金曜の三講目は一年生以外授業がある。いつもは賑わっている談話室だが、今は暖炉の薪が爆ぜる音だけが静かに響き入っていた。そこにクラッブとゴイルの姿がないのを確認すると、ドラコはドアの陰から滑りでた。両手は教科書や羊皮紙の束で塞がっていたから、身体を使ってドアを閉める。
父親に定められた学友達はよくよく言い含められているのか、ドラコのいくところ何処にでもつき従ってきた。部屋も同室に割り当てられてしまったため、プライベートはほとんどないといってもいい。今日は上級生達がいないのをいいことに大広間で意地汚く食べ漁っているのだろうが。
彼らの頭や魔法力の方はともかく、図体と腕力はボディーガードとして役立つから邪険に扱うことはなかったが、ここ数日は少しばかり鼻につくようになった。というのも、天敵グリフィンドールの優等生ハーマイオニー・グレンジャーに原因があった。ひょんなことから彼女の飛行術を指導することになったからだ。純血の名門マルフォイの跡取りがマグル出身者の【穢れた血】と親交を深めているなどと知ったら父親がなんと言うか。考えただけでドラコは背筋が冷えるのを感じた。
ドラコの父ルシウスは非常に厳格で、自分の信念に沿わぬ者は例え肉親であっても容赦なく排斥するような男だった。血の繋がった父として敬愛はしていたものの、幼少の頃から幾度か与えられた罰のせいか、彼がマントをはためかせて大股に歩いてくるのを見ると恐怖に震えずにはいられなかった。
その父親が叱責するようなことを何故行なっているのか、ドラコは不思議でならなかった。別にハーマイオニーの頼みを聞かなくても一向に困りはしないのだ。それをわざわざ引き受けてやったばかりか、見返りとして薬草学の指導を要求し、自分から彼女と共に過ごす時間を増やしてしまった。家から離れたことで、父親の抑制からも解放されたということだろうか。しかし、ドラコはそうした心の動きを深くは考えなかった。
そそくさと談話室を通り抜けようとしたが、つい気が急いてしまったのだろう。胸を切る風が羊皮紙を巻き上げ、ソファの下に潜り込ませてしまった。舌打ちしたドラコが手を伸ばすより先に、ほっそりとした手が拾い上げた。
「ハイ、ドラコ。そんなに大荷物を抱えて何処いくの?」
パンジー・パーキンソンがソファから身を乗りだし、にっこりと笑いかけてきた。
彼女の両親もドラコの家と繋がりがあるらしく、入学前に一度だけ会ったことがある。記憶の中の彼女は、誰かに話しかけられなければ口を開こうとしない内気な少女だったが、数年間会わない間に大分変わったらしく、軽く化粧をし、髪を高く結い上げて気取った物言いをするようになった。大人びた振る舞いと仕草は同寮の女子生徒にかなり顰蹙を買ったようだが、黒目がちな目や肉感のある唇を持つ彼女は男子生徒にとってはなかなか魅力的な存在だった。
「図書室だよ。邪魔な奴らがいないうちに勉強しておこうと思ってね」
落し物を受け取りながら言うと、
「へえ、勉強? さすがマルフォイ家のお坊ちゃまは言うことが違うわね」
パンジーが答えるより先に、傍らからミリセント・ブルストロードが茶々を入れた。パンジーは少し顔をしかめたが、ドラコの視線に気づくと取り繕うように笑った。
「でも、本当勉強熱心なのね。あなた、どの科目でも優秀だってスネイプ先生が褒めてくださったじゃない」
「どの科目でも、じゃないさ。それに学校に上がるまでみっちり家庭教師にしごかれていたのに、こんな始めからつまずくわけにもいかないしね」
あからさまな賞賛になんとなく居心地が悪くなって視線が揺れ動き、壁にかけられた大時計にまで辿り着いた。
パンジーが甘えるように手を握ってきた。
「ね、ドラコ。私達、今日の魔法薬学の授業でちょっとてこずっちゃって……よかったら教えてくれないかしら? あのトカゲの舌を入れるタイミングなんだけど」
「あー…、ごめん、今は。後でもいいかい?」
「あ、ええ、もちろん。ごめんなさい、引き留めちゃって」
「悪いな、パンジー。後で必ず」
パンジーはパッと頬を染めて、激しく首を振った。従順な犬が尻尾を振る様によく似ている。気取った作り笑いなんかより、こうしてたまに見せる素の表情の方が彼女にはずっと似合うとドラコは思った。
後ろから女の子達の忍び笑いが聞こえたが、ドラコは気にせず寮を後にした。
フィルチに咎められない程度に早足で図書室にいくと、生徒を睨みつけるのがお得意のマダム・ピンスに会釈をし、中に入った。
図書室にきたのは監督生から学内を案内されて以来はじめてだった。ホグワーツ千年の歴史は伊達じゃない。本棚はどれもドラコの身長より大分高かったし、所狭しと本がギュウギュウに詰め込まれていた。あまり窓の開閉をしないせいか、空気が澱んでいた。ただ古めかしいその匂いは決して不快ではなかったが。
生徒はそう多くはなかった。三人で頭を寄せ合ってクスクス忍び笑いを洩らしている女の子達や、何かを熱心に書き取っている男子、本を枕に寝ている不届き者を横目に奥に向かって歩いていった。すると今度は空の書棚に腰かけて何やら話し込んでいる高学年の男女の姿が見えた。どうも勉強ではないらしい。互いにしなだれかかるような格好で、何かをささやきあってはクスクス笑いを洩らしている。
慌てて回れ右をした途端、お目当ての彼女が目に入った。
向かい側の隅でカップルが何をしていようとお構いなしといった風で、分厚い本に額をくっつけるようにして羽ペンを走らせている。立ったまま、何かのノートを取っているようだ。
「グレンジャー」
軽く声をかけると、ハーマイオニーは弾かれたように顔を上げた。暖かな茶色の目が優しく笑いかけている。
「遅かったのね。こないのかと思ったわ」
覗き込んだ羊皮紙には小さな文字がビッシリと書き連ねられていて、ドラコは見ただけで吐き気を催した。
「悪魔の罠…? なんだい、これ」
太いツルに人間の手足や首が締めつけられている無気味な挿し絵の横、赤インクでチェックされた箇所を指して訊くと彼女はパッと顔を輝かせた。
「今日の授業でスプラウト先生が仰ってたの。暗闇と湿気を好む危険な植物。もう少し詳しく知りたくて調べてたのよ」
「へえ。勉強熱心なことだ」
「あなたも薬草学が苦手だっていうなら復習くらいはしなきゃ駄目じゃない」
彼女はノートと本の下からプラスチック製のファイルを取りだし、手早くめくっていく。マグルの文房具など見たこともなかったドラコは自然と目を引き寄せられた。
「あっ、あった。これとこれと……これだわ」
はい、と渡された紙を見て、ドラコは訝しげな目を向ける。罫線の引かれた紙には、羊皮紙に書かれていたのと同じ文字がビッシリと書かれていた。
「多分寮が違っても進度は同じよね? 今までの薬草学で覚えなきゃいけない最低限の箇所をまとめてみたの。来週の……そうね、月曜日までに覚えてきて」
「こんなに?」
ドラコはうんざりした。裏返したら案の定そちらの面にまで書き込みがあった。頭を押さえて呻き声を上げる。
「これで最低限なのか? もっと効率よくやる方法はないものかね……」
「あら! まさか楽してできるようになるなんて思ってないわよね? 私だって飛行術で一日数時間は練習したんですもの。あなたにもそのくらいの努力はしてもらうわよ」
「さすが学年首席の優等生は言うことが違うね。純血のでき損ない、ロングボトムにも君くらいの頭があればよかったのにな」
皮肉めいた口調で言うと、ハーマイオニーは肩をすくめた。
「あなた、そんなにネビルのことが嫌いなの? ホグワーツ特急の中でも突っかかってたし、飛行術最初の授業でもからかってた」
「嫌う価値もないさ、あんな能なし」
ドラコがせせら笑うと、ハーマイオニーは眉根を寄せた。怒りに燃える目が見開かれ、いつもよりも数段大きくなっている。
「言っておきますけど、ネビル、薬草学はすごくよくできるわよ。知識も豊富だし、植物の扱いもうまいわ」
「へえ? 少しは取り柄もあったってわけか」
友情厚きグリフィンドールならではの庇い方だと、ドラコは取り合わなかった。ハーマイオニーはジッとドラコを見つめていたが、やがてフイッと顔を背けた。
「私、あなたの人を見下したところが大嫌いだわ」
「奇遇だね。僕も君のマグルくさいところが大嫌いだ」
「お互い嫌いあってるのに、こうしているのはなんでかしらね?」
首をかしげて言う彼女は本心から分からないといった口調だった。考え方がまるで違うのに同じ疑問に思い至ったとは面白い。
「利害関係と、虫唾が走るほどには嫌じゃないんだろうな」
「なるほど。虫唾が走った時。それが私達の交友の終局ってわけね」
ハーマイオニーは軽く跳ねて、取り落としそうになった本を抱え直して、ドラコの横をすり抜けた。
「何処いくんだ、グレンジャー?」
「今日は帰るわ。虫唾が走らないうちに。まだあなたには教わらなきゃいけない技術がたくさんありますから」
肩越しに振り返り、素っ気なく言う。
「まだ五分も経ってないのに? 君につきあった僕の貴重な数時間はたったそれだけの価値しかないってことか?」
「薬草学にはある程度下地になる知識が必要なの。それまではいくら教えたって無駄だわ。基礎ができなければ何事もうまくいかないものよ」
「君が箒に飛び乗った時みたいにな」
ハーマイオニーの頬がサッと赤らんだ。
「あれは…! まあ、そうね……私も悪かったけど。いいわ、今日中に渡したノートを全部暗記するっていうなら、明日の昼にまたつきあってあげる」
「明日だって!? 休日じゃないか」
それもこの豆字でギッシリと書かれたことを今日中に暗記しろだって!? 冗談だろと思ったが、彼女はどうやら本気だったらしい。マクゴナガルそっくりの厳格な顔をつくってみせる。
「苦手なら人の数倍努力しなさいよ。人をこけ下ろすよりも自分を高めるように心がけたらどう?」
痛いところを突かれて言い返せないドラコに、彼女は背を向けてスタスタといってしまった。断る暇さえなかった。
ドラコはノートを一枚一枚めくっていき、重々しい溜め息を吐いた。今日はきっと徹夜しなければならないだろう。