壊れた歯車

 昇りつめた地位と権力、名声。その陰にどれだけのものを失ったことか。傍目から見れば幸せな家庭と映っていただろう。美しく貞淑な妻に、できた息子。代々受け継がれてきた家柄と財産に不満を持つことがあろうはずもない。
 歯車同士が噛みあうように万事何事もなかった。あの頃は終わりのない平坦なレールをいつまでも進んでいくのだと信じてやまなかった。
 だが、例のあの人が魔法界に暗雲を投げかけたことで全ては崩れ去った。
 マグル出身者を排除し、純血のみの魔法使いを重んじるという彼の主張を、私は受け入れられなかった。確かに純血のみで魔法使いの結束を固めるというのも悪くはないとは思ったのも確かだ。マグルがいなければ少数の魔法族が生き長らえることは到底できなかっただろう。だが、そのマグルの血のせいか、近年スクイブの出生率が上がっているのも気がかりであった。このままいけば我々の未来は潰えてしまうことだろう。しかし、だからといって罪もない人々を殺すという狂気は到底許すことのできないものであった。
 私は断固として戦う決意をした。
 闇の帝王は人の心の弱みにつけ込み、思うように操る術を持っていた。禁断の秘術に手を染めるも厭わぬ彼のやり口に対抗するには、こちらも冷徹にならざるを得なかった。今日の友に明日寝首を掻かれるやもしれぬ状況の中、疑わしきものは全て罰せねばならなかったのだ。毒草を抜くために、害のない草花までも幾多犠牲にしただろう。だが、そのことを後悔してはいない。そうせねば、被害はさらに広まったであろうから。
 悔やむことがあるとすれば、それはただ一つだけ。
 私が早朝から深夜まで仕事場に詰め、必死に職をこなすのを妻と息子はどのような思いで待っていただろう。帰宅しても疲れきった私には口を利く気力すらなく、倒れ込む寝台だけが全てだった。闇の帝王と真っ向から対決していることで常に命の危険にさらされていた私を心配して口にした言葉にすら、まともに答えてやることは少なかった。
 お父さま――そう呼びとめる息子の顔に浮かんだものにさえ気づいてやれず。妻の優しさに、息子の賢さに甘えていた。口に出さずとも私の気持ちは伝わっているはずだと過信していたのだ。
 闇の帝王の勢力と片をつけたら、また元のように穏やかな暮らしを始めよう。妻と息子と、三人で。苦労ばかりさせてしまった分、いろんなことをしてやろう。息子を加えて、もう一度新婚旅行に行くのも悪くはないかもしれない。そんな空想を巡らせて。
 そして、とうとう闇の帝王が倒れる日がやってきた。ポッター夫妻の幼い息子が、どうやってか彼を消し去ったのだ。その日の歓喜は今でも忘れられない。
 じき全てが終わる。
 例のあの人の残党処理に励んでいたそんな頃、フランク・ロングボトムとその妻が無残な姿で発見された。明らかな拷問の跡に、正気を失った状態で。
 私はすぐさま聖マンゴに赴き、彼らを見舞った。そして…――優秀な闇祓いであったフランクが赤児のようによだれを垂れ流し、旧知の私を虚ろな目で見返したその瞬間、血の気が引いた。
 例のあの人さえいなくなれば全てが終わると思っていた矢先のことだ。これから平和な時代を生きるはずだった彼らが、あんなことになるとは。何よりまだ幼い彼らの息子はどうなるのだ。父母の温かみを知らずに育つというのか。
 スッと冷たいものが心に染み渡った。
 許すまい。このようなことをした輩を断じて許すことはできない。
 闇祓い達と共に血眼でロングボトム夫妻に危害を加えた者達を捜した。ありとあらゆる場所の塵一つ見逃さぬよう入念に。
 そうやって、いくつかの目撃証言からさらに標的を絞り、ついに闇祓いが数人がかりで死喰い人の一味を捕らえることに成功した…――そして、そこに我が息子の姿を見つけたと聞き、どれだけ驚いたことか。信じられなかった、と言う方が正しい。偶然居合わせただけかも知れぬ、状況が息子に不利に働いているだけなのだ。あの裁判が始まる日まで、私はそう言い聞かせてきた。
 だが。息子の顔を見た瞬間、全てが分かった。
 お父さま、僕はやっていません! 必死にそう嘆願する彼の、嘘をつく時に一瞬目を伏せるクセは子供の頃から変わっていない。
 なんたることだ。
 私が一番衝撃を受けたのは息子が死喰い人になっていたことでも、ロングボトム夫妻を手にかけたことでもない。自分の身可愛さに、仮にも仲間ともあろう者を見捨てて親子の情に訴えでたことだ。なんと業の深く、浅ましい様であろうか。
 息子は他の連中同様にアズカバンに収容されることとなった。私がそのように取り計らった。
 その前夜、妻が私の元を訪れた。息子が捕らわれたその日から食事も喉に通らず、急にやつれてしまい、十歳は老いてしまった。かつて美しかった面も見る影もなく、枯れた花を思わせた。
 彼女は息子の罪の軽減を訴えた。だが、身体の底に残る僅かな力を振り絞っての訴えも、しかし私の心を動かせはしなかった。彼女も分かっていただろう。私達は長く時を共にしていたのだから。
 あなたはあの子を愛しているのでしょう? 愛しているのならば何故赦してやらないのですか? 泣き崩れる彼女の言葉に、目を瞑った。
 愛しているからこそ穢れてほしくはなかった。いや、愛する者の穢れを認めるほどに、私の心は強くはなかったのだ。
「さようなら、お父さま」
 そう、息子もまたそうであった。弱さゆえにヴォルデモート卿の圧倒的な力に取り込まれてしまったのだ。残忍な笑みを浮かべながら杖先を向ける我が息子。押し寄せる緑の光は、きっと気づけなかった私への罰なのだろう。

(2004/04/03)