And Then
【それ】に気づいたのは、その日ダイアゴン横丁で買ってきた学用品と学校に持っていく物のリストを照らし合わせていた時だった。
お古の教科書の間から出てきたのは古びた日記帳。
古びたと言っても汚いわけじゃない。幾代も人に親しまれる家のように、落ち着いて貫禄があるといった風。しなやかな黒の革張りで、薄さの割にずっしりと重みがあった。魔法省で仕事をしている大人が使うような立派な物だと一目見ただけで分かった。
(パパが買ってくれたのかしら。教科書やマント、杖までお古ですませたのに)
不思議に思いながらも日記帳をめくってみた。
表紙の次の最初のページには、かすれた文字が書かれていた。黄ばんだページに溶け込むような変色したインク。相当古いものなんだろうか。
「T…、M…、リドル……?」
かろうじて読み取った名前を口先で転がす。知らないはずの、だけど何処か聞き覚えのある名前。
他人の日記を勝手に読んでいいのか迷ったけれど、誰かの物が紛れ込んだのかもしれないと思ってページをめくっていった。持ち主のことが何か書いてあるかもしれない。住所が分かれば返すこともできるだろうと思ったからだ。けれど、どのページも白紙のままだった。
「……変なの」
名前まで書いておいて使う気がしなくなったのか。それとも買ったばかりで失くしてしまったとか? その割には古臭いし…――色々と思い巡らせていたところに、パーシーが顔を覗かせた。
「ジニー、そろそろ下りておいで。夕食だよ」
「ねえ、パーシー。これ、パパが買ってくれたの?」
「なんだい、それ? 随分古いみたいだけど」
日記帳をパラパラめくったけれど、興味がないのかすぐに返してきた。
「大鍋の中に入っていたなら、そうじゃないかな」
「でも、名前が入っているの」
パーシーは面倒そうに言った。
「フロリーシュ・アンド・ブロッツの古本売場で安く売ってたんだろ、きっと。ほら、早くしないと夕食が冷めるよ」
チラリと日記帳に目を移す。自分はこんなに気にかかるのに、パーシーがこの日記帳に興味が湧かなかったのがひどく不思議に思えた。
「ジニー」
促す声に、ようやく目を逸らす。
鳥かごから放たれた鳥のように何処かに飛んでいってしまわないか心配になったけれど、日記帳は日記帳。羽が生えているわけがないし、勝手に逃げだすはずがない。そう言い聞かせて居間に下りていった。最後にもう一度だけ、日記帳を振り返って。
どうしてそんなにも気になったんだろう。名前だけが書かれた謎めいた日記。その中に秘められたものが知りたかったのかもしれないし、単に自分だけのものができて浮かれていたのかもしれない。
大家族に生まれると、いつもお古ばかり。この日記帳も古本屋で買われたという意味ではお古だ。けれど、お兄ちゃん達からのお下がりではなく、自分のために与えられたもの。そう思うと新品同様に嬉しかった。
折角だから今日から日記をつけようと羽ペンとインクを用意した。
使い古されてボロボロになった羽や薄いインクを見ても、ウキウキした気分は消えなかった。浸したペン先を日記帳の上に持っていく。
手をとめて、その日あったことを考えた。
ダイアゴン横丁で会ったハーマイオニー・グレンジャー。ロンから聞いていた話と違って、とっつきにくそうな雰囲気はなかった。口うるさいというから、てっきりパーシーみたいな人だと思っていたのに。話し方や小さな背をシャンと伸ばしている姿は自信にあふれていて、彼女の周りがきらきら光っているみたいだった。
それに笑った顔がとても可愛くて…――すごくハリーと仲がよさそうだった。ただの友達というんじゃなく、もっと親しげな感じ。
羨ましいと思った。
ハリーは今【隠れ穴】に泊まっているけれど、まともに話せない。というより、顔さえ見られなかった。
分かっている。原因が自分だってことは。
ロンの妹だから、とハリーは話しかけようとしてくれていた。でも、挨拶を交わすのも恥ずかしくて、いつも逃げてしまって。
どうしてこんなに臆病なんだろうと何度も思った。挨拶もできないんじゃ、ハリーに対して失礼なのに。でも、変なことを言ってしまったら。嫌われてしまったら。そう思うと、言葉がでてこない。喉に物が詰まったみたいに。
きっと、おかしな子だと思われている。
ハーマイオニー・グレンジャーのように話せなくてもいいけれど、せめてお兄ちゃん達にするように普段通りに振る舞えたらいいのに。
「あっ……」
考えごとをしている間にペン先にしずくがたまり、ポトリと落ちる。じんわりと広がっていく黒い染みにがっかりした。大切に使おうと思っていたのに。
でも…――
『こんにちは。君は誰ですか?』
次の瞬間、目にしたものが信じられなくて慌てて目をこすった。涙に潤んだ目がありえないものを見せかけたのかもしれない。
でも、違った。見間違いじゃない。日記にはしっかりと文字が浮かび上がっていた。
『あたし、ジニー。ジニー・ウィーズリー』
『ジニー、はじめまして。本名はヴァージニア?』
『いいえ、ジネヴラの愛称なの』
波が引くようにごく自然に薄れていく文字につられて書き込んでいた。少しの間があった。日記帳を食い入るように見ていたけれど、何も起こらない。気のせいだったのかと思ったその時。
『ジネヴラ……とてもきれいな、いい名前だね。僕はトム。トム・マールヴォロ・リドルといいます』
名前を褒められたことに顔が赤くなるのを感じた。なんだかよく分からないモノにお世辞を言われたという感じはしなかった。【誰か】に面と向かって言われた気がしたから。
『これは魔法のかかった日記帳? それとも、あなたはゴーストなの? この日記帳に取り憑いているの?』
矢継ぎ早な質問はすぐに薄れて消えていき、新たな文字が浮かび上がる。教科書の手本のような、とてもきれいな筆記体だった。
『これは僕がホグワーツにいた頃……ああ、そうだ、ホグワーツは知っていますか? ヨーロッパ三大魔術学校の一つ。その学校に通っていた頃の【記憶】です』
『ホグワーツ? あたしがこれから通う学校だわ! じゃあ、あなたは先輩ってことになるのね。あなたは一体いつの人? 今もいるの? それに……この日記帳を【今】のあなたに返さなきゃいけない?』
訊くほどに謎が深まっていく。どうして、何故? 浮かんでくる疑問を早く書かなければ忘れてしまうと思って、急いで羽ペンを走らせた。
『いや』
一瞬間が空いて返事が返ってきた。
『もう僕はいないから。病気だったんだ。長くは生きられないって分かってた。もっと長く生きたいと……十六歳になった時、こうして自分の【記憶】を日記帳に保存したんだ。本当の僕じゃなくても、せめて僕の人格だけは残したかったから。
だから、君が持っててくれて構わないよ。よかったら君と友達になって色んなことを話したい……ずっと一人でいて寂しかったんだ』
命の終わりが見えていたなんて、どんな気分だったんだろう。十六歳なんて、パーシーと同じ年じゃないか。それに長い間ずっと一人でいたなんて。
大家族に囲まれて育っていつだって不満はあったけれど、それ以上に幸せだと感じていた。独りぼっちになるのを想像したら、寂しいどころではすまないだろうと思う。
かわいそうだと思う気持ちで胸がいっぱいになった。
『あたしもまだ学校にいってないから友達がいないの。あなたが友達になってくれたら、すごく嬉しい。よろしくね、トム』
だから、軽率に答えてしまった。
『ありがとう、ジニー。君が持ち主になってくれて本当によかった』
何も疑わずに、ただ浮かび上がった言葉を信じて。
パパにも、ママにも、お兄ちゃん達にさえも…――誰にも言えない秘密をつくってしまった。ふとしたはずみに感じる胸の痛みをかき消すほどに惹かれる彼と出逢ってしまった瞬間だった。
その小さな秘密がやがて学校を巻き込む大きな事件を引き起こすなんて、その時あたしは思いもしなかった。
(2004/01/25)