消えない魔法① - 2/5

「ジニーッ!」
 リドルは勢いよく洗面台の縁につかみかかり、水盆を覗き込んだ。水面はまた元の静けさを取り戻し、僅かに波紋が立っている程度。ただ青白い光が邪魔して、底までは見透かせない。
 【憂いの篩】は人の【記憶】を保存する魔法アイテムだ。大きな悩みを抱えた時、そのことだけに心を囚われ、日常生活に支障をきたすことは人間誰しもあることだろう。深い哀しみに取りつかれ、立ち直れないこともある。そうした悩みを取りだし、後々になって時間ができた時に改めて考えられるようにと【憂いの篩】は考案されたのだった。
 人の【記憶】の中に入り込むだけだから、姿が消えたところで心配することはない。時間が経てば――誰かが封印した【記憶】を全て見終えれば、ジニーはここに戻ってくる。そう言い聞かせてみたものの、リドルは落ち着かなかった。消える間際に叫んだジニーは不思議に思うというよりも、怯えていたようだったからだ。
 【記憶】が、他の誰かの【記憶】の中に入り込むことができるかは分からなかったが、リドルは思いきって水盆の中に顔を突っ込んでみた。青白い光が回転する気配はない。けれど、先ほど外側から覗き込んだ時とは違って視界が開けていた。

 天井に張りついているように、リドルの目は頭上から室内を見下ろしていた。
 床に這いつくばったジニーが見える。着地の時に失敗したのか、膝をさすりながらゆっくりと立ち上がる。何が起こったのか分からないのだろう。キョトキョトと辺りを見回している。
 同じ部屋だ。グランドピアノが一つだけ置かれた、小さな部屋。ピアノの周りには五人の少年が固まっていた。ジニーの方を見て、目配せしている。
『……ここ? え、どうして……』
 何故一瞬のうちにリドルがいなくなり、代わりに彼らが現れたのか。【憂いの篩】を体験したことのないジニーには分からないのだろう。【記憶】の中の人物には話しかけられないことも。ジニーは当惑したように少年達に近づいていく。
 リドルは彼らの名前と顔を知っていた。皆、スリザリン生だ。リドルの魔力に、才能に心酔していた取り巻きの中で特に親しかった数人。
『驚きだな、姿現わしか』
 指を差され、ジニーは立ち止まった。その口調に僅かながら敵意を感じ取ったためだろう。
 おかしい、とリドルは思った。彼らの目はジニーに釘づけだ。まるで彼女の存在が見えているかのように。【憂いの篩】で体感する【記憶】は目の前で起こっている現実のように見えるが、それはあくまで幻なのだ。見ることも、触ることもできないもののはずが何故。
『お前なんかよりもすごい魔力を持ってるんじゃないか、エイブリー? 今回の試験に滑ったんだろ?』
『黙れ! 姿現わしができなくたって許されざる呪文は誰よりも俺が一番早くに習得したんだ!』
 ニヤニヤ笑う仲間達に毒づく少年は、ジニーをゾッとする目で睨みつけた。ところが。
『違う。このホグワーツでは姿現わしできないことになっているんだ。それに姿現わし特有の音も全くしなかった』
 真ん中でゆったりとかけていた少年がつぶやくと、他の少年達の目は一斉にジニーから彼へと移った。敵意よりも好奇心を前面に出したその少年の顔がはっきりと見えた途端、リドルは喉元に刃を突きつけられたように感じた。
『……トム』
 ジニーが明らかにホッとした声を出すと、その少年――もう一人のリドルは眉間にシワを寄せた。
『この女、知り合いですか?』
『トム、この人達は誰? ダンブルドア先生に知られたらいけないって言ってたじゃない』
 憂いの中のリドルは双方に答えず、椅子を蹴って立ち上がった。背丈も顔も、リドルと違いはない。【分離】された十六歳から卒業するまでの【記憶】なのだろうと推測する。
『君達は先に行っててくれないか。僕は少しばかり彼女に訊きたいことがある』
 リーダーの言葉は絶対だと信じているのか、少年達はなんの不平も疑問も口にせずにぞろぞろと外へ出ていった。
 ドアが音を立てて閉まると、水を打ったように静かになる。
 憂いの中の自分が何をしでかすのか、リドルは注意深く彼を観察していた。あの【秘密の部屋】事件を引き起こし、ダンブルドアから目をつけられている中でまた殺人を犯すことはないだろう。けれど、ジニーにもし何かあったらどうすればいい? ジニーを憂いの中から引き戻す方法は見えず、今はただ見守ることしかできない。
 冷ややかな視線で見下ろされ、ジニーはいてもたってもいられなくなったらしい。おそるおそる口を開いた。
『トム……? なんで、そんな風にあたしを見るの? あたし、何かした? それに……どうして? さっきまで二人でいたのに、いつの間にあの人達がきたの? あの人達、トムと仲がよさそうだったし、それに』
『トム、トムと名前で呼ぶが、誰だ、君は? スリザリン生じゃないな。見覚えがない』
『誰って……トム、どうしちゃったの? あたしよ、ジニー……ジニー・ウィーズリー』
 ウィーズリーは古くからある純血の一族だ。純血に固執するリドルは敏感に反応した。
『グリフィンドールの彼らのところに、まだ小さな子がいたとは知らなかった』
『あたしのことが分からない? 忘れちゃったの? そんな』
『知らないも何も、会ったことがない。君の方は僕のことを知っているらしいが、何故だ? その理由が知りたい』
『理由って』
 ジニーは首を振った。とぼけているのではないと、リドルには分かった。けれど、過去の自分にそれが分かるはずがない。ポケットの中に手を突っ込んで、見せつけるように杖を取り出す。
『素直になるようにしてあげてもいいんだよ? 今正直に話すのと、痛い目に遭ってから話すのと、どちらがいい? 選べ』
『話せって言われたって、分かんない……! さっき拾った砂時計を洗面台の中に落としちゃって、拾おうとしたら』
『砂時計? 見せてみろ』
 命令口調で言われ、ジニーはほとんど泣きそうになっていた。【秘密の部屋】の事件後、再会してからのリドルはいつも優しく、こんな風に突き放すような物言いをしたことはない。それに、つい先ほどはお互いより深い関係になるところだったというのに、手のひらを返したように冷淡になったのだから。
 おずおずと差し出された物を引ったくり、もう一人のリドルはしげしげと見やる。
『タイム・ターナー……なるほど。君は未来からきたんだ。そうだろ?』
『未来……?』
『この砂時計は時間を遡ることができるんだ。知らなかったのか? 君がいた時代は? 何年だ?』
『1995年だけど、そんな……まさか!』
 タイム・ターナー! リドルはさっきジニーが拾い上げた物をちゃんと見ておかなかったことを後悔した。タイム・ターナーの時を遡る魔法が働いて、【憂いの篩】に封じられた時代に引き寄せられた…――そんな効果など聞いたことはなかったが、魔法アイテムの作用が重なり合って、思いも寄らなかった効果を出す可能性は十分にある。
 憂いの中のリドルがそれを興味深いことと見ているのは明らかだった。舌なめずりでもしそうな貪欲な顔つきで、ジニーを眺め回している。
『その、まさか……さ。ここは1943年だ。タイム・ターナーを使って一、二時間遡ったって話は聞いたことがあるが、まさか五十年もの時を越えることが可能だったとはね……面白いよ。実に、面白い。
 で、おチビちゃん……ジニーだったかな? 君は僕の姿を見て、トムと言ったな? 君は未来の僕を知っている。しかも年老いた僕ではなく、今の姿の僕をだ。その辺りを詳しく教えてもらいたいな。君は一体僕にとっては何に当たるんだ?」
 蛇に射すくめられた蛙のように、ジニーは身動き一つせずに彼を凝視していた。見開いた目がヒクヒクと痙攣している。
『……あたし、は、あなたとは……日記帳に残された【記憶】のあなたと……友達なの』
『ホークラックスのことまで知っているのか』
『ホーク、ラ……クス?』
 リドルは再会してからジニーに嘘や隠しごとはしないと決めた。けれど、人の命を犠牲にし、魂を引き裂く呪われた魔法のことをジニーに告げたことはない。知らなくていいことは、知らないままの方がいいと思った。もし、その魔法の秘密をジニーが知れば、ヴォルデモートの魔手にかかるかもしれない。
 憂いの中のリドルは嘲るように言った。
『君が知らなくてもいいことさ。続けて。何処まで知っているのかが知りたいんだ。僕のもう一つの名も、君は知っているのか?』
『……知ってるわ。ヴォルデモート卿』
 素早く、ささやいたジニーの身体の震えを見て、彼は満足げに微笑んだ。
『【未来の僕】は期待通り皆に恐れられているようだ。そのヴォルデモート卿と、君のような子供が友達? 全く解せない話だ』
 自分の知っている恋人とは違っても、信じてもらえなかったのが悲しかったのか、ジニーは声を張り上げた。
『トムは一度あたしを殺そうとしたの! あたしの魂を奪って【記憶】から抜け出ようとした……でも、ハリーが』
『ハリー?』
 ハッと口をつぐんだジニーを見下ろしながら、リドルは恐怖に震えていた。ハリー・ポッターの存在を知れば、憂いの中の自分がどんな反応をするかが恐ろしい。
『誰だ、ハリーというのは? 答えろ! 答えろと言っているッ!」
 ジニーの身体をつかみ、乱暴に揺する憂いの中の自分にリドルは「やめろ」と叫んだ。しかし、声は届かない。彼は狂ったようにジニーを床に引きずり倒し、杖を向けた。
『レジリメンス!』
『ィ、やぁぁァァァァアッ……イヤ! いやァッ……!!』
 ジニーの口から鋭い悲鳴が洩れた。カッと見開いた目は飛び出しそうなほど大きくなり、涙がほとばしった。
 開心術だ。許されざる呪文や、危害を加えるような呪いではないことに少なからずリドルは安心した。けれど、思い出したくもない記憶を強制的に引き出されていくのはどんな気分なのだろう。ジニーの絶叫には耳を塞ぎたくなるような響きがあった。
 憂いの中のリドルがようやく杖を下ろすと、ジニーの悲鳴は絶えた。あまりにプッツリと切れたため、逆に不安を誘う。
『【未来の僕】が、赤ん坊に負けた? ハリー・ポッターという少年に、二度も?』
 憂いの中のリドルがつぶやいた。夢から覚めきらないような、ぼんやりとした声で。
『それに、ジニー……その後、君に取り憑いたのか? 二年近くも一緒に過ごして……君を、好きになった? この、僕が?
 いや! 子供だと思って油断していたようだ。ジニー、隠しごとをするとためならない。閉心術を使って、偽りの記憶を見せるのはやめろ!』
『閉心、術……?』
 まだ四年生のジニーには開心術も閉心術も聞いたことがなかったに違いない。そもそも、その分野の魔法は広く世に知られているわけではない。研究熱心で優秀な生徒でもない限り、ホグワーツ卒業までに習得することはまずないだろう。
 そんなことも憂いの中のリドルは分からないのか。それとも、興奮のあまり思いつかないのだろうか。彼はジニーの首に杖を突きつけ、狂気じみた声を出した。
『本当のことを言うんだ。さもなければ、殺す!』
『あ、あたし、嘘なんかついてない……! 今…、あたしが見た記憶をあなたも見たなら、それは本当よ!』
 憂いの中の自分が今にもジニーを殺すのではないか。リドルは祈るような気持ちで二人を見下ろしていた。
 憂いの中のリドルが床に杖を置いた。すすり泣きが聞こえる。ジニーが泣いているのだ。
『……くっ。確かに。心を閉ざしているわけではなさそうだ。しかし、信じがたい。僕が、君を……?』
『……か、えりたい……元いた世界に、帰りたい……トムも、心配してるわ……』
 嗚咽混じりに訴えるジニーに興を殺がれたのだろうか。ジニーの身体の上から退くと、憂いの中のリドルは立ち上がった。ポーカーフェイスでも、悪意にまみれた顔でもなくなり、当惑した年相応の少年の顔がそこにはあった。
『泣くなよ。うるさくてたまらない』
『……ぅ、く。だって、五十年も……どうやって帰ったらいいのか…、分からない……』
 膝を抱えて縮こまるジニーに、憂いの中のリドルが手を伸ばした。
『分かったよ…、僕がきっと君を元の世界に帰してあげるから……だから、泣かないで、ジニー』

 視界がぼやけ、憂いの世界が遠のいていく。
 水盆から顔を離したリドルは信じられない、とつぶやいた。【過去】の自分が、ジニーに危害を加えなかった――少なくとも殺したり、怪我をさせたりしなかったことが信じられない。まして慰めるようなことまで言うだなんて。最後の言葉は演技ではなかった。自分のことだから、リドルにはそれがよく分かった。
 けれど、この先は分からない。一刻も早くジニーを憂いの中から救い出さねばならない。現在進行している憂いの記憶から目を離していいものか躊躇したが、背に腹は替えられない。
 十分な魔力を持たない自分では、ジニーを救うことができない。第一、いい考えが浮かばない。ジニーを救えるとしたら、ただ一人だけだ。
 リドルは部屋を飛び出し、廊下を急いだ。生涯決して頼るまいと心に決めていた人物、アルバス・ダンブルドアに会うために。