留まる理由 - 1/10

 古びた日記帳を片手に書斎にいくと、ルシウスは無造作に机に山積みになっている書類の上に置いて、ソファに身を投げた。手当たり次第、何にでも当たり散らしたい気持ちをどうにか理性で押し留めたが、だからといってそれが顔に表れぬはずがない。青白い顔はほろ酔いしたように赤くなり、酷薄そうな青灰色の目には狂気の光が爛々と宿っていた。
 完璧な作戦だと思っていた。ウィーズリー家の子供に【例の日記】を渡し、ホグワーツで事件を起こさせる。愚かな穢れた血や、何かと目障りなダンブルドアを追い払い、かつあのアーサー・ウィーズリーさえもアズカバン送りにできる…――そう思っていた。
 やり場のない怒りが机の上に向けられる。
 ルシウスは立ち上がると、一歩進むごとに苛立ちを噛みしめるように、ゆっくりと机に向かった。
 真ん中の焼け焦げた日記帳の残骸。
 今回の件で、すっかりダンブルドアを敵に回してしまった。学校の理事からは当然外されるだろうし、何よりマルフォイの名に傷がついた。
 この日記帳の主さえ、おとなしく言うことを聞いていたなら全てうまくいったのに。あのウィーズリーの小娘をわざわざ殺そうとさえしなければ、厄介事が降りかからずにすんだというのに――!
 ルシウスは日記帳を叩きつけた。衝撃でインク壷が倒れ、何も書かれていないページに黒い染みが広がっていき――…やがて吸い込まれるように消えた。
「まさか」
上擦った声でつぶやき、目を見張った。
 【あの人】の記憶は消えたはずだ。ポッターと戦い、敗れ去ったはず。
 突風が吹いたように音を立てて日記がめくられていき、ちょうど真ん中辺りのページでピタと止まる。穴から免れた部分に短い文字がスッと浮かび上がる。
『穴を塞げ』
と、ただ一言。
 ルシウスは一瞬迷った。もはや、これに潜んでいるのは【あの人】の記憶の残骸にすぎない。命令を聞く価値があるか否か。
 杖を取りだし、日記帳に向けてつぶやく。日記の穴は瞬時に塞がり、以前と全く変わらぬ姿に戻る。
「助かったよ、ルシウス」
 二重三重とブレた声が何処からともなく響いたかと思うと、青白い光体が日記帳からスルリと抜けだし、見る間に少年の姿を形づくる。消え去ったはずのトム・リドルだった。蛍のような弱々しい小さな光が周囲に漂っている。
 リドルは床がうっすらと見える透けた手を見て、フンッと鼻を鳴らした。
「……ようやく復活できると思った瞬間にやってくれたな、ハリー・ポッターめ」
「我が君」
先ほどの怒りは何処へやら、ルシウスは片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「ご無事で何よりでした」
「白々しい演技はやめろ」
 ピシャリと言い捨てるような口調に、ルシウスは弾かれたように顔を上げた。静かな声に万感の怒りを感じた。自身を落ち着かせるように一呼吸する。
「ご冗談を。我が君、私は誰よりもあなたさまに忠誠を誓った身で……」
「黙れ。僕を手駒扱いした分際で、それを言うのか?
 お前は僕の【未来】について詳しいことを言わなかったな。知られたら不都合だったわけか、お前にとって。【ヴォルデモート卿】の行方も追わず、ただ安穏とした世界に身を置く者の忠誠などは必要ない」
 ルシウスは低く呻き、視線を落とした。怒りか、恐怖のためにか、床を押さえた右手が小刻みに震えている。
 そんな彼を冷ややかな目で見下ろすと、リドルはおもむろに机に腰かけた。透けた身体を書類の山が貫通していたが、そんなことは全く気にならないらしい。考え込むように頬杖をつく。
「――…まあ、いい。おかげで面白いこともあったからね」
 打って変わった楽しげな声音にルシウスは訝しげに顔を上げる。リドルはちょうど悪戯を思いついた子供のようにニヤッと笑った。
「【ヴォルデモート卿】については放っておいてもいい。未来の僕は、自力でなんとかできるだろうからね。でなければ、【闇の帝王】の名折れだ。滅んでしまえばいい」
「……と、言いますと?」
「僕は僕で勝手にやらせてもらうと言っているんだよ。ホグワーツをもう一度騒がせてやるのも一興だ。
 ルシウス。さっき僕を助けたことで、一つ忠告しておいてやろう。【ヴォルデモート卿】は日和見のコウモリを好まない。未来の僕が戻ってきた時に言い逃れできるよう、何か考えておくことだな」
 たかだか十六の少年の、それも一度は消えかけた【記憶】にすぎないモノだというのに、なんという威圧感なのか。姿かたちは違っても、やはりこの少年は名をだすのも憚られる【あの人】なのだと、ルシウスは改めて知らされる思いだった。