一つのピリオド
『ねえ、トム』
【頭の中】に落ちてきたその【声】に、リドルは注意深く耳を傾けた。甘えるようないつもの【声】とは違う。手先の微かな震えが――恐怖がそのまま反映されているからだ。
一瞬の間があった。口にすべきか、迷っているのだろう。絞りだすようなジニーの声だった。
『話したいことがあるの…、あの……あのね』
『【秘密の部屋】の事件のこと?』
リドルは言いながら、とうとうくるべき時がきたのだと思った。
彼は【例のあの人】ことヴォルデモート卿の過去の【記憶】だ。サラザール・スリザリンの遺志を継ぐべく、日記帳を媒体に現世に留まっていた。ホグワーツからマグルの血を絶やすため。そして、誰かの命を奪い取り、幻影の【記憶】から肉体を持ったヒトとして復活するために。
ジニー・ウィーズリーは格好の獲物だった。家族から愛されて育った少女の心は幼く、純真だった。愚かといっていいほどに。歯の根が浮くようなお世辞を真に受けるような子供相手に、人を魅了しては騙す手管の数々を披露する必要はなかった。舌が動くに任せているだけで、ジニーはいつもご機嫌だった。
日記帳を取り落としたジニーは、今にも泣きだしそうな顔をしている。心が騒ぐのは苛立ちのためだろうか。そうだ、とリドルは自身に言い聞かせた。それ以外に何がある?
『あたし、夢を見たの。夢の中で…、あたしはホグワーツを歩いてた。ふわふわしてて…、自分で歩いてる感じがしなくて……それで……廊下の向こうに、友達を見つけたのよ。そしたら、頭の中に……声が響いたの。殺せ、殺すんだ……って。気づけば駆けだしてたわ、走るつもりなんか全然なかったのに……どんどん友達との距離が縮まっていった。
そしたら、後ろからあたしを呼ぶ声が聞こえた。パーシーの声よ。びっくりした途端、目が覚めたの。夢とおんなじ、廊下の真ん中で。パーシーは怖い顔をして、あたしを睨んだわ。何も言わずに腕をつかんで、寮に連れ戻した』
『ああ、そういえば前にもそんなことを言っていたね』
『……あたし、認めたくなかった。あたしが意識を失うのと、事件に何か関係があるだなんて思いたくなかった。
でも…、これ以上、黙ってられない……きっと犯人はあたし。なのに、ハリーが疑われてる……蛇語が話せるから、闇の魔法使いなんだって皆に言われてる……あたしが黙ってるせいで、ハリーがつらい思いをしてる。耐えられないよ……」
ヒクヒク動くジニーの鼻を【見て】いるうちに、リドルは不意に笑いが込み上げてくるのを感じた。
この期に及んで、まだこの僕を疑っていないらしい。少し考えれば分かるだろうに。純血とはいえ、まだほんの子供にバジリスクを操り、人を殺すことができるか? 誰の協力もなしに、たった一人で? 頭の中に聞こえた【声】を疑わないのか? まともな神経の持ち主が、そんな【声】を聞くと思うのか? 得体の知れない怪しい日記帳を手元に置いてから、奇行が始まったことにまだ気づかないのか?
『あたし…、言わなきゃいけないわ……校長先生に。事件のこと……話さなきゃ』
『バジリスクで皆を襲ったのは、あたしですって? そう言うの?』
黙って優しい言葉をかけ続けていた方が得策なのは分かっていた。けれど、とまらなかった。ジニーと話す時のように、何も考えていなかった。
『そうだね、いつ気づくかと思っていた。バジリスクで皆を襲ったのは君だよ、ジニー。もっとも君を操って襲わせたのは、この僕だけど』
『……トム? なに? 何、言ってるの?』
あまりにも早く綴ったせいで、ジニーには切れ切れの単語しか読み取れなかったらしい。今度はゆっくりと、憎々しいまでにきれいな文字を浮かび上がらせた。
『頭の鈍い君には最初から話してあげなきゃ分からないんだったね、忘れていたよ。
僕が何故君に優しい言葉をかけ続けたと思う? 君のようにつまらない子供の相手をしてあげていたと思う? まさかボランティアだなんて思わないだろ? 何か目的があると……そうは思わないかい?
君に話したことは全て嘘だよ、何もかも。一人ぼっちで寂しい? 頭の足りない子供と話しているより、一人の方がどれだけいいか!』
【言い】ながら、リドルは自分が何をしたいのか分からなくなっていた。ジニーを夢中にさせて、魂を奪い取る…――なのに、何故自分からこんなことを言っているのだろう? あと少しなのに。このまま騙し続けて、彼女の中に僅かに残った魂を奪えば、それでおしまいなのに。
『君を魅了することで、僕は君の魂を少しずついただいていた……僕のこの日記帳に宿った魂を、君に注ぎ込みながら。そうして君と僕とは限りなく同一の存在となっていた。君が、僕の可愛いバジリスクを操れるほどにね』
ジニーの顔が少しずつ歪んでいく。その顔に騙されたことに対する怒りはなく、自分に取り憑いたモノに対する恐怖よりも、悲しみの色が濃い。
『そんな、嘘…、トム……嘘よね? どうして』
『うんざりだったんだよ、もうとっくのとうにね。
まあ、君に望んだのはそのきれいな魂……それだけだったからね。純血の、穢れない魂。それを使って現世に甦ることができるなら、苦労する甲斐はあったわけだ』
『うそ…、よ……だって、あんなに優しくしてくれた……のに、全部ウソだなんて……』
涙をいっぱいにたたえたジニーの口元は、無理やり笑おうとしているように歪んでいた。
『甘い言葉に騙されたのは君の責任だね。家族に甘やかされて育って、自分は守られて当然だと思ってるから、こんな目に遭うんだ。自分のような馬鹿な子供にどうしてこんなにかまってくれるんだろうって疑いもしなかったから。皆が死ぬのは、君のせいなんだよ』
パンッ…――日記帳が勢いよく閉じられた。
「あなたが……どうして、ひどい、ひどいよぉ……友達だと思ってたの。ホントにそう思ってたの……あたし、だけだったの?」
力が強まってきたためか、皮肉にも生身のジニーの声が日記帳の中にまで伝わってきた。皮肉? リドルは笑った。聴きたくなかった、聴こえなければよかった。そう思ってしまったのは何故だろう。うっすらとだが、リドルにはその答えが見えていた。
見えていたからこそ、別れを告げたのだ。これ以上、彼女を惹きつけないよう……彼女が自分に魂を注ぎ込まぬように。
『さよなら、ジニー』
乱暴に丸めた日記帳を片手に廊下を駆けるジニーは、もちろん浮かび上がった文字を見なかった。
(2008/03/15)