SOAR HIGH - 2/8

「上がれ!」
 その日何度目かのかけ声にも箒はコロコロと転がるばかり。右に転がるか、左に転がるかの違いだけ。いつまで経っても上にくる気配は見せない。ハーマイオニーは踏ん反り返って腕組みをしているマルフォイに詰め寄った。
「ねえ、約束したでしょ? 黙って突っ立ってないで、ちょっとはアドバイスしてくれてもいいんじゃない?」
「何故箒が上がらないほど才能がないのか、僕に説明しろっていうのか?」
「もうっ…! いいわ、もう一度やって見せてよ。何処が違うのか、自分で見つけてみせるわ」
 彼は僅かに眉を顰めたが、面倒だと思ったのか、それ以上何も言わずに箒の右側に立って手をかざした。上がれ、と低くつぶやいただけで、それは磁石のように手のひらに引き寄せられる。
「……で、分かったか?」
押しやるようにして箒を返してきた。厭味っぽい口調にハーマイオニーはグッと息を呑み込んだ。
 彼の手本を見るのはかれこれ十回以上になる。たが、自分の動作と何が違うのかは見極められない。何か決定的な違いがあるはずなのに。
 彼はやれやれ、と大げさに肩をそびやかした。
「魔力の違いかねえ……こればっかりは努力しても無駄かもな」
「うるさいわね。少しは口を謹んでよ」
(本当口の減らない人!)
ヒステリックにハーマイオニーは思う。
(女性に対する時くらい、少しは遠慮したらどうなのかしら? 整髪料でしっかりと撫でつけられた髪やきちんとした着こなしはいかにも紳士といった風なのに、中身はまるで違うんだから)
 怒りは態度にもありありとでているはずなのに、マルフォイはさっぱり気にしていないようだった。何か考え込むように黙り込んで、おもむろに口を開いた。
「ところで君、呪文学は得意なのか?」
「はっ…? 呪文学? ええ、そりゃ得意だけど……」
「呼び寄せ呪文は?」
 ハーマイオニーは唐突な質問に肩を竦める。
「あれは四年生で習う魔法でしょ。まだ試したことはないわ」
 呪文学は彼女が最も得意とする授業の一つだったが、さすがに三学年上の魔法までは試したことがない。だが、その答えが意外だったらしい。マルフォイは目をまたたいた。
「勉強熱心な君のことだから当然できると思ったんだがな」
「そういうあなたはどうなのよ?」
「僕のことはどうだっていい。やってみろよ」
別段機嫌を悪くした風でもなく、さらりと返してきた。
 一体何を考えてるのかしら? ハーマイオニーは首をかしげたが、考えたって彼の心が読めるはずもない。まだまだ先に習う魔法なんだから失敗してもいい、とりあえずはやってみよう。
 箒を地面に置いて、ローブのポケットから杖を取りだす。
(呼び寄せ呪文はどんなのだったっかしら? 確か…――)
「アクシオ」
 不確かな言葉をささやいてみると、正解だったらしい。杖先に灯った小さな光に吸い寄せられて、箒がふわりと舞い上がった。
「……できた」
 こんな簡単に四年生で習う魔法ができたことに飛び上がりそうになるほど嬉しかったが、マルフォイは驚きもせずに頷いた。
「なるほど。魔力に問題はなし、か。要領はそれと同じなんだがな……違いといえば杖があるか、ないか。それだけだ。杖なしで魔法を使ったことは?」
「無意識でしかないわ。小さい頃は皆から気味悪がられたわよ」
 階段を頭から転げ落ちた時。コップを落としても割れなかった時。鍵を忘れた時なんかドアに触れただけで入ることができた。両親はそんな様子に気づいていたのだろうが、可愛い自分達の娘を奇異の目で見ることはなかった。近所に住む子供達に面と向かって言われるまで、自分の【おかしさ】を自覚したことはなかった。
 あんたみたいにおかしな子とは一緒に遊ばないわ――思いだして、ハーマイオニーは唇を噛んだ。その言葉を聞いてからもうかなり経つというのに、胸がえぐられるような痛みは今も感じる。
「ふん、マグルは馬鹿な奴ばかりだからな。自分達よりも力ある者が怖いんだろうよ」
「嫌な言い方。自分達の上位を信じて驕り昂ぶった言葉……」
「言っておくが」
 言い終わらないうちに遮られた。有無を言わさぬ強さで。
「僕は君に飛行術の指導をするとは言った。が、マグルやその出身である君への見解は変える気はない。僕の話や言い方が気に入らないのなら、おとなしくグリフィンドールのお友達に教えてもらえよ」
「……友達なんか、いないわよ」
 マルフォイの目が信じられないくらいに大きくなって、口がポカンと開いた。返答に驚いたせいではなかった。
「グレンジャー…?」
 戸惑いの声音にハーマイオニーはハッとする。急いで目元を拭って、そっぽを向いた。
 自分が信じられなかった。あのドラコ・マルフォイの前で泣くだなんて! それも友達がいないことまでどうして言わなくちゃいけないの!? 恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいだった。さもなきゃ、この場から走りだして逃げたい。冷たい視線にさらされて、せせら笑いを我慢するなんてできない。
「グレンジャー」
 おそるおそる振り返ったが、恐れていたような表情にはぶつからなかった。少なくともマルフォイは愉快なこととは思わなかったらしい。笑いの影は何処にもなかった。
「もう一度やってみろ。今日はこれで終わりだ」
 笑われなかったのはありがたいが、やはり泣き顔を見られたのは恥ずかしすぎる。彼の顔をまともに見ることもできず、ハーマイオニーはうつむいたまま箒の上に手をかざした。
(もう、どうでもいい……早く終わらせて帰りたい…!)
「上がれっ」
 その言葉を言い終えた瞬間、ハーマイオニーは自分の目を疑った。箒はいとも簡単に手元に吸い寄せられていた。節くれだった箒の柄の感触。握りしめて、もう一度開いては握る。信じられなくて何度もそれを繰り返す。
「うそ……できたわ!」
「やったじゃないか、グレンジャー。今の今まで、手こずっていたっていうのに」
「どうして…? 今、気合なんか込めてなかったのよ?」
 マルフォイはパチンと指を鳴らし、納得がいったというように頷いた。
「なるほど。君は今まで肩に力を入れすぎていたんだ。君は魔力がそこそこにあるからな。箒はある意味馬みたいなものだ。乗り手にビビッていたんだろう」
「力まなきゃいいってこと?」
「だろうな」
 素っ気ない口調に妨げられていた喜びがふつふつと噴きだしてきて、ハーマイオニーの口元が緩んでいった。ようやく一つ目のハードルを越えられた。そのことが恥ずかしさに勝って、とても嬉しかった。
「ねえ、あとどのくらいで空を飛べるかしら?」
「さあな、君の頑張り次第だ。けど、今日はここまでだな」
 言い終えたと同時に、マルフォイはスタスタと歩いていってしまう。グリフィンドール生と一緒に帰ったりして誰かに見られたら困るんだろう。昨日もそうして素早く帰ってしまったから。
 それにしても忙しない人。面と向かって、お礼の一つをいう間もなかった。そう思っていたら、彼はくるりと振り返った。
「グレンジャー、また明日ここでな」
言い捨てると、サッと駆けていく。
 両親以外の誰かと約束するのなんてはじめてだった。ハーマイオニーは顔が赤らむのが自分でも分かった。頬に触れると、こもった熱を嫌でも意識させられた。
 スリザリンの厭味で陰険なドラコ・マルフォイ。彼はそこまで嫌な人じゃないのかもしれない。ハーマイオニーは箒を抱きしめて、クスリと笑った。