傾いだシャンデリアにはホコリがうずたかく積もり、元は透明感のあったはずのガラスは灰色に曇っている。染みの浮いた黄ばんだ壁紙は、ところどころ獣の爪でかいたようにビリビリと裂け、黒ずんだ壁を露呈していた。窓にカーテンはなく、桟は白茶けたカビに覆われている。
どの部屋もさして変わりはない。家全体が廃屋のように無残な姿に成り果てている。
「ひどい有り様だな」
振り返り、自分の足跡がくっきりと残った廊下に目を落とすと男は笑った。いや、それは果たして笑いだったのかどうか。無精ひげの目立つ口元がただ引き攣るように動いただけかもしれない。
才気に満ちた女当主が夫を追ってこの世を去ったと同時に、このブラック邸もまた息絶えた。うらぶれた屋敷を徘徊するのは年老いた屋敷しもべがただ一人。主なくして生きられぬ宿命の屋敷しもべは次第に正気を欠き、死に覆われた屋敷に狂気をもたらした。
「これが栄華を誇ったブラック家の成れの果てか」
投げやりな声音の何処かに、寂しさが漂っていた。
と、その時、軽やかな笑い声が響いた。男は顔を引き締め、声のした方に目を向ける。二つ、三つ向こうのドアが微かに開き、暗い廊下に光を洩らしていた。男が不審そうに目を細めると、またもや声が響いた。高く、鈴を転がすような女の声である。男の目に不意に狼狽の色がよぎった。一飛びに駆けつけると、身体ごとドアを押し開ける。すると、目を丸くした少女が二人、彼を振り返った。
「シリウス? どうしたの、血相変えて」
最初に口火を切ったのはふさふさした栗色の髪の少女だった。
「まるで幻でも見たって顔をしてるわよ」
小柄な赤毛の少女が言う。からかうような口ぶりだったが、目は気遣わしげだ。
男は額に浮かんだ汗を拭い、取り繕うように笑った。
「なんだ……君達だったのか。こんなところで何をしてるんだ?」
「掃除してたら、これを見つけて。つい嬉しくなって、はしゃいじゃったの」
見て、と赤毛の少女が横に一歩ずれる。すると小作りの揺り椅子に座った幼い少女が姿を見せた。いや、少女ではない。パッと見ただけでは人間と見間違えるような精巧な人形だった。長いつやつやした金髪に、一本一本植えつけられている睫毛。陶器の目は青く、肌質も人間のそれとよく似ていた。ふわふわのフリルと波打つような裾ひだに飾られた豪奢なドレスに身を包み、貴婦人のようにすましているような顔つきは可愛い、ではなく美しいと思わせた。七、八歳の子供をモデルにしているのであろう人形にそう思うのは全く奇妙なものだが。
赤毛の少女が侍女のように人形にかしずき、肩に垂れ落ちた髪の一房を撫でる。溜め息を吐きながら、うっとりと言った。
「とってもきれい。あたし、こんなきれいな人形なんて今まで見たことないわ」
「そうね。それにしても屋敷の何処もかしこもホコリだらけだっていうのに、この人形はちっとも汚れていないのが不思議……誰かが保護の魔法をかけたのかしら。十数年以上も効き目を発揮するなんて、並の魔法使いじゃないわ」
栗毛の少女の関心は、人形というより、どちらかというと人形を汚れから守った魔法にあるらしかった。そんな彼女に赤毛の少女はハーマイオニーったら、と呆れたようにつぶやき、
「ねえ、シリウス。この人形は誰のものだったの? あなたのお姉さんか妹のもの?」
シリウスは首を振った。
「それは従姉のナルシッサのものだよ、ジニー」
「え、ナルシッサ……?」
その名に反応したのは赤毛のジニーではなく、栗毛のハーマイオニーの方だった。彼女は眉をひそめ、
「それって、ドラコ・マルフォイの母親のこと? ナルシッサなんて、そうそうある名前じゃないし……」
遠慮がちにささやいたハーマイオニーに、シリウスはこだわりなく頷いた。
「ああ。あいつは半身のようにいつもその人形を抱いていた。取り上げてやった時は狂った猫みたいにかかってきたな」
灰色の目に陰が落ちた。口の端に浮かんだ笑みが空々しい。少女達は顔を見交わした。
「シリウスはその人と仲がよかったの?」
「つきあっていたことがある。もちろん彼女が結婚を決めるずっと以前のことだがね」
「ええっ!?」
驚きの声に、シリウスは声を上げて笑った。
「敵と通じていた……と思われたかな? けど、安心していい。別れてからは一度もあいつに会ったことはないよ」
「どうして別れたの? その人が【例のあの人】の側に走ってしまったから……?」
シリウスは恥じ入るようにうなだれ、首を振った。
「いいや。ナルシッサは内気すぎるくらい内気な女だった。自分の殻に閉じこもってばかりで、その人形とはまるで姉妹のようだった。無表情で、ガラスケースに入れられた人形のように何処にいくこともなく、父親から溺愛されていた……マグルのことを嫌ってはいたが、率先して排斥しようなんて考えは持っていなかったはずだ」
今はどうだか分からないが、と言いたげにシリウスは口をつぐんだ。少女達の困惑の表情を見て取り、微かに笑った。
「子供の頃、私は彼女の存在を知らなかった。叔父の家に遊びにいく時も、あいつの部屋に近づくことは禁じられていたからね。
けれど、あれは……私が七つの頃だったか。箒で遊んでいると窓辺に張りつくようにして見ているナルシッサに気づいて声をかけた……それがきっかけで親しくなっていったんだ」
「ふうん。シリウスにも、ちょっとしたロマンスがあったのね」
ジニーが感心したように言った。シリウスはためらいがちに人形に歩み寄り、手を伸ばした。その手は微かに震えていた。
――私、結婚するの。シリウス、私、ルシウス・マルフォイと結婚するのよ。
シリウスの目に、人形をしっかりと抱きしめたまま、そう言ったナルシッサの姿が見えた。二十年ほど前の光景が、ありありと浮かび上がってくる。なんの感情も込めずに、ただ淡々と告げた彼女を、ただ呆然と見ていただけの自分。
どんな想いで彼女は別れを告げたのかを思いやることもできず、次の瞬間には人形を取り上げていた。苛立ちを紛らせるために。ナルシッサはサッと顔色を変え、叫んだ。
――返して、返して! その子はずっと私と一緒にいたの。その子だけがずっと一緒にいてくれるのよ!!
シリウスは頭上に人形を掲げたまま、取り返そうと躍起になって手を伸ばすナルシッサの身体を押しやり、部屋をでていった。号泣が耳をつんざいたが、シリウスは部屋に取って返そうとはせず、彼女の声が聞こえなくなるところまで逃げていった。
自分と別れる時には表情一つ変えなかったくせに、人形を取り上げた時にはあんなにも激しく泣いた。シリウスは自分の存在が人形風情に負けた気がして悔しくてならなかった。そのまま地に打ちつけてボロボロになるまで蹴飛ばしてやろうかという考えがチラと頭をかすめたが、しかし彼はそうはしなかった。そんなことをすれば、ナルシッサは決して自分を許さないだろうと思ったからだ。彼女がマルフォイ家に嫁ぐと決めた時点で、自分との関係は水泡に帰したのだ。今さらどう思われようと変わらないとは分かっていたのだが、それでもできなかった。
それからの彼の人生は激動だった。七年生時は就職に向けての勉強と実践で、ホグワーツ卒業後は不死鳥の騎士団の一員として日々忙しく過ごし、その後冤罪でアズカバン送りになった後は生き抜くだけで精一杯で過去に思いを馳せる余裕などなかった。
けれど、今、思いがけず生まれ育った家に戻ったことで、シリウスの心に様々な思いが甦ってきた。それは決して楽しいものではなく、苦々しい記憶ばかりであった。
シリウスは人形の頬を撫で、過去を振り払うようにかぶりを振った。
「こんな陰気なところにいつまでもいるのはよそう。そろそろ夕食だ。モリーが腕を振るっているだろう。久々にマトモな人間の食事をとれるかと思うと嬉しいよ」
カラ元気のような明るい声に、ハーマイオニーとジニーはすまなさそうな顔をした。シリウスの触れられたくない過去に近づきすぎたのを知ったのだろう。二人は頷き、何も言わずにそっと部屋をでていった。
シリウスはジッと人形の側に立っていたが、やがて二人の靴音が聞こえなくなるとぐったりと座り込んだ。肘を腰かけの部分にもたせたまま、人形の顔を見上げる。肘に力を込めると、揺り椅子は前に傾いた。バランスを崩した人形は前のめりになり、まるで慰めるように、ゆったりとシリウスの上にもたれかかる。豊かな金髪に顔を覆われるや否や、シリウスは身体を震わせた。
(2005/02/10)