ジニーは小走りになりながら、リドルについていった。特に急いでいるわけでもないのだろうが、規則正しく動く長い足はグングンと進んでいく。ジニーは【記憶の彼】がいつも歩調を合わせてくれていたことに思い至った。五十年前の彼は自分と親しいどころか、その存在すら知らなかったのだから、なんの気遣いもないのは当然だ。
「ねえ、何処行くの?」
ピアノの置かれていたあの部屋を出てから、リドルは「ついておいで」と言ったっきり口を利かない。リドルは面倒くさそうに振り返り、
「寮だよ。あのまま、あそこに寝泊りしたい? いつ帰れるか分からないのに」
「……一つ訊きたいんだけど。今、この学校にダンブルドアっていう先生はいる?」
「ダンブルドアだって?」
リドルの眉間にシワが寄った。
「アルバス・ダンブルドアのことなら、いるよ。変身術の教師だ。彼が何か?」
「ダンブルドア先生なら、あたしが未来に帰る方法を教えてくれると思うの……どうして、五十年も前にきちゃったのか。すぐには分からなくても、状況を伝えればきっと」
「それは駄目だ。そうするというなら、君を始末するしかない」
冷ややかな声で、リドルがささやいた。
廊下の向こうから誰かの足音が響いてくると、リドルは足を止めたジニーの手を取り、引きずるように歩き出した。前を向いたまま、彼は続ける。
「ダンブルドアに君の存在を知られるわけにはいかないんだ。君の未来の情報を彼が引き出したら、僕の計画は丸つぶれになる。僕の未来は誰にも邪魔をさせない。
いいかい? 無事に帰りたければ、おとなしくしているんだ。僕の言うことをちゃんと聞いていれば、悪いようにはしない。君の情報はとても有意義なものだったからね」
「……あの砂時計のせいでこの時代にきたんなら、あれを使って帰れるんじゃないの?」
この時代のリドルは、いつ自分を殺してもおかしくない。ジニーは恐怖に震えながらも訊いてみた。
「残念ながら。タイム・ターナーは時を遡るための魔法アイテムであって、未来に行くことはできないんだ」
けれど、リドルの答えはなんとも素っ気ないものだった。
例え元の時代に戻れないにしろ、この時代に自分をつれてきたのはあの砂時計なのだ。今、自分と未来とを繋ぐのは、あの砂時計以外にないのだ。取り上げられたままになっているのが不安で、よほど返してと言おうかと思ったが、このリドルにそれを言って無事にすむかが分からない。
ジニーは結局口をつぐんでいることに決めた。とにかく未来に帰すことは約束してくれたのだから、余計なことは言わない方がいいだろう。リドルもダンブルドアに並ぶ魔法使いなのだから、彼に任せておけば何も心配はない。そう言い聞かせて。
それにしても、とジニーは首を傾げた。先ほどから廊下で誰ともすれ違わないのが気にかかった。茜色の空が、夕暮れ時だと告げている。授業を終えた生徒達がその辺にたむろしていてもおかしくないのに。
「トム? この時代は規則が厳しいの?」
「五十年後がどうなのかは知らないけど、特に厳しいこともないと思うな。何故?」
「廊下に人気がないから……さっき足音が聞こえたっきりでしょ? 授業が終わったらすぐに寮に戻らなきゃならないの?」
ああ、とリドルはニヤリと笑った。
「【例の事件】以来ね。ハグリッドが捕まって一応の解決を迎えても皆、怯えてるんだ」
「【秘密の部屋】の……?」
どうしてこんな風に楽しげに話せるんだろう、とジニーはリドルの横顔を見上げた。ギラギラと光る目や残虐な笑みが、見慣れた彼の顔を全くの別人に仕立てていた。
地下に向かう階段を下りるのが、怖かった。今すぐ、リドルの手を振り切って、逃げ出したかった。
「震えてるね。怖い?」
「……怖い、わ。あたしの知ってるトムは、そんな風に……楽しそうに、人を殺したことを話さなかった」
「それじゃあ、君の前ではそう振る舞っていただけだよ。僕は子供の頃から気に入らないヤツをひどい目に遭わせては喜んでいたからね……三つ子の魂百までって言うだろ? 人間、そう変われるものじゃない」
「トムは違うわ……!」
ジニーが顔色を変えて叫んでも、リドルはフンッと鼻で一蹴するばかりだった。
「そう思ってればいい。さあ、ここだ」
リドルは唐突に足を止めた。湿った石壁は特に変わったところがない。目を凝らせば若干、他の箇所よりも色が濃い程度だった。
「『滅せよ、穢れた血』」
重たげな音を立てて石の扉が開いていく。細い通路の先には光が見える。おそらくそこがスリザリンの談話室なのだろう。入っていった側から、扉が閉じていく。薄暗闇で覆われる前にリドルが杖先に小さな明かりを灯した。
「さて、と……彼女がいなければいいんだが」
「彼女?」
「ここで少し待ってて」
リドルはジニーの問いかけを無視して、足早に通路の先へと向かった。
ややあってリドルは一人の少年を伴って戻ってきた。少年は興味深そうにジニーを見ていたが、敵意は感じられない。だからジニーも遠慮なく少年を観察することができた。長めの髪や眉は黒々としていて整った目鼻立ちを一層際立たせている。精悍な印象を与える顔立ちだが、左目の泣きぼくろが何処か甘い印象だ。リドルとは違ったタイプだがハンサムだ。きっと女生徒に人気だろう。
リドルは彼を紹介する気はさらさらないようだった。杖を向けながら、ジニーに歩み寄る。
「スリザリン生以外を入れるのは許されていないからね。君にはしばらくスリザリン生になってもらう」
「えっ?」
リドルの杖先がローブの寮章に触れると、たちまち表面がドロリと溶けたようになり、崩れていくライオンの代わりに蛇が浮き上がった。リドルは次にネクタイを外して、ジニーの首に結んだ。慣れない制服に戸惑い、ネクタイを手に取ったりして見ていると、
「スリザリン寮に入るには、この二つが必要なんだ。もしネクタイのカラーや寮章が違えば、この通路の先へは進めない」
「でも、それじゃ、トムはどうするの? ネクタイがなきゃ」
「僕にはコレがあるからね」
そう言い、監督生バッジを見せる。
「監督生には色々と権限があってね。これがあれば、どの寮も自由に出入りできることになってる。ま、もっとも……他の寮の入り口や合言葉を知らなきゃ、意味がないけど。オリオン」
それが少年の名前だったらしい。差し出された鞄の中から、リドルは銀色の光沢を持った布を引っ張りだした。マントだ。
「さ、ジニー。これをはおって」
当惑したまま見ていると、リドルがイライラと説明した。
「透明マントだ……なるべく君を誰にも見られたくないからね。さあ」
有無を言わせず、頭からかぶせると、
「いいかい? これから僕の部屋に行くまで絶対に口を利くな。君の姿は見えなくなってるから誰かにぶつかったりしないように十分に気をつけること」
マントは引きずらなければならないほど長く、歩きづらい。なのに、リドルは言い捨てるとさっさと行ってしまう。急ぎ足になった瞬間、裾を踏んで思い切り前につんのめった。
「大丈夫か?」
「……あ、ありがとう」
声をかけてくれたのはリドルではなくオリオンだった。はだけた透明マントから出た手足でおおよその位置が分かったのか、立ち上がらせてくれる。いかにも慣れた優しい手つきだった。
「裾を持ち上げて歩けば、歩きやすくなる。ゆっくりでいいから気をつけて」
肩越しにリドルが振り返った。喋るな、と釘を刺すように首を振る。オリオンは大仰に手を振り、反対側に足を向ける。どうやら一緒に談話室に行くつもりはないようだ。
通路を抜けると、大きな部屋に出た。通路から見れば明るかった室内も、実際に入ってみると薄暗かった。天井は圧迫するように低く、寒色で統一されているせいか、ひどく堅苦しい印象だ。グリフィンドール寮の雑然としているが、暖かでくつろげる雰囲気とは正反対だった。
前方の凝りに凝った彫刻の施された暖炉の周りには、女の子達が集まっていた。皆、リドルと同じくらいの年だ。その中心にいる少女がクスクス笑いながらリドルの方を指差すと、彼女達の目が一斉に向けられた。
「挨拶くらいしていったらどう、トム・リドル?」
一際目を引くきれいな少女だった。遠くから見ても目鼻立ちがくっきりとしていて、艶のある長い黒髪が腰の辺りでサラリと揺れるのが印象的だ。
「いつもコソコソと出歩いてばかり。もっと堂々としたら? 血を卑下することなんかないわ。あなたの力は、皆の認めるところ。だからこそ、スリザリン寮の伝統を破ってまで混血のあなたを監督生にしたのよ」
「ヴァルブルガ、こんなところで油を売ってていいのかい? 確か君は先週、夜間に校内を徘徊していた罰でトロフィー磨きをしているはずだと思ったけど」
「もう終わったわよ!」
少女の顔が、みるみる赤くなっていく。取り巻きの少女達が忍び笑いをするのを感じたのか、顔も硬くこわばっていった。リドルはそんな様子には気づかないように、考え込む素振りを見せた。
「おかしいな……さっき何故かトロフィー磨きをしていたシグナスを見かけたけど? ああ、そうか。忠実な弟君が君の罰則を肩代わりしてくれたってわけだ。いけないなあ、それじゃあ罰則にはならない」
「混血の分際で、その態度は何!? 由緒正しいブラック家の血を引く私に対して……!!」
蒸気した頬が薔薇を思わせる。怒るほどに少女の顔は美しく見えた。リドルは彼女の怒りにまるで気がついていないかの如く、人当たりのいい笑みを浮かべた。
「君が純血だろうと混血だろうと関係ない。監督生として、そういうズルには目を瞑れないからね」
「【秘密の部屋】の怪物がお前を襲わなかったのが残念だわ。この【穢れた血】が! 何故お前がスリザリンに入れたのか。マグルの血を一滴でも持つ者は、このスリザリンに相応しくないわ!」
ひどい罵り言葉に、ジニーは思わずリドルを見た。彼はこんなことを言われ慣れているのか、軽く肩をすくめただけだった。
魔法使いとして皆に認められ、幸せだと思っていたリドルのホグワーツ時代にも大きな影が落ちていたことを、ジニーはその時初めて知った。