SOAR HIGH - 1/8

 かざした手の合間からジンジンと打ちつける白い太陽が見える。雲一つない澄み渡った空を泳ぐ一羽の鳥の姿に目を留め、ハーマイオニーは舌打ちするのをやっとの思いでこらえた。
 まったくずるい。生まれた時から羽があるというだけで、あんな優美に高く飛べるなんて。地に転がったままの箒を見やり、溜め息をつく。
(私はいつまで経っても空を飛べそうにないわ)
 はじめての飛行訓練が行なわれる前日、彼女は一睡もできなかった。マグル界における魔法使いの証、箒に乗って空を自由に行き来できると思うと、興奮するなというのが無理だった。
 マグル出身者だが呑み込みが早かったおかげで、ハーマイオニー・グレンジャーの名はいまや優秀な生徒としてグリフィンドール以外の他寮にも知れ渡っていた。
 魔法使いの勉強はこれまで受けてきたマグル界の教育とは全く違い、新たに学ぶものが多く、彼女にとっては難解さよりも興味が勝っていた。生来好奇心旺盛だった彼女は、知識という知識を全て知り尽くしたいと願っていた。満腹中枢を壊され、死ぬまで貪欲に食事を続けるモルモットのように、寝る間も惜しんで勉学に励む毎日。そのおかげでどの科目でも常に独走を続け、他の追随を許さなかった。
 だが、いらぬ反感を買うことも多かった。
 例えば友人関係。彼女にはホグワーツに入学してから一月近く経つというのに、いまだに友人と呼べるような親しい間柄はなかった。好きな男の子の話やら、どんなファッションが流行っているやら、ボタンコレクションの見せあいなどに興味が湧かなかったし、それを隠そうともしなかったことにそもそも原因があるのかもしれない。周囲から浮き立っていると気づいた時にはすでに遅く、彼女は皆に敬遠されるようになっていた。
 授業の合間、教室へ向かう時など、友達とはしゃぎながら歩く生徒達の中、彼女はいつも一人だった。たまにそれを寂しいと思う時もある。誰かに声をかけてみようかと思わないこともなかった。だが、固まってしまった潜在意識を拭い去るのは難しい。同じグリフィンドール生からでさえ、彼女は頭でっかちで鼻持ちのならない奴だと思われているらしかった。プライドの高い彼女は、そう思われているのに媚を売って話しかけるような真似はできなかった。
 そして孤独は一層彼女を勉強へと追い立てた。もはや、それ以外自らの価値を証明するものがなかったのだ。
 だが、そのただ一つの特技で彼女はつまずいてしまった。飛行術の初歩ともいえる、箒を手元に引き寄せること。はじめは全くできなかった生徒でさえも皆クリアできたハードルが、優秀なハーマイオニー・グレンジャーにはできなかったのだ。最初の授業で骨折までしたネビル・ロングボトムさえもこの段階はとっくに過ぎてしまったというのに。
 はじめての挫折に彼女は焦り、あれこれ書物を漁ってはコツを調べた。一年生には箒の持ち込みが禁止されているので、マダム・フーチに頼み込んで学校の箒を借り受け、空き時間には何度も練習してみた。
 けれど、駄目だった。箒はミミズのように地面をのたうつだけで、ハーマイオニーの指示には従わなかった。
 一体何がいけないんだろう。その日何度目かの溜め息をついた時だった。
「何やってるんだ?」
「えっ!?」
 ギョッとして振り返ると、すぐ後ろにスリザリンの男子が立っていた。冷たさを強調する白っぽい金髪、癇に障るニヤニヤ笑いには見覚えがあった。確か、ハリー・ポッターに突っかかっていくことで有名な彼…――
「ドラコ・マルフォイ」
「僕の名前を覚えてくれていたとは光栄だね。君はグリフィンドールの知ったかぶり、ミス・グレンジャーだったか」
 訛りのない完璧なアクセントでの厭味は効果倍増だった。ハーマイオニーは怒りをぐっとこらえつつ、彼に対抗して丁寧だが冷ややかに、
「何か用? 私、あなたにかまっているほど暇じゃないのだけど」
「こっちの質問に答えるのが先じゃないかい?」
 薄い青灰色の目がボサボサの箒に移る。
 グリフィンドールから減点してやろうとてぐすね引いて待っているのだろうか。そうはさせない。
「これは私のじゃないわ、学校の箒よ。フーチ先生にお借りしたの。許可だって取ってるわよ、ほら」
 キッと睨みつけたまま、ローブの中から引っ張りだした許可証を突きつけると、マルフォイは引ったくり、見下すような目線を紙面に落とす。
「へえ? それで君はわざわざ先生の許可をもらって、箒を転がして遊んでるってわけか」
「放っといてよ!」
 カッとなって許可証を取り返すと、プイと彼に背を向ける。マルフォイはいやに耳につく笑い声を上げた。
「せいぜい頑張れよ。マグルがいくらやっても無駄だろうけどな」
 その瞬間、ハーマイオニーの中で何かが弾けた。スリザリンの…――それも、こんな純血意識に凝り固まった意地の悪い奴にここまで言われて我慢できるはずがない。
 箒を拾いあげ、またぐと、箒の柄を叩いて叫んだ。
「見てなさい、絶対に飛んでやるから!」
 両足が地を離れ、ふわりと舞い上がった瞬間の彼の顔は見物だった。ほっそりとした狐顔がサッと青ざめた。笑みが知らず洩れたその時、
「馬鹿か! グレンジャー、すぐ下りろッ!!」
「何言って…――えっ!?」
 地上から3mほど浮き上がったところで動きがピタリと止まって、箒が震えるようにガクガクと動きだした。見下ろした地面がひどく離れている感じがする。落ちたらきっと死んでしまう。
 死ぬ、と思った瞬間、彼女の恐怖が伝染したように箒の震えがさらに増した。ハーマイオニーは柄になんとかしがみつきながら悲鳴を上げる。
「や……た、助けてッ…!」
「グレンジャー、目を閉じるな! 下を見ないで、前だけ見てろ!」
「そ……んな、こと言われたって……きゃああッ!!」
「うわっ」
 箒が猛スピードで地に向かって落ちていく。衝突はすんでのところで免れたが、また凄まじい勢いで上空に舞い上がった。その勢いといったらマグル界のジェットコースターのようだった。ただし安全装置のついていない、極めて危険なジェットコースターだ。
 幾度も繰り返される旋回に目が回る。ハーマイオニーの薄れた意識の中で、しっかりと箒をつかんでいろ、とその一言だけが息づいていた。もはやつかんだ柄の固さくらいしか感じられない。
「グレンジャー、しっかりしろ! 大丈夫か!?」
「……ん、えっ?」
 マルフォイの顔が間近にあって、ハーマイオニーはひどく慌てた。顔というよりも身体だ。
「何っ!?」
「飛び乗ったんだよ! おい、グレンジャー、柄から手を離して僕の腰でもつかんでろ。君の手から魔力が伝ってたんじゃ、またいつ暴走するか……僕がコントロールしてやるから早くしろ!」
 気づけば箒はもう揺れていない。
 ハーマイオニーは片手ずつ引きはがすと、おそるおそるとマルフォイの腰に回した。彼の言うことを聞くなんて、と悔しい気持ちにはならなかった。マルフォイはあやうく死ぬところだった自分を助けてくれたのだ。顔が自然と赤くなった。乗れもしない箒に無理やり乗ってしまった自分の馬鹿さ加減が恥ずかしかった。
 不意にマルフォイが肩越しに振り返った。
「君は高所恐怖症か? 今からゆっくり下りるけど、目を閉じてた方がいいんじゃないか?」
「いえ、平気よ」
 真っ赤な顔を見られたのと、思いも寄らぬ気遣いの言葉に驚き、つっけんどんに答えてしまった。すぐに後悔したけれど、彼はさして気にする風でもなく前を向いてしまった。
 先ほどの恐怖を味わわせないためだろうか。マルフォイは旋回しながらゆっくりと下りていってくれた。おかげでハーマイオニーは周りをすっかりと見渡すことができた。
 見慣れたホグワーツ城も、それを囲む山々も、地上から見るのとでは全く別物だった。青い空はもっと浮かび上がり、手を伸ばせば届くのではないかと思わせるほどに近い。
「すごいわ…! こんな景色見たの、はじめてよ」
「このくらいで喜べるなんて全く羨ましいよ、グレンジャー」
 皮肉っぽいマルフォイの口調も地上で聞くよりずっと我慢しやすい。ああ、いつかこんな風に空を飛べるようになれたら…――
 ついに地面に両足が着くと、がっかりした。もっと空を感じていたかったのに。
 箒から目を離したマルフォイと目があうと、ハーマイオニーはドキリとした。そうだ、彼に言わなければならないことがある。唾を呑み込み、息を整える。
「助けてくれてありがとう、マルフォイ……本当にありがとう」
 ホグワーツに来てからハーマイオニーが口にした、はじめての感謝の言葉だった。まさか礼を言われるとは思っていなかったのか、彼の白い頬に赤みが差した。自分でも気づいたのか、ふいと視線を逸らしてしまう。
「別に……僕の挑発で事故られちゃ、たまらないからな。それだけさ」
「ねえ、あなたすごく飛行術が得意みたいだけど」
「まあな。クィディッチの選手目指して家にいた頃から毎日箒に乗っていたし」
「ね、じゃあ飛行術を教えてもらえないっ?」
 マルフォイが目を見開く。驚きのあまり目が飛びでそうな勢いだった。その顔にハーマイオニーもハッと我に返る。そうだ、彼は意地の悪いスリザリン生で自分はグリフィンドール生。そのことが頭から抜けでていた。
 手ひどい応酬に身を竦めたが、予想に反してマルフォイの口から汚い罵りはでてこなかった。
「こういうのはギブ・アンド・テイクだろ?」
「それじゃあ」
「僕は薬草学が苦手なんだ。僕が君の飛行術を見る代わりに、君が僕の薬草学を見る――そういうことでどうだ?」
 なんだ、そこまで嫌な人じゃないんだわ。そう思うと自然と笑みが浮かんできた。
「OK。これから、よろしくね。ミスター・マルフォイ」
 差しだした手をマルフォイは戸惑ったように見つめていたが、やがて頷き、握手を交わした。
「こちらこそ。ミス・グレンジャー」
彼の手は冷たく、ほんの少し震えていた。