(トム……トム、ねえ、トムったら! 聞こえてないの? ねえ?)
呼びかけてもなんの答えもない恋人に、ジニーは苛立っていた。
今月末に三校対抗試合の最終課題があり、校内は異様な盛り上がりを見せていた。何せ、三校対抗試合が開催されるのは百年ぶりなのだ。第一の課題は凶暴なドラゴンとの対決。第二の課題は湖の底深くに囚われた人質を解放という予想だにしなかった難しい課題が与えられた。最終試験はそれらを遥かに上回る難題となるに違いない。選手達はどうやってそれを切り抜けるだろうか。そして、優勝者は誰か。生徒達の心は様々な展開を予想し、はちきれんばかりだった。
しかし、だからといって期末テストを免除される道理もない。学期末のテストは毎年恒例の六月の最後の週にかけて。つまりは、三校対抗試合の最終課題があるその日まで行われるのだ。胸を張って家に帰るつもりなら、勉強をおろそかにはできない。
ジニーはここ数週間、週末がくるたび、ピアノだけが置かれた例の部屋でリドルと二人きりで会っていた。今はもっぱら歌の練習ではなく、勉強を見てもらうためだ。
監督生で成績優秀だったという彼に一対一で教わると、習った内容が驚くほどよく理解できたし、大の苦手だった魔法薬学でさえ、なかなかの点数が取れるようになった。そのおかげで授業中にいびられることも少なくなり、スネイプへの恐れも薄れてきた。教授が怖くなくなると、彼の話している内容もしっかりと聞き取れるようになる。そうして、ますます成績が上がっていく結果に繋がった。
苦手科目が克服できると、他の科目もやればできるという自信がつく。そして、その自信は勉強だけでなく、他の面でも少しずつ開花し始めていた。内気で人見知りだった頃のおどおどとした態度がなくなり、背筋を伸ばして、前を見据えて歩くようになった。
クリスマスのパーティーでダンスに誘ってきたマイケル・コーナーをはじめ、少しずつ男子生徒達の関心を惹き始めたことに、ジニー自身はまだ気づいていなかった。彼女の関心は二年ほど前からたった一人の恋人に。トム・リドルにだけ向けられていたからだ。
今日もジニーはリドルと会う予定だった。日記帳から媒介を移したことで、リドルはジニーと意識を共有している。いつもなら頭の中で呼べばすぐに答えてくれるし、周りに人がいない時は実体化して側にいてくれる。が、何故か今日は何の応えもない。
「トムッ? 聞こえないの……ねえ」
声に出してもみた。が、返事はやはり返ってこない。
怒りは徐々に不安に変わる。リドルはよく思いだしたように『いつか、僕が消えたら』ということを口にしていた。まさか【その時】がきてしまったのではないだろうか? リドルはもう消えてしまったのでは?
「トム! やだ、答えて。トム……!!」
《……ニー…………ジニー?》
(トム? よかった……どうして、すぐに答えてくれなかったの? トムがいなくなったんじゃないかって、不安で……)
当惑したような【声】が頭に響くと、安心して、少しだけ責める口調になる。
ごめん、とささやくと、音もなくリドルが目の前に現れた。風に翻ったカーテンの陰から姿を見せるように、なんの違和感もなく。
ジニーは彼の顔を見て、首を傾げた。いつも血の気のない顔色だが、今日は紙のように白い。普段なら目が合うだけで笑いかけてくれるのに、厳しい表情をしている。
「トム、具合でも悪いの?」
人間ではない彼の体調が悪くなることもあるのだろうかと思いながらも訊いてみた。リドルは首を振った。いかにも気だるそうだった。
「遅くなってごめんね。約束を忘れてたわけじゃないんだけど……僕自身の意識に集中してないと【彼】に引きずり込まれそうだったんだ」
「彼?」
「ヴォルデモート卿」
名前を口にするだけでも怯えるから、リドルはジニーの前で自分の【未来の名前】を言うことはない。うっかり口を滑らせてしまったらしい。ビクンと反応したジニーに気づいて、リドルは慌ててごめんとつぶやいた。
「最近、彼の力が増してきた気がする。感じるんだ。僕は彼が遠い【過去】に切り離した【記憶】だから、彼がどうなろうと影響なんてないと思ったのに。意識が同化しそうだった。何もかもを滅茶苦茶にしてやりたい気分になって、どうしようもなかった……衝動を抑え込むのに必死だったんだ」
「大丈夫?」
「うん。もう平気だよ、鎮まったからね。じゃあ、今日は何から教えようか?」
「トム、正直に言って……【あの人】は戻ってくるの?」
リドルは黙ったまま、ジニーの手から鞄を取ると、一番手前にあった教科書をなんの科目かも確認せずにパラパラとめくりだした。ジニーが引ったくると、諦めたように肩をすくめた。
「多分。そう遠くない日に」
「【あの人】が戻ってきたら、トムはどうなるの?」
「ジニー、今そんなことを話し合っても仕方ないことだよ。今はそれより」
「どうなるの!? こんな不安なままで勉強なんてできない! さっき同化する……とか言ったよね? トムは【あの人】の一部に戻っちゃうの? 消えちゃうの……!?」
教科書と鞄が音を立てて床に投げ出される。胸元につかみかかりながら叫ぶジニーをやんわりと椅子に座らせると、リドルは落ち着かせるように両肩に手を置いた。
「一度分かたれた僕が、彼に戻ることはない。それは、ありえない。
でも、彼が復活していない今でさえ、こうなんだ。もし甦ったら今以上に彼の意識が僕に流れ込んでくるだろう……そうなったら僕は自分の意識を保てないかもしれない。一番身近にいる君を危険にさらしてしまう。そうなる前に、僕は君から離れようと思う」
「離れる……? 離れても大丈夫だよね? 今までみたいに皆に隠れて、こっそり会えるよね?」
ジニーが肩越しに振り返ろうとするのを押し留めるように、リドルは背をかがめて抱きしめた。
「君という媒介を失ったら、僕は消えるしかない」
「消える……そんな。嫌……」
ジニーは言葉を途切らせた。
大好きなリドルがずっと一緒にいられない人だというのは分かっていた。彼はそもそも人間ではないのだから。でも、リドルがいなくなるのはずっと先の【いつか】のはずだった。こんなにも早くいなくなっていいはずがない。そんな覚悟はまだできていない。
「今すぐじゃない……数ヶ月か、数年か。まだ時間はあるよ」
「そんなの、あっと言う間だわ……他に方法はないの?」
慰めるような口調に、それ以外ないことは分かった。けれど、訊かずにはいられない。
髪をかすめた吐息で、リドルが微笑したのを感じた。
「僕だって、ずっと君と一緒にいたい。もうずっと前から、いろいろ考えていたんだ。肉体を得られる方法はないか。君と一緒に時を重ねていくことはできないだろうかって。
でも……悪い魔法使いのかけた呪いは、いつか必ず解けるもの。お姫さまにはそれに相応しい王子さまが助けにきてくれるものなんだ。ハッピーエンドに、悪い魔法使いの出番はないよ」
「あたしの王子さまはトムよ。トムだけなの……消えないで。消えちゃ、いや」
リドルの手が、スッと離れた。子供みたいに駄々をこねて、困らせてしまった。自分が死にたくないのと同様に、リドルだって消えたくないに決まってるのに。あんな風に言ってしまって、きっとリドルは怒ったに違いない。
側を離れるのかと思いきや、リドルは隣りに腰かけてきた。ピアノの蓋を開けると、そっと両手を置く。ジニーを見て、優しく笑いかけた。
関節の目立たない長い指が、鍵盤の上をなめらかに流れる。その動きも、奏でる旋律もきっと魔法だ。憂愁の漂う美しい曲に聴き入りながら、ジニーは自分の哀しみが溶けていくように感じられた。心に染み入った曲が、哀しみを洗い流していってくれたようだ。それは言葉以上にジニーの心に平静を取り戻させた。
最後の音を鳴らした指が、ゆっくりと鍵盤を離れた。
「『別れの曲』……メロディーがきれいだったから気に入ってたんだけど、今、君と出会えて、ようやくこの曲の本当のよさが分かった気がする。出会いは無駄じゃない。思い出はずっと積もり積もって、追憶の日を待っている。どんなにつらい思い出も、いつか優しい気持ちで思い起こせるものなんだ」
「トム……」
リドルの膝に手を置いて、腰を浮かせた。唇を合わせながら、ジニーは彼の足にまたがるような体勢になった。リドルの身体が硬くなるのを感じたが、ジニーは一層身体を押し当てるようにした。肉のない背中、広い胸。触れ合う足は眺めているだけではその細さしか分からなかったが、年下の少女の重みなど物ともしない。
唇を離すと、ジニーは自分のネクタイに手を伸ばした。シャツとベストの間から出し、ほどこうとする。リドルは素早くその手をつかんだ。
「ジニー、駄目だよ」
「どうして? あたし、もう子供じゃない……自分の行動くらい分かってる。あたしはトムが好き……本当に、好きなの。誰よりも……そのあなたが近いうちにいなくなってしまうかもしれない。だったら、今、まだ側にいてくれるうちに、あたしをもらってほしいの」
「駄目だ。君を傷つけるわけにはいかない」
「傷って、何? 好きな人に抱かれることが傷になる? それとも、トムは嫌なの? あたしのこと……抱きたくない?」
リドルは信じられないといった表情でジニーを見つめた。何か言いかけ、言葉を探すように唇が動いた。けれど、答えはイエスでもノーでもなく、きつく抱き寄せる二本の腕だった。我を忘れたように口づけてくるリドルの手が、ローブを脱がせていく。肩から滑り落とすと、今度は彼自身の襟元をまさぐった。ネクタイをほどいて、シャツのボタンを外していった。直に触れる肌は、興奮に熱くなっていた。
「僕がどれだけ我慢していたか、なんて君は知らないだろうね?」
「我慢?」
「そう。もうかなり前から……そうだな。一昨年のクリスマスに言い争いをしただろ。覚えてる? きっと、あの頃から君を意識してた」
「あたしは、もっと前。一年生の頃から……ハリーへの憧れとは少し違った気持ちで、トムを想ってたの」
垂れかかっている髪を背中の方に追いやりながら、首筋にキスしてくるリドルに、ジニーは声を震わせた。耳に触れる彼の手つきといい、初めての感覚は気持ちいいというよりもこそばゆかった。
リドルに促されるままに身体の向きを変えようとした拍子に、伸ばしたままだった足がピアノの裏側を蹴ってしまった。コン、とつまさきに何かが硬いものが触れたと思うと、カシャンと派手な音が響いた。
「えっ……?」
続いて、カラカラという音が遠ざかっていく。
「ど、どうしよう、トム……なんか壊しちゃったかも……」
驚いてリドルの身体から下りると、ジニーは膝をついてピアノの裏側を見た。そこには半円状の留め具がくくりつけられていた。
一緒に覗き込んだリドルが、
「ここに何かをかけていたのか。大丈夫。壊したわけじゃない」
「でも、何を……?」
一旦手を止めてしまうと興奮が冷め、自分の姿が思い出されて恥ずかしい。シャツの襟を直してローブをはおると、ジニーは何かが転がっていった部屋の奥の方に行ってみた。手にすっぽり治まるサイズの金色の物だ。二つの環を組み合わせた中心には砂時計が配置され、周りには星型の穴が無数に空いている。鎖をつければネックレスになりそうだ。
「なんだったの?」
「あ、うん。砂時計みたい……あれ?」
振り返ろうとした時、ジニーは壁に小さな穴を見つけた。ホグワーツは古城だから、穴があったところでそこまでは驚かない。けれど、形がくっきりとしていて鮮明。その上、今拾い上げたばかりの砂時計によく似た形なのだ。二つの環の間隔もまるで同じ。穴と砂時計をしげしげと見比べながら、ジニーはそっとそれをはめこんでみた。鍵穴に鍵を差し入れた時のように少しのズレもなく、すんなりと挟み込めた。
「ジニー?」
訝しげなリドルの声だ。鈍い音を立てて、壁が左右にぱっくりと割れていく。急にリドルの足音が速くなった。
「ジニー、一体これは」
「あの砂時計とぴったりの穴があるから、もしかしたら何かの仕掛けかも」
壁の動きが止まった。中は、ほんの小さな隠し部屋になっていたらしい。古びた造りの洗面台と、人一人がようやく立てるほどのスペースしかない。
洗面台の上には浅い石の水盆が置かれていて、そこから青白いぼんやりとした光が漂っていた。その光が何かに似ていると考え、ジニーは思い出した。あの【秘密の部屋】の事件の時、媒介がまだ日記帳だった頃のリドルは、これによく似た光をまとっていた。
「これは……憂いの篩だ。何故こんなところに? 誰の憂いだ?」
かすれた声で言うリドルは心底驚いているらしい。
「ウレイノフルイって?」
「人の想いや記憶を保存しておける魔法アイテムだよ。でも、これは僕が【分離】された後にできたものだな……この部屋は隅々まで知り尽くしていたけど、こんな仕掛けがあるなんて知らなかった」
「誰か他の人もこの部屋を使ってたんだ」
自分とリドルの秘密の部屋を他の誰かが使っていたと考えるのは、あまりいい気分ではなかった。それに、その誰かが今もこの部屋を使っていたら? リドルの存在が知られてしまうのは、とても危険なことだった。
「ねっ、トム……もう今日は寮に戻ろう? トム!」
「ん、ああ。そうだね」
食い入るように見ていたリドルが、なんとか思い切るように視線を外し、ピアノの方へと戻っていく。
ジニーも一旦は戻りかけたのだが、両開きになったままの壁が気になって足をとめた。今さらかもしれないが、ここに出入りしている人がいるなら自分達の存在に気づかれたくない。
壁の前に行き、砂時計を引っ張った。これが鍵なら、抜けば壁はまた元通りになるはずだと思ったのだ。しかし、角度が悪いのか、なかなか抜けない。渾身の力を込めると、すっぽ抜けてしまった。砂時計は後ろに傾いたジニーの手を離れて、まるで狙いすましたように憂いの篩の中に飛び込んでいった。
しりもちをついたジニーは唖然とし、
「あっ、あーッ……!? 嘘っ……」
駆け寄り、何も考えずに水盆の中に右手を突っ込むと、すぐに指先が硬い物に触れた。引っ張り出そうとして、ジニーは息を呑んだ。何かが手首を捕らえたのだ。水盆の上には光が漂っていて中身はよく見えない。けれど、この感触は人の手だ。こんなにも浅い水盆に人が隠れているはずはないのに。
「ジニー、どうしたの? まだそこに何か」
「トム! なんか変なの、これ……えっ?」
水盆の中の液体とも気体もつかないものがグルグルと回り出していた。ひやりとした恐ろしさが湧き起こってくる。ジニーは左手も突っ込み、自分の手をつかんでいるモノを外そうとした。けれど、水盆のなかのモノにはそうすることが分かっていたらしい。左手首も勢いよくつかまれてしまった。
身体が一瞬ふわりと浮き上がったかと思うと、一気に急下降する。
「キャ…、あァァーッ……!!」
「ジニー!?」
異変に気づいたリドルが駆け寄ってくるまで、呼吸を一つか二つするほどだった。だが、遅かった。ジニーの身体は淡い光に呑み込まれ、水盆の中に消えていた。