臨界点

 かつては連夜ダンスの繰り広げられたフロアに集まった黒装束の人々は、まるで葬儀に参列しているかのように互いに口も利かず、目線も合わせない。皆、骸骨のような仮面をつけているため、顔の大部分が隠れている。だが、食い縛った口元や震えが彼らの心を如実に伝えている。
 フロアの中心から断続的に聞こえる、声。髪を振り乱し、床を右往左往に転げ回っている男の身体からは平生の白さが失われており、血管が浮き上がっている。遠巻きに見ている人々は、彼が少しでも近づいてくると、その分だけ後ろへと退がる。絶えず動く人の波の中で、静止しているのはただ四人ばかり。
「ィヤアアアッ……!! 離してッ、離してェ!! ルシウスッ、あなた……!!」
 のたうち回るルシウス・マルフォイに勝るとも劣らぬ悲鳴を上げているのは彼の妻ナルシッサだ。羽交い絞めにして押さえつけているマクネアを、今にも振り解かんばかりに暴れている。
 そんな母親とは対照的に、息子であるドラコ・マルフォイは父親を拷問している男を見つめたまま凍りついていた。指揮者のように優美に杖を動かしている男を。
「美しい夫婦愛だ」
 そのささやきには嘲りの響きだけがあった。マクネアの顔に怯えの色が走り、遮二無二ナルシッサを引き倒すと馬乗りになった。口元を押さえつけ、なんとか黙らせようとしているのだ。これ以上、ご主人様の怒りを買わぬようにと。彼女までが恐ろしい罰を受けぬように。マルフォイ家と懇意にしている彼ができる、それが精一杯のことなのだろう。
 ヴォルデモート卿は杖をそのままに、ぐるりと周囲に目をやった。
「さて…、俺様が何故こうまでルシウスを痛めつけておるか、お前達は疑問に思っているであろう。十三年前のあの例の事件の後、俺様の行方を追わなかったことを寛大にも赦してやったというのに何故か?
 俺様はこのルシウス・マルフォイを下僕の中でも高く評価しておったのは周知の通りだ。これの父親、アブラクサスは俺様がまだ一介の魔法使いに過ぎなかった頃から側に仕え、力を尽くした。ルシウスも父親同様まだ子供の時分から俺様の手足となり、務めを果たしていた。
 だが」
 骨ばった手が頭上に上がると、仰向けになったルシウスの身体が床の上で弾みだした。ひきつけを起こしている。酸欠状態になっているのだろうか。今にも飛びだしそうなほど剥きだしになった目には、蜘蛛の巣状に血管が浮きでている。
「お前は俺様の信頼を裏切った。ルシウスよ…、お前だからこそ預けたものを、よもや粗末に扱おうとは。俺様は夢にも思わなかった」
 あまりの苦しみに自ら終止符を打とうというのか、喉を絞める部下の姿にも、些かも心を動かされている様子はなかった。
「……我が君、どうか、これ以上は。ご慈悲を…、このままでは」
「マクネアよ。お前は、このヴォルデモート卿に指図しようというのか?」
 切れ切れの哀願を鼻でせせら笑いながらも、ヴォルデモートはようやく杖を下ろした。
 マクネアが立ち上がりかけるや否や、ナルシッサが彼を突き飛ばすようにしてルシウスに取り縋った。治癒の呪文を唱え、夫を少しでも楽にしようとするが、そもそも磔の呪いは外傷を与えるものではない。神経系を直に攻撃して苦痛を与えるものであり、魔法薬でもなければ大した治癒が望めない。そんな常識を失念するほど、彼女は取り乱していたのだ。
 ナルシッサは杖を振るのをやめ、力なく転がった夫の腕を撫でさすった。ヴォルデモート卿の目から隠そうとするかのように、ルシウスの身体に覆いかぶさり、必死に何事かをささやく。
 ドラコはその一切を見ていなかった。ヴォルデモート卿は両親ではなく、彼に近づいてきたのだ。
「ジニー・ウィーズリー」
 ヴォルデモートがほとんど愛しそうに頬を撫でた。ドラコは喉が大きな音を立てるのを聞いた。唾を呑み下したその音に、果たしてヴォルデモート卿は気づいたのだろうか。ニタリと笑いながら、ささやく。
「知っているか、その娘を」
 ドラコは咄嗟に何を訊かれたのか理解できなかった。ようやくそれが誰を指しているのかに思い至ったが、ヴォルデモートが何を言わんとしているのかは全く分からない。
 ヴォルデモートの長い指が、左のこめかみに触れた…――瞬間、激痛が右へと駆け抜けた。鋭い爪が頭蓋骨に穴をあけたのかと思ったほどだ。
 ――返すわ。あたしは……あたしが死んだとしても、もうあんな事件は起こさない。こんな日記……もう、いらない。
 そうジニー・ウィーズリーが言ったのは一体いつだったろう? 確か三年生に上がってから、まだそう日が経っていなかった。夏休み中、ひどく深刻な顔をした父に呼びだされて、これをウィーズリーの娘に渡すようにと言いつけられた。ゴミのようになった日記帳の残骸を。【あの方】の【記憶】が宿ったソレで事件を引き起こすのだと父は言っていた…――
 何故、今になってこんなことを思いだす?
《そう、その日記帳》
 ヴォルデモート卿の冷ややかな声が、頭に響いた。唇のない、ただの切れ目のような口は結ばれたままだ。ドラコの疑問は、間近に迫った恐ろしい顔に吸い取られるように消えていった。
《俺様が託したソレを、お前の父親は許しもなく勝手に持ちだしたのだ……おかげで大きく運命が狂わされた。俺様の死に抗う術も、そして…――
 ドラコよ、ジニー・ウィーズリーの元にある日記帳を取り返すのだ……もう何をしたところで起こってしまったことは変わりないが、血の巡りの悪い小娘のところにアレがあるのは我慢がならぬ。これ以上、父親を痛めつけられる姿を見たくなくば、だが……他言は無用だ。話せばお前も、お前の両親の命もとる……よいな》
 ドラコが震えながら頷くと、ヴォルデモート卿の指先が離れる。彼はもはやなんの興味もなくなったというようにフロアをでていったが、死喰い人達はなおも動こうとしない。ご主人さまの後を追い、その場を辞したものか、傷ついたマルフォイ夫妻に声をかけたものか決めかねているように見えた。
「ドラコ…、大丈夫か?」
 マクネアの気遣わしげな声に、ドラコは頷いた。熱を失った頬に手をやると、改めて震えが立ち上る。
 あれがヴォルデモート卿――父が畏怖をこめてささやいていた【あの方】なのか。仲間内の誰よりも魔力を持ち、権威を持ち、魔法大臣ですら動かせる父を指先一つで簡単にねじ伏せるあの男が。人間離れした容姿に、残虐さ。【あんなモノ】とハリー・ポッターは今まで幾度となく対峙してきたのか。
 だが、それよりも…――ドラコは先ほど頭に響いてきたあの声を思いだした。
 何故、ハリー・ポッターではない? 宿命の仇ではなく、何故ジニー・ウィーズリーなんだ? 兄達の影にひっそりと隠れているようなヤツの名前を、知っているのは何故だ?
 ドラコは首を振り振り、両親に近づいていった。
 考えたって分からない。ジニー・ウィーズリーから日記帳を取り返し、【あの方】に献上する。ただ、それだけだ。
 ルシウスはうっすらと目を開けていたが、まだぼんやりとした意識しかないのだろう。視線が交わることはなかった。横たわる父を見下ろしながら、ドラコはもはや自分が父親に恐れを感じなくなっていることに気がついた。

(2007/12/22)