小さな愛の花
ザラメ状になった雪が一歩踏み出すごとに足を絡めとる。懸命に動かそうとすればするほどバランスが保てなくなって転びそうになる。弾む息が白の霞をつくりだして目の前を覆った。あまりの息苦しさに足をとめると、前をいくトムが振り返った。
「疲れただろ? 僕一人で行くから、君は後からゆっくりくればいい」
「……ごめん、なさい…、遅くて……」
「いや、責めてるわけじゃないよ。こっちこそごめんね。我がままを言ってるのは分かるんだけど」
「そんなことない……我がままだなんて…、思ってな…――」
急いで言おうとした途端、ひんやりとした空気が喉の真奥に押し寄せた。胸がギュッと締め上げられたような感覚。咳と一緒に涙が出てくる。
「大丈夫? 息を吸って……ゆっくり。そう」
落ち着いた声でそう言われると、乱れた呼吸もすぐに元通りになる。背中を撫でてくれる大きな手が安心感を与えてくれたから。まるで魔法みたい。
「ごめんなさい……」
ようやく治まると、そう言った。
このところ照る日が暖かみを帯びて、ホグワーツ周辺にも少しずつ春がやってきた。
イースター休暇に入った今週になって、トムは急に思い出したように行きたいところがあると言ってきた。彼からそんなことを言い出すのは珍しい。強引に取り憑いたし、前科もある。たまに脅迫めいた言葉だって言う。だけど、普段はあたしに何かを強制することはもちろん、やんわりとお願いすることだってなかったから。
何処へ行きたいの、と訊いても曖昧な答えしか返ってこなかった。ただ、こうして外をうろつき回って二時間くらい。休暇中にわざわざ寒い外にでかけたがる人はそうそういないからトムが誰かに見つかる心配はなかったけれど、さすがにくたびれてきた。それに暖かくなってきたとはいっても、まだ三月。歩くたびにローブから覗く真っ赤な足に青紫の斑点ができていたし、ブーツの中は冷たくなっていた。
こうしてついてきたのは興味からだったけれど、やっぱりこない方がよかったかもしれない。彼が何をしたいのか分からないけれど、足を引っ張っているのは確かだった。
例え迷惑がっていたにしろ、彼はおくびにもださなかったけれど。
「謝ることないよ。寒い?」
「大丈夫、いいの! あたし平気だから」
「平気じゃないだろ? こんなに震えて」
巻いていたマフラーをはずして、あたしの首にかけてくれた。
あたしがバレンタインで初めて家族以外の人にあげたプレゼント。ふわふわの毛の感触があたたかくて、握りしめてしまう。気づけば手も冷え切ってて、指をすぼめるだけで関節が痛んだ。
「今日はもう帰ろうか。もしかしたらって思ったんだけど、まだ早すぎたみたいだ」
「早すぎたって、何?」
【何処か】へ行きたいのかと思ってたのに違ったのかしら。首をかしげたけれど、トムは微笑んだまま何も答えてくれない。
もう、嘘はつかない――前に宣言した通り、トムはもうあたしを騙したりはしないと思ってる。それでも、こうして【秘密】をつくられるのはなんだか嫌だった。トムはあたしのことをなんでも知っているのに、あたしには彼のことが分からない……ううん、分からない部分がある。壁があるみたいで、距離を感じた。
日記帳に心の内を書き込んでいた頃から、あたしには壁なんてなかったのに。
ふわふわの毛に口元までうずめて、差しだされた手を握った。あたたかくなったはずなのに、さっきみたいに胸が痛くなった。どうしてだろう。
二人分の足跡しかない湖の岸辺を黙って歩いた。息苦しさから何も話せない。それとも何も話せないから息苦しいのか。この重たい沈黙は前にも感じたことがあった。クリスマス…――はじめてトムと喧嘩した時。
トムが急に足をとめて、ドキリとした。タイミングがぴったりで心を読まれたのかと思ったから。
「あれは……」
つぶやくと、急に手を放して駆けだした。
なんだか分からなくて追おうとしたけど、もつれた足が邪魔をする。右足に踏みしめた感触がないと思った時には、冷たい雪に身体ごと投げだされていた。這いつくばったまま目だけで後ろ姿を追ったけど、トムは【何か】に夢中であたしのことなんか忘れているみたい。振り返りもしなかった。
悲しみと一緒に噴きだした感情は怒りに近い。でも、これは…――
雪を払って起き上がると、トムが息せき切って戻ってきた。
「ごめん、ようやく見つけたんだ…!」
珍しく声を大にして、
「これを、君に」
「花…?」
押しつけるように差しだした花。
見たことのない花だった。先端が緑がかった真っ白の花びらに、涙のしずくを思わせる下垂の花。あたしの声に戸惑いを感じたのか、トムが頷く。
「バレンタインのお礼だよ。春を呼ぶスノードロップ……一番早く咲く花を君にあげたかったんだ」
「そのために…、ずっと探してたの? あたしのために……?」
そう、さっきハッキリと分かった。数時間も彼につき添った本当の理由。隠しごとをされてると思った時、あたしを置いていったトムに感じた苛立ちは嫉妬だって。
「ジニー、顔が赤い……ごめん、こんなことのために引きずりまわして」
「こんなことなんて言わないで…! 嬉しい……すごく」
そう、見たことはないけど知ってるわ。スノードロップの花言葉は希望と慰めと…――そして初恋の眼差し。雪どけのように張り詰めていた気持ちが一気に緩む。
あたしにとっての憧れじゃない、本当の意味での初恋は多分、今この瞬間から始まった。
(2004/03/14)