ひたひたという足音が自分に続いて部屋の中に入った。身を乗り出し、ドアを閉めると、
「もういいよ。マントを脱いで」
リドルは言いながら手を伸ばした。指先に布の手触りを感じると、無造作に引っ張る。ぐにゃりと空間が歪んだかと思うと銀色のマントに早変わりする。その陰から小さな女の子が現れた。マントを取る時に髪が乱れたのだろう。何度か髪に手をやり、撫で下ろす。蝋燭に灯った火とよく似た色合いの髪だ。動くたび、しっとりとした光沢が上下する。
これが自分の魂の一欠片が愛した娘なのかと、リドルは改めてジニー・ウィーズリーと名乗った少女を注視した。背が小さく、体つきは華奢。あどけなさの残る顔立ちは可愛らしかったが、取り立てて目を惹くものではない。まじまじと見つめるほどに、先ほどと同じ疑問が湧いてくる。
こんな子供の何処を好きになったのだろう? ウィーズリー家の純血を愛したのか。それとも、それに付随する魔力か。
スリザリンでは監督生に個室が割り当てられるのが幸いした。狭いながらもこの部屋にはバスルームもついている。食事をなんとか運び込めれば彼女を連れ込んだことが洩れる心配はない。リドルは机の中にきっちりと引いた椅子を出し、腰かけると、不安そうな面持ちのまま入り口に立ち尽くしているジニーに声をかけた。
「適当に座って」
ジニーは頷き、ベッドの片隅に座った。背を丸めて膝小僧を抱くその仕草が、いかにも幼く見える。ローブから覗く足にも、特に注意している様子はない。それ以前に状況が状況とはいえ、男の部屋に一人のこのこくる辺り、かなり無防備だといえる。何をされてもおかしくないことを分かっているのだろうか。そもそもヴォルデモート卿の恐ろしさを知っているくせに殺されるとは考えてもみないのか。
ジニーは何を考えているのか、ぼんやりと何処かを見つめている。全く変な子だと苦笑する。
「疲れたかい?」
「ちょっとだけ」
「もう少ししたら夕食を持ってくる。寝るのは食事を摂ってからの方がいい」
ジニーは微かに笑ってみせた。
「ありがと。ねえ、トム、あの……さっきの子」
「さっきの子? オリオン?」
オリオン・ブラックは七百年の歴史を誇る純血の名家で、実質魔法界の王族とも言える一族の次期当主だ。二学年下だが、スラグ・クラブで顔を合わせる中で親しくなっていった。軽薄に見えるが、他の愚鈍な連中よりも知恵が回り、口も堅い。今回の透明マントのように入り用の物があれば大抵彼に頼むと簡単に手に入るのも便利だった。
けれど、ジニーは首を振る。
「ううん。あの、さっきの談話室にいた女の子」
「ヴァルブルガ?」
オリオン・ブラックのはとこであり、婚約者でもある彼女。年上の婚約者にほぼ言いなり状態のオリオンを見るに、将来的にブラック家を牛耳るのは彼女だとリドルは確信していた。それだけに彼女の恨みを買うことは避けたいのだが、顔を合わせれば向こうから嫌味を言ってくるのだからどうしようもない。ヴァルブルガがいない時は自分の周囲に集まってくる連中も、ブラック家の令嬢の目を気にしている。全くやりづらい。
ジニーはその彼女の何を話そうとしているのだろう。未来の彼女がどうなるかを知っているのか? もしかしたら、その情報でヴァルブルガを味方に引き入れることができるかもしれない。なかなか続きを話そうとしないジニーに、リドルは固唾を呑んだ。
「ヴァルブルガがどうしたの、ジニー」
「あの子、いつもああなの? トムに……いつもあんなひどいこと言うの?」
「ひどいこと……? ああ、【穢れた血】とか? 皆、リドルという姓で、純血じゃないことには気づいてる。おまけに彼女は筋金入りのマグル嫌いなブラック家の令嬢だからね」
ジニーは目元を曇らせた。
「あたし、知らなかった……トムがあんな風に言われてただなんて」
「仕方ない。僕の中に半分マグルの血が流れていることは君も知っての通りだ」
哀れまれているのかと思うと、腹が立つ。怒りを押し隠しながら言うと、ジニーは一層悲しげな顔になった。
「そんな……血なんて関係ないのに。純血とか混血とか……そんなの、どうだっていいよ」
「どうだっていいだって?」
それが魔法使いにとっては全てだ。より優れた血統かどうかが。だからこそ七百年の昔から続くブラック家を崇め、マグル出自の者を軽視する世になっているじゃないか。この子は一体何を言ってるんだ?
ジニーは自分自身の言葉に頷きながら、さらに言った。
「生まれなんて関係ない。生まれなんかよりも、もっと大事なものが」
「黙れッ!」
「トム……」
「黙れと言っている! 血がどうだっていいって? 血よりも大事なものが何処にある? 魔法省の役人の顔ぶれを見てみろ、【穢れた血】が何人いる? 出自を明かした途端、コロリと態度を変える奴らがいるのは何故だ!? きれいごとを言うな。蔑まれるつらさを味わったこともないくせに、そんな風に言うのはやめろ!! 自分よりも卑しい立場の者を哀れんで、いい気になるな!!」
おろおろと立ち上がったジニーが、
「あ…、たし……そんなつもりじゃ……聞いて、トム!」
「うるさい、聞きたくない……!!」
駆け寄ってきたジニーが、あと一歩でリドルに触れるというところでピタリと止まった…――と思うと、見えない力で引っ張られたかのように後ろに飛んでいく。耳をつんざく悲鳴。ベッドの支柱に叩きつけられ、それはすぐに静まった。
力なく床に倒れ伏したジニーを冷ややかな目で見やりながら、リドルは杖を取り出した。子猫でも抱き上げるように、無造作にジニーの首をつかむ。息苦しさに重たげな目を開いた彼女をベッドにもたれかかるように座り直させると、こめかみを軽く杖で押すようにした。
「レジリメンス!」
白い光がジニーに突き当たって、返ってくる。リドルはまぶしい光に目を細めながら、ジニーの目を凝視していた。まだ意識が完全に戻っていないのか、その目に恐怖の色はなく、ひどく静かだった。
――トム。
甘えるような声は、彼女の記憶から引き出されたものだ。目の前のジニーが遠のいていき、白い霞の中から次々に色が現れていく。
――ニホンではバレンタイン・デーにチョコレートをあげるんですって……好きな人に。
日記を覗き込みながら、今より幼いジニーが言っていた。バレンタインに少しでも目立つものをハリーにあげたいと相談してきたのだ。そんな中、孤児院では滅多にチョコレートを食べられなかったことを話すと、ジニーはマグカップを片手に持ってきた。
――あたし、トムのこと大好きだから、トムにもチョコレートをあげたかったの。
インクの代わりに、ホットチョコレートで書き綴ったジニー。伝わるはずのない味覚に、心に、ほんのりと柔らかな甘さが伝わってきた。利用されていることも知らずに、ただ【僕】を気遣って……?
――あなたが……どうして、ひどい、ひどいよぉ……友達だと思ってたの。ホントにそう思ってたの……あたし、だけだったの?
全てを知った後、泣きじゃくって【僕】を投げ捨てたジニー。手放した瞬間、彼女の泣き声が一際高まった。
――皆を殺させたりしない…、絶対に殺させたりしないわ……!
怖くて震えてるくせに、目だけはしっかりと【僕】を見つめている。日記帳を手放せば、それ以上自分に危害が及ぶことはなかったのに、わざわざ取り戻しにやってきたのだ。何故? 自分の命を懸けてまで、誰かを救おうとした? 馬鹿な!
――殺さない…、殺せないわ。騙されてたことも、あなたがあたしのこと嫌いなのも、自分が馬鹿なのも……全部、分かった。それでも、あたし、あなたが好きなの……だから、殺せない……。
命を奪いかけた【僕】にそう言った。騙して命を奪いかけたんだ。憎んで当然だ。怨んで当然なのに、好きだと言ってくれた。【僕】の全てが偽りだと分かっても、なお、赦そうとしてくれた……? 何故?
どうして。
粗探しをしようと思っていたのに。抵抗力の弱った時なら彼女の本音を覗けるはずだと思ったのに。どうして、こんなにきれいなんだ? 逃げだしたり、怖がったり、嫉妬したり…――人間らしいそんな醜い感情だって持っているのに、どうしてジニーの心はこんなにきれいに見える?
白ばんだ世界に亀裂が入り、カラカラと音を立てて崩れていく。
「ジニー? ジニーッ!?」
ベッドに力なくもたれかかっていたジニーの目が、いつの間にか閉じられているのを見たリドルは、杖を放り出し、彼女の肩を揺さぶった。口元に手をやり、生きているのを確認する。開心術は相手と目を合わせていなければならない。いきなり【記憶】の世界が失せたのは、彼女が気を失ったためだろう。リドルはホッと胸を撫で下ろし、そんな自分に愕然とした。
(違う、この子を心配したんじゃない……! 未来からきた、貴重な情報源を失うわけにはいかないからだ……この子自身を心配したんじゃない!)
会ったばかりの、それもこんな子供の身を案じるはずがないのだと自分に言い聞かせる。
靴を脱がせ、ぐったりとした身体をベッドに寝かせると、肩まで掛け物で覆ってやった。そのあどけない寝顔を、リドルはじっと見つめていた。