消えない魔法① - 5/5

 ピアノ室を飛び出してから校長室に着くまで、そう時間はかからなかった。五十年前の自分が何度となく訪れたところだと、リドルは喉元を押さえてガーゴイル像を見つめた。
 乱れた息遣いを整えているうちに、はたと合言葉のことを思い出した。
 五十年前、監督生で教授達のお気に入りだったリドルは自由に校長室を出入りすることができたが、時代が違う。この部屋の主はお人好しのディペットではないのだから。
 ここでずっと待っていても、ダンブルドアとは会えるはずだ。【ジニーの中】から観察していた時も、いつも食事は生徒達と一緒に摂っていた。
 ただ、こうしている間にもジニーが【過去の自分】に何をされているのか分からない。なんとしてでも早急にダンブルドアに会わねば。
 このガーゴイル像を破壊すれば、合言葉がなくても部屋に入ることができるだろうか。チラと浮かんだ考えは、すぐに打ち消した。呪文弾きの魔法がかかっていれば、自分にダメージが返ってくることになる。ヴォルデモート卿の凶暴な意識に巻き込まれないよう神経を張り巡らせていたせいか、ここのところ魔力が落ちている。直に攻撃が返ってくれば、それだけで致命傷になりかねない。
 教授達から合言葉を訊きだすか。しかし、今のリドルはホグワーツに在籍していないのだから不審者としか見なされないだろう。力づくで、も今は無理だ。
 ならば、校長室に出入りを許されている生徒から訊きだすのは? リドルの頭に真っ先に浮かんだのは、ハリー・ポッターだった。【未来の自分】を倒した子供として、ダンブルドアは懇意にしているようだった。彼なら、きっと知っている。
 身体の向きを変えた途端、階段を上ってきた少女と目が合った。ふわふわした栗色の髪の下にある、はっきりとした顔立ちには見覚えがある。勝気な目が、大きく見開かれた。
「あなた」
 息を呑む気配を感じた。
「ハーマイオニー・グレンジャー、だね。久しぶりだ」
「あの時の……!?」
 ハーマイオニーは抱えていた本の束を取り落とし、杖を構えた。
「なんで、あなたがここに!? ハリーが倒したはずなのに……また何かしようとしてるの!?」
 ヒステリックな問いかけだった。それも当然だ。ハリーを【秘密の部屋】に呼び寄せるために、彼の親友だったハーマイオニーを襲ったのだから。
 リドルは警戒を解くように何も持っていない両手を振って見せたが、ハーマイオニーはじりじりと後退った。
「信用しろって言っても無理だろうけど、お願いだ。ジニーを助けるために力を貸してほしい」
 ハーマイオニーは疑るようにリドルを見据えた。杖はリドルの心臓の位置を狙ったままだ。
「ジニー……あの子に何したの? またあの子を利用して何か」
「時間がないんだ。一刻も早くダンブルドアに会わなきゃ、ジニーが死ぬかもしれない。教えてくれ、ポッターは何処にいる? 校長室に入るには合言葉が必要なんだ」
「死ぬ、ですって? ジニーが!? そんな!
 ダンブルドア……ううん、無理よ! 会えないわ、だってダンブルドアは今日魔法省に行ってるはず。三校試合の審査員の一人が殺されたとかで……いつ戻るか分からないのよ!?」
「ダンブルドアがいない!? そんな」
 リドルは顔面蒼白になったハーマイオニーには目もくれずに、階段を駆け上がった。飛ぶようにピアノ室に戻ると、憂いの篩を覗き込んだ。押し寄せてくる青白い光の群れの中から、ジニーの姿だけを追い求める。どうか生きていてくれと祈るような思いで。
 どうやらあの後、過去の自分はジニーをスリザリンの自室に連れて行ったらしい。居心地悪そうにベッドの片隅で小さくなったジニーの姿を認め、リドルは心の底からホッとした。まだ無事だ。生きている。

『あたし、知らなかった……トムがあんな風に言われてただなんて』
 今にも泣きそうな、ジニーの声だった。目を離していた隙に、何を話していたのだろう。語れなかった――ジニーには知られたくなかった過去の何かを知ってしまったのだろうか。
『仕方ない。僕の中に半分マグルの血が流れていることは君も知っての通りだ』
 対する自分の声の冷たさ。ジニーと出逢ったばかりの頃の自分と同じだ、とリドルは思った。ジニーの全てが作り物にしか思えなくて、無垢な彼女を馬鹿にし、軽蔑しきっていた。第三者として聞くと、それがよく分かった。
『そんな……血なんて関係ないのに。純血とか混血とか……そんなの、どうだっていいよ』
『どうだっていいだって?』
『生まれなんて関係ない。生まれなんかよりも、もっと大事なものが』
『黙れッ!』
『トム……』
『黙れと言っている! 血がどうだっていいって? 血よりも大事なものが何処にある? 魔法省の役人の顔ぶれを見てみろ、【穢れた血】が何人いる? 出自を明かした途端、コロリと態度を変える奴らがいるのは何故だ!? きれいごとを言うな。蔑まれるつらさを味わったこともないくせに、そんな風に言うのはやめろ!! 自分よりも卑しい立場の者を哀れんで、いい気になるな!!』
 天井から見下ろすような視点からでは、よく分からない。けれど、ジニーは傷ついた顔をしているに違いないと思った。多分、リドルを傷つけてしまったことに心を痛めて。おろおろと立ち上がって、駆け寄ろうとする。
『あ…、たし……そんなつもりじゃ……聞いて、トム!』
『うるさい、聞きたくない……!!』

 やめろ、やめろ、やめろッ――カッとほとばしった閃光に弾きだされるように、リドルは顔を上げた。はたはたとこぼれる涙が【憂いの篩】に吸い込まれ、見えなくなる。
 殺してしまった。過去の自分が、ジニーを。
 はじめてだった。偽りの仮面を好いてくれた人は数多くあれど、本当の自分を好きだと。必要だと言ってくれたのはジニーだけだった。
 ジニーと一緒に過ごす時があまりに幸せで、あと少し、あと少しと別れを先延ばしにしてきたせいだ。それ以前に【秘密の部屋】事件でジニーを散々傷つけておきながら、自分のエゴで彼女の元に舞い戻ったことが悔やまれてならなかった。
「こんなことになるくらいなら…、出逢わなければよかった……」
 あんなに優しくて、心に響く音を出せるトムの手が好き――いつかジニーが言ってくれた言葉を思い出し、リドルは笑った。乾いた笑い声だった。

 その手で、最愛のひとを殺めた。

「トム・リドル……?」
 ハーマイオニーだった。泣き笑いしているリドルが狂ったかのように見えたのだろう。痛ましげな視線だった。開きっ放しだったドアを閉め、部屋の中に入ってくる。杖は持っていない。
「遅かったよ……ジニーは死んだ。殺したんだ。過去の僕が……見るといい。その憂いの篩を」
 ハーマイオニーはなんのためらいもなく憂いの篩に顔をつけたかと思うと、すぐに離した。壁に寄りかかったリドルの肩を揺さぶり、
「ジニーは死んでない、生きてるわ!」
「生きてる……?」
 鼓舞するようなハーマイオニーの声だった。彼女は畳みかけるように言う。
「あなたがジニーを抱き起こしてるのが見えたわ。殺したなら、そんなことしないでしょ?
 教えて、どうしてジニーが憂いの篩の中にいるの? ううん、まるで【過去】の世界に入り込んだみたいだわ……あなた、ジニーが大切なのよね? 救いたいんでしょ? それなら、私も協力するわ。ジニーは私にとっても大事な友達なの!」
「無理だよ、君程度の力じゃどうにもならない。ダンブルドアがいないんじゃ」
「やってもみないで諦めないで! あなたは……【例のあの人】でしょ? ダンブルドアと対になる、世紀の偉業を成し遂げた大魔法使いって本に紹介されてるんだから! しっかりしてよ!」
 叱咤するハーマイオニーに、リドルは思わず笑い出しそうになった。どうして、こうも他人のことに熱心になれるんだろう。この娘も何処かジニーと似ている。
「僕は……僕は、どうしてマグルを嫌っていたんだろう……」
 目元を拭いながら、つぶやいた。血に固執しすぎて、大切なものが何も見えていなかった気がした。
 依然として青白い光をたたえた水盆。洗面台に手をついて、リドルは言った。
「ありがとう、ミス・グレンジャー。ジニーは絶対に助けてみせる。僕の命に代えても、必ずね」

(2006/11/05)