぼんでしまった。
ジニーはベッドに腰かけた。睫毛を伏せた表情はさっきまでとはガラリと違う。少し尖らせた口元も子供らしいあどけなさというよりも、キスをねだっているようで、ほのかな色気すら感じさせる。
彼女がこんな表情をするのは、はじめて見た。突然、彼女が見知らぬ人になったような錯覚にとらわれ、リドルはまじまじとジニーを見つめた。視線を受けて、ジニーが見上げる。視線と視線が強く絡まりあう。
重苦しい空気を破ったのはジニーだった。
「なんだか、今日のトムって変。どうしたの?」
にっこり笑って、そう訊く。リドルが好きだった子供みたいなその笑みは、今は単に無邪気さを装っているように見えた。
何か大切なものを失ってしまったようにズキリと心が疼いた。その痛みに気づかないふりをして、リドルはジニーの前に立った。すべすべの額に触れて、後れ毛を優しくかき上げる。ジニーがそっと目を閉じると、顔を近づけた。
あとほんの少しで触れる――そこでリドルは動きをとめた。柔らかな花の香りが鼻先をかすめたからだ。ジニーが訝しげに片目を開ける。
「トム?」
「これ……香水?」
「あっ、うん。気づいてくれた?」
ジニーは嬉しそうに両手を組み合わせると、くるりと後ろを向いて、ベッドに備えつけられている棚に手を伸ばした。振り向いた彼女の手には小さなガラス瓶が収まっていた。ジニーが軽く揺らすと、中の淡いピンクの水がチラチラと光を踊らせた。
「これもクリスマスプレゼントなの。早速つけてみたんだ」
誰から贈られた、とは言おうとしない。リドルが促すのを待っているのか、見上げる視線を外さない。
プレゼントに香水を贈ってくる相手なんて男だと容易に察しはつく。こんなものを贈る相手といえば、ハリー・ポッターくらいしか思い浮かばなかった。
「そう、よかったね」
機械的に答える自分の声の冷たさに気づき、リドルはすぐに後悔した。けれど、一度口にしてしまった以上、もう取り返しがつかない。
「トムは香水嫌いなの?」
うつむいたジニーの声には明らかな落胆の響きがあった。
「嫌いじゃないよ。でも、君くらいの年の子には早すぎると思って」
「あたしが子供ってこと?」
声が少し震えていた。
まさか泣いているのかと、慌てて顔を覗き込もうとしたリドルの顔に何かがぶつかった。ジニーが握りしめたクッションを投げつけてきたのだ。一つ、二つ、三つ…――ベッドの上に置いてあるクッションが次々と投げつけられる。クッションだから、当たったところで痛くもなんともない。けれど、ショックでリドルは立ち尽くした。
ジニーは今まで一度だって、こんなことをしたことはない。何がそんなにジニーの気に障ったんだろう。
顔を紅潮させたジニーの顔は歪んでいた。リドルを睨みつける目には今にもこぼれ落ちそうなほど涙をためて、唇をへの字に曲げている。
「トムなんか、嫌い!」
声をかける間もなく、ジニーは部屋を飛び出していってしまった。勢いよく閉められたドアの音が、呆然と立ち尽くすリドルの耳に反響する。気が抜けたように、リドルはズルズルと床に座り込んだ。
*****
ジニーが出ていってから数時間は経つというのに、リドルは立つことも忘れて、脱力した身体を床に預けていた。投げつけられた言葉がグルグル頭を回って、いつまで経っても離れなかった。怒りと悲しみに潤んだトビ色の瞳が目に焼きついていた。
(こんなはずじゃなかったのに)
怒らせるつもりはなかった。確かに冷たい言い方をしてしまったのは自分が悪かった、とリドルは反省した。一度自分を消した相手――ハリー・ポッターのことを考えると、どうしても子供じみた考えにとらわれてしまう。だから、ついあそこまで言ってしまったのだ。
床の硬さが段々と身体をこわばらせていく。リドルはようやく片手をベッドの上に置いて腰を浮かせると、のろのろと部屋を見回した。
暖炉の奥で踊る炎が薄暗くなった部屋を赤に染め上げていた。朱や紅ではない、明るい金色の光をはらんだその色は、ジニーを思わせた。くせのない柔らかな髪と同じ色だったから。
「ジニー……」
答えるものはないと分かっていたのに、口からこぼれた。自分でも聞いたことのないほど気弱な声だった。
長くなった髪を撫でていた手を見て、リドルは溜め息を吐く。空っぽの両手は虚しい。ジニーの温もりはもうとっくに失せていた。
何かでそれを埋めようとしたのか、リドルはふと目についた香水の瓶を手に取っていた。さっき部屋をでていく時、ジニーがベッドに放り投げていったのだ。
淡い色あいは優しく、閉じた栓の上からも微かに香りが漂ってくる。
《トムは香水嫌いなの?》
先のジニーの問いかけが聞こえた気がした。
確かに嫌いじゃなかった。だが、ジニーからあの香りを感じた時は許しがたいものに思えた。きつくもなく、クセもない、いい香りだったのに。ジニーにぴったりの、優しくて温かな春の日差しの中で揺れる花を思わせる…――
《あたしが子供ってこと?》
怒りと悲しみに歪むジニーの顔が頭に浮かぶ。
(ああ、そうか)
リドルはようやく自分の中にくすぶっていた不快感の正体をつかめた気がした。
香水が嫌だったのでも、ましてやハリー・ポッターへの感情のせいでもない。ジニーの成長が妬ましかったのだ。
人間のように振る舞ったところで、やはり今の自分はただの【記憶】にすぎず、人の命を吸い取って完全に実体化でもしない限りは、いつまでもこのままの姿だ。だが、ジニーは違う。少しずつ……ちょうどつぼみが花になるように、どんどん成長し、きれいになって…――そして、いつか命は還っていく。生きとし生けるもの全て、逃れようのない自然の摂理だ。
この関係がずっと続いたらいい。そんなエゴから、ジニーをつぼみのままで留めようとした。【大人】を思わせるものは遠ざけ、いつまでも【子供】でいてほしかった。錯覚でもいいから、この幸せが永遠であると思いたかったから。
「ジニーが怒るのも当たり前だな……」
自分の願いを押しつけて、ジニーの気持ちを無視して。
口から乾いた笑いが洩れる。自分の馬鹿さ加減がおかしくてならなかった。【ヴォルデモート卿】の最も軽蔑する愚かさを、自分の中に見い出して。
笑いはやがて吐息に変わり、リドルは頭をかきむしって目を伏せた。
そのままの姿勢でどれだけいただろう。目の前に黒い影が落ちていることに気づき、リドルは顔を上げた。ジニーの家族を気にすることも忘れていた。もうどうにでもなれという自暴自棄の気持ちであったことは否めない。それでも、咄嗟に右手に魔力を集中させ、証拠隠滅する用意は整えていた。
手を突き出し、すんでのところで魔力の放出を止めた。薄緑に光る手の先にいるのはジニーだった。目を見開いて、リドルを見ている。
「トム……今、何しようとしたの……」
驚きの次に怯えの色が広がった。
「また、あたしを殺すの? 今度もやっぱり嘘だったの?」
「ジニー、僕は…――」
近づこうと立ち上がった一歩、ジニーもまた同じだけ後退る。縮まらない距離にリドルは唇を噛んだ。苦しげな表情を浮かべ、足をとめる。
「殺さない……君には嘘ばかり言ってきたけど、これは本当だ。これからも本当のことしか、言わないから」
だから、信じてくれ――哀願するように紅茶色の目がそう言っていた。
ジニーは両肩を抱きしめてなんとか震えを抑えようとする。頷いて、安心させるように少し微笑んで見せる。
「分かったから……信じる」
おそるおそるリドルに近づくと、慰めるように手を軽く握りしめる。冷えた手を温めるように、そっと包み込んだ。
「謝りにきたの。さっきは嫌いなんて言って、ごめんなさい」
「あれは僕の方が」
言いかけた言葉にジニーが首を振った。その瞬間、あることに気づいてリドルは息を呑んだ。
あの香りがなくなっている。気づけばジニーの髪は少し濡れていたし、手もいつもより熱かった。まさかさっきの言葉のせいか。
「トムが言ったのはホントのことだもの。あたし、少しでも大人に近づきたくて、だから……嫌な思いさせちゃって本当にごめんなさい」
「ジニー、一つ訊いてもいいかな」
「なあに?」
「あの香水、誰がくれたの?」
ジニーは一瞬キョトンとしたが、すぐにクスクス笑いだした。
「あれはビルのプレゼント。ほら、前に話したことあるでしょ? エジプトにいる一番上のお兄ちゃん」
リドルもこらえきれなくなって笑いだした。家族が声を聞きつけてくるかもしれないとジニーが不安になるほど大きな笑いだった。リドル自身、それがハリーへの嫉妬からの解放感からきているのは分からなかったが、ただおかしかった。
ひとしきり笑いが止むと、ジニーがちょっと顔をしかめてみせる。
「トムって、すっごく無関心なんだから……少しは気にしてくれるかなと思ったんだけど、全然そのこと訊いてくれないんだもの。あたしばっかりトムのこと気になって、なんだか不公平だわ」
「僕が無関心? 僕が、君に?」
また笑いだしたくなる気持ちをこらえて、リドルはジニーの手をひいて窓辺へいった。曇った窓をこすって、外を見られるようにする。地上は穢れを覆い隠すような一面の雪景色、上を見上げれば赤みがかった灰色の空から綿毛のような雪が次から次へと舞い降りてくる。
「きれいね」
つぶやくジニーは夢見るような大きな瞳をリドルに移す。その目に込められた熱さをリドルは感じた。花びらのように色づいた唇に触れると、そっと唇を近づける。
いつかの未来…――終わりの時を迎えても、今のジニーは自分のものだ。自分だけが彼女を必要としているのではない。彼女も自分の影響を受け、必要としてくれる。そのことで胸が熱くなる。
微かな痛みも、それ以上の喜びで打ち消せるものなのかもしれない。
「メリークリスマス、ジニー」
繋いだ手に一層力を込めて、リドルはささやいた。また次の年もこうしていられたらいいと思いながら。
(2003/12/25)