鏡像 - 2/3

――Side Ginny

 窓から身を乗りだしていたジニーは、もうどんなに目を凝らしてもキングズ・クロス駅が見えないと分かると、名残惜しそうにのろのろと座席に腰を下ろした。今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。
 このコンパートメントには彼女一人しかいない。面倒見のいいパーシーは監督生として専用のコンパートメントにいってしまったし、双子の兄達はさっさと彼女を置いていってしまった。頼りにしていた一つ年上のロンの姿は何故か見当たらなかった。すぐ後ろからきたものだとばかり思っていたのに。
 ジニーは心細くてならなかった。両親のもとを離れるのは初めてだったし、兄達の誰も側にいない。同じ新入生と同室になれば不安も少しは紛れただろうが、発車時間ギリギリで飛び乗った頃にはすでに何人かずつかのグループが形成されていて、そこかしこで盛り上がっていた。人見知りをする性質の彼女に、その中に割り込んでいく勇気はなかった。
 しばらくの間、手持ち無沙汰に汽車の揺れに身を任せていたが、ふと思いついたようにトランクを開けると、日記帳とインクを引っ張りだした。
『トム。あたし達、今、ホグワーツ特急に乗ってるのよ。お兄ちゃん達からホグワーツの話を聞いて以来、ずっとずっと行きたいって思ってたんだけど、いざその時がきたのに、すっごく不安なの』
 インクは紙面に染み込んでいき、すぐに見えなくなる。すると、今度は違う文字がスッと浮かび上がった。
『未知の世界に飛び込むんだからね。不安に思うのは無理もないよ』
『うん……あたし、親戚以外で自分と同じ年頃の子に会ったことってないの。だから、ちゃんとお友達がつくれるか、不安で』
『大丈夫だよ。君みたいないい子と友達になりたがらない奴なんていやしないさ』
『トム、ありがと』
 ジニーの微笑みに、日記帳から『どういたしまして』の文字が浮かび上がる。
 その日記帳はジニーの大切な【お友達】だった。見た目はなんの変哲もない古びた日記帳だったが、トム・リドルという少年の【記憶】が棲みついていて、こうして言葉を交わすことができる。出会ってから、まだ一月も経っていなかったけれど、ジニーはこの少年に家族に寄せるような親しみを感じていた。パーシーと同じ年だと聞いたが、もっとずっと落ち着いて感じる。まるで、優しい兄がもう一人増えたような気にさせられる。
『ところで、ジニー。ハリー・ポッターとはどう? うまく話せてるかい?』
 ジニーは顔を赤らめた。
『駄目、うまく話せないの。顔を見たら、恥ずかしくて。何を話したらいいか、分からなくなって。話したいことはたくさんあるの。なのにハリーの顔を見たら、話したいことが全部何処かにいっちゃって……』
 ハリー・ポッターは魔法界を恐怖に陥れていた【闇の帝王】を赤ん坊の身で破った英雄だ。自分と同じ年頃なのに、すでにその名は広く知られていて、偉大な魔法使いになるだろうとささやかれている。
 そんな彼が兄の親友として家に遊びにくるなんて。
 ジニーはおとぎ話の理想の王子が、不意に現実世界に飛びだしてきたかのような錯覚に戸惑わずにはいられなかった。小さな頃から聞かされていた英雄が、自分の身近に現れたとなると…――
『まずは挨拶から。一言二言しか話せなくてもいいから、積極的に声をかけていってごらん。少しずつ慣れて、ハリーとも普通に話せるようになるよ』
『うん』
 リドルの慰めに自信なさそうに答えた時だった。コンパートメントのドアが開き、ふさふさした栗色の髪の女の子がヒョイと顔を覗かせた。見覚えのある顔だと思った時だった。その女の子が「あっ」と声を上げた。
「確かジニーよね? ロンの妹の」
「ミス・グレンジャー?」
 ダイアゴン横丁で一度会ったことがある。ロンとハリーの親友だ。
「ね、ここのコンパートメント、空いてるかしら? 何処もいっぱいみたいで空いてるコンパートメントを探し歩いてたの」
「ええ、どうぞ」
「ありがとう。助かるわ」
 にこりと笑うと、ハーマイオニーはパンパンにふくれあがったカートを押しながら入ってきた。後ろ手にドアを閉めて、ふうっと大きな溜め息をつきながら向かいの座席に腰を下ろす。ジニーは彼女の視線を避けるように日記帳をそっと閉じた。
「ねえ。ロンとハリー、一緒じゃなかったの? きっとあの二人が先にきて席を取ってるに違いないって思ってたのに。何処にもいないみたいなのよ」
「あたしもギリギリで飛び乗ったから、よく分からなくて」
「新学期早々、遅刻で減点……なんてことにならなきゃいいけど」
 ぶつぶつと文句を言いかけたハーマイオニーだったが、ジニーの不安げな視線を見て、慌てて打ち消した。
「大丈夫! きっと、何処かのコンパートメントに紛れたのよ。私が見落としただけかもしれないし……ところで、あなた一人なの? パーシーは監督生だから仕方ないとして、フレッドとジョージは?」
「お兄ちゃん達とはぐれちゃったんです」
「責任感がないんだから! 妹を放って何処かにいっちゃうなんて、まったく……」
 眉をつり上げてそう言うハーマイオニーの表情が怒った時の母親を思いださせて、ジニーは笑わずにはいられなかった。ハーマイオニーもクスリと笑って、サッと片手をだした。
「あらためて自己紹介するわ。私はハーマイオニー・グレンジャー。ロンとハリーの友達よ、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。ミス・グレンジャー」
「ハーマイオニーでいいわ、ジニー」
 握手を交わすと、ハーマイオニーはジニーの緊張を解きほぐすようにいろんな話をしてくれた。賢者の石を巡る昨年のホグワーツ内で起こったことについてはロンから聞き知っていたけれど、話す人が違うと全く違った話に聞こえた。そして、彼女の出身であるマグル界の話。
 ハーマイオニーは歯を専門に扱っている医者――魔法界のヒーラーのようなものだろう――の娘で、自分が魔女だと知ったのはホグワーツの入学案内書が届いた時だという。ただ、その前から無意識に魔法は使っていたらしく、マグルの子供とは何かが違うとは薄々と気づいていたらしい。
「ボール遊びをしてたら、一緒に遊んでた子の投げたボールがお隣りの窓を割っちゃって。まずい、怒られるって思ったのよ。なのに近づいていったら窓の破片が集まりだして、みるみるうちに元通りに戻っていったの。ボールもポーンッて私の手元に戻ってきて。
 それを見ていた子達に言われたわ。気持ち悪い。あんたみたいなおかしな子とは一緒に遊びたくないって……ショックだった。私には何がおかしいのか分からなかったんだもの。壊れた物を直したり、物を動かしたりなんて、私にとっては手足を動かすのと同じだったのに」
「随分ひどいことを言うのね、その子達……」
「悪い子達じゃないの。自分にない力を持っている人を怖がるのは、仕方ないことだわ」
「でも」
 ジニーが言いかけた時だった。またコンパートメントのドアがガラリと開いた。ほっそりとした男の子だった。白っぽい金髪に青灰色の目、血の気のない肌に黒のローブがやけに浮き立って見える。
 誰だったろう、見覚えがある――ジニーが首をかしげたのと、ハーマイオニーが立ち上がったのは同時だった。険しい顔をしている。ジニーは僅かに身を退いた。
「なんの用かしら、マルフォイ?」
「親友達の姿が見えないようだからねえ。独りぼっちで泣いてるんじゃないかと思って見にきてやったんだけどな、グレンジャー」
 ジニーを庇うようにして立ちはだかったハーマイオニーを見て、男の子はニヤリと笑った。
「男勝りの君が女友達と親交を持つのは非常に喜ばしいことだが、相手がよりにもよってコソコソウィーゼル君の妹君とはね」
「用がないなら何処かにいきなさい、マルフォイ。お互い、新学期早々に嫌な思いをしたくなければ」
 マルフォイの絡みつくような挑発に、ハーマイオニーは冷静に言う。
 ジニーはようやくその男の子と書店で会ったドラコ・マルフォイとが結びついた。自分だけではなく兄の悪口を言われているのに、何も言い返せないのが悔しくて、膝に置いたままの日記帳を胸に抱いた。
 マルフォイの目がジニーをとらえる。微かに目を細めた彼は、再びハーマイオニーに目を向けた。
「相変わらずのボサボサ髪だ。どうせつきあうなら、そんなみっともない娘じゃなくて、もっといいのを当たれよ。朱に交われば赤くなる、だ……その髪の毛みたいなね」
「でていきなさい!」
 ハーマイオニーが怒鳴りつけると、
「あーあ。でていくよ。これ以上一緒にいて僕まで下品な色に染められちゃあ、かなわないからね」
「それ以上、無駄口を叩いてごらんなさい。ただじゃ、すまさないわ!」
 睨みあう二人の間に火花が散ったように見えた。マルフォイがハーマイオニーに向かって一歩踏みだした瞬間、ジニーは恐怖に目を覆った。ハーマイオニーが殴られてしまう…――
 コンパートメントが閉まる音がした。そろそろと目を開くと、ハーマイオニーが訝しげな表情をしたまま突っ立っていた。
「ハーマイオニー……? 大丈夫?」
 声をかけると、ハーマイオニーは微かに頷き、腰を下ろした。顔に叩かれたような痕はない。
「あの人、何をしたの?」
「これを…、渡されたわ。身だしなみくらいはちゃんとしろって」
 ハーマイオニーの手の中には小さな丸い手鏡があった。ジニーはマルフォイのでていったドアを睨みつけて、唇を噛んだ。
「ひどい人……ハーマイオニー、そんな鏡捨てちゃえばいいわ!」
 手鏡でも覗いて自分の姿を見直せ――マルフォイが鏡を渡したのは、つまりはそういうことじゃないだろうか。ジニーは憤慨のあまり、真っ赤になった。
 けれど、ハーマイオニーは何かを考え込むようにジッと鏡を見つめている。隠されている秘密を暴こうとするかのように。そして。
「気にすることないのよ、ジニー。マルフォイっていつだって嫌な奴なんだから。今日はハリーとロンがいないだけマシだったわ。いつもはもっとひどいの。
 さ、もうあんな人に会ったことは忘れちゃいましょう? あんな奴に会ったからって今日一日を台無しにするのは勿体ないわ。楽しいことを考えて、ね?」
 明るく言ったハーマイオニーだったが、鏡を床に叩きつけようとはしない。意気揚々と話しながら、さりげなく鏡をハンカチにくるんでしまったハーマイオニーを見て、ジニーは裏切られたような気持ちになった。
 早くホグワーツに着いてほしい。今起こったことをリドルに話したい。ジニーはハーマイオニーの話に耳を傾けるフリをしながら、時間が過ぎ行くのをひたすら待った。