鏡像 - 1/3

――Side Draco

「試験の結果が届いた」
「……はい」
 抑揚のない父親の語り口に、ドラコは唾を呑み込んだ。夕闇立ち込める書斎の中に浮かび上がったルシウスの影は、少しも動かない。
「一位の……なんといったか、ハーマイオニー・グレンジャー? お前がそのマグル出身の小娘に大きく水をあけられているのには何か理由があるのか? 親元を離れて気を緩めたか?」
「……いいえ」
 首を絞められているように、か細い声しかでてこない。
「マルフォイ家の後継ぎに相応しい者になるよう、私は教育してきたつもりだが。それを、よもや穢れた血などに負けたとはな」
「……ご期待に副えず、申し訳ありません」
「期待だと? この家を継ぐ者として当然の結果をだせと言っているだけだ」
 素っ気ない声に、ドラコは床を見つめた。たった一つ、薬草学を除けば全ての教科で満点を取り、次席に就いた。入学したての浮き足立った友人達に染まることなく、たゆまず努力して築きあげたその成果をルシウスは一顧だにしない。
「何か言いたいことでもあるのか?」
 首席の座にこだわるのではない。相対的ではなく、絶対的に評価を下してほしい。ドラコはしかし開きかけた口をつぐんだ。
 いつの頃からか、ドラコは父親に意見することができなくなっていた。ルシウスの前にでると、喉元に刃を突きつけられたようにまともに話ができない。額に汗が浮かび、ゆっくりと伝っていくのが遅々とした時間の経過をやけに感じさせた。
「まったく……マルフォイの行く末を任せるに心許ないものだな。何故お前のような子供にしか恵まれなかったのか。
 もっと自覚することだな。我が家はいまやあのブラックをも凌ぎ、魔法界の中枢に位置づけられているのだ。マルフォイをこの先、生かすも殺すも、全て次代の当主であるお前が握っているのだということを。
 いいな。次の試験では無様な結果に終わらぬよう。今のような有り様では、【あの方】が戻られても到底お役には立てまい」
「【あの方】が……戻られる?」
 ドラコは目をまたたいた。父親が闇の魔術に傾倒していたこと、十一年前に【例のあの人】がハリー・ポッターに敗れ去った後にあらぬ嫌疑をかけられたことは人づてに聞いたことがある。けれど、ルシウスの口から直接【あの人】の名を聞いたことはない。
 すっくと立ち上がったルシウスは微かに震えているように見えた。いや、ふつふつと洩れる声を聞くに笑っているのか。
「そうだ。近々……一年にも満たない僅かな間に【あの方】が復活なさるのだ。薄汚いマグル共を一掃し、古きよき時代を甦らせることができる。平等だなどと馬鹿げた思想が広く浸透し、我らも表向きはそれに従わざるをえなかったが、じきにそのような恥辱に耐えることもなくなる」
「【あの人】がどうやって…? ポッターがつい数週間前に【あの人】の復活を阻んだと聞きました」
 ドラコは眉をひそめた。ルシウスの言い方は何かがおかしい。【あの人】を立てるような言い方に、これから起こる【なんらかのこと】がすでに分かっているような…――
「昔、【あの方】がホグワーツに通っていた頃。スリザリンの末裔ということを知った私の父が彼の援助を申しでた。その見返りに【あの方】はこれを与えてくださったのだ」
 熱を帯びた父親の口調に、ドラコは普段以上の恐ろしさを感じた。一歩間違えば、奈落の底まで落ちていきそうな種の危うさ。ドラコはためらいつつも、ルシウスに歩み寄っていった。
 彼の手にあるのは日記帳だった。黒い革張りの、古いということ以外は別段変わったところがない。恍惚とした笑みを浮かべながら、ルシウスは背表紙をなぞった。
「この日記帳には【あの方】の学生時代の記憶が封じられている」
「記憶…?」
「【あの方】の分身といってもいいだろう。今はただこの日記帳に留まる程度で精一杯の魔力しかないのだろうが」
「父上、一体何を? まさか、父上が【あの人】を復活させようというのですか…? マグルや、混血の者を殺すと……」
 思わず後退ったドラコの腕をつかみ、ルシウスが暗い笑みを浮かべた。
「これを見るがいい」
 グイと袖をまくりあげた左腕の内側には、髑髏の口から蛇が這いでている毒々しい印が彫り込まれていた。ドラコはヒッと息を呑み込んだ。その印の意味するものは知っていた。
「ち…、ちうえ……死喰い人、だったのですか? 本当に…?」
 【あの人】に従って数え切れぬほどの魔法使いを、マグルを殺し、世界を恐怖に陥れた死喰い人と父親とが瞬時に結びつき、ドラコは震え上がった。手首をつかむルシウスの手の力が、一層強まる。逃がさない、とでもいうように。
「これで分かったろう? お前も【あの方】の力となれるよう動いていかねばならない。【あの方】の役に立ち、栄誉を与えてもらうのだ。家のために。
 まあ、今回事件を引き起こすのは【あの方】のスケープ・ゴート。お前の役目はうまく学内の情報を操作していくことぐらいだが」
「……スケープ・ゴート? 情報操作?」
 来年度、【あの人】の日記帳を誰か――多分ルシウスは目星をつけているのだろうが――に渡し、利用していく算段らしい。その哀れなスケープ・ゴートをうまいこと操り、サラザール・スリザリンがかつて封じたというバジリスクを解き放ち、マグル出身者を襲わせていく。その犯人をハリー・ポッターであるかのように見せかけ、孤立させていくといい。友人をなくせば、ハリー・ポッターは容易に【あの人】の宿ったスケープ・ゴートに心を許すに違いない。二人きりになれれば、始末することなど容易にできる。それに校内で不審な事件が相次げば【あの人】にとって邪魔者にしかなりえないダンブルドアを追放することもできる。一石二鳥にも三鳥にもなるだろう……。
 話しているうちに気分が昂揚してきたのだろう。ルシウスは来年度起こすべく出来事について得々と語っていった。息子の表情にも気づかずに。
 毒蛇の王、バジリスク。かの恐ろしい化け物は視線を浴びせただけで生き物の命を奪い取るという。出遭えば、まず間違いなく殺される。
 命を奪われるのは誰だ? 狙われるのは誰だ? ドラコが真っ先に思い浮かべたのはハーマイオニー・グレンジャーだった。ハリー・ポッターの親友で、マグル出身者の彼女。そして、ほんの僅かな間だけ自分の友人でもあった彼女…――冷たくなって床に転がっている彼女の姿を想像し、ドラコは首を振った。
 彼女を死なせるわけにはいかない。喧嘩別れしてしまったけれど、今でも彼女が大切な友達だったという事実に変わりはなかった。
 どうすればいい? どうすれば彼女を死なせずにすむのだろう。
 ようやく父親から解放され、夕食をすませた後も、部屋にこもってそのことだけを考えていた。何せ休みが明ける一月後には、彼女の身に危険が迫っているかもしれないのだから。
 良案は浮かばず、ドラコは部屋の中をずっと歩き続けていた。考え続けなければ、今すぐにでも彼女が死んでしまう。そんな危機感が頭の中に張り巡らされていた。
 仲直りもできないまま。彼女に軽蔑されたまま、全てが終わってしまう。クリスマスのプレゼントだって…――
「……そうだ」
 ドラコは急いで鍵つきの引きだしの片隅から、紙包みを取りだした。花状のリボンのついた可愛らしいラッピングの紙包み。それは去年のクリスマスに彼女にプレゼントしようと思っていたものだった。結局、ハロウィーンが終わってすぐに言い争いをしてしまったから、渡せずじまいだった。いつか渡せる日がくるだろうか、と小さな望みに縋って取っていた物。
 ドラコはためらいつつも、ラッピングを引き裂いて中身を取りだした。手のひらサイズの丸い手鏡だ。縁には薔薇を象った細工が施されていて、チェーンを取りつければ首飾りにもなるような造りになっている。
「賢いミス・グレンジャー……頼むから気づいてくれよ」
 バジリスクの視線はたちどころに命を奪う。けれど、直接その視線を受けなければ。例えば鏡越しに見たとしたら、最悪の状況は免れられるはずだ。
 最悪、と考え、ドラコは苦笑した。最悪といってもいいような仲となった今、これを彼女に渡して受け取ってくれるだろうか。もしかしたら床に叩きつけられて終わりかもしれない。
 けれど、なんとしても意図には気づいてもらわなければならない。不仲な相手に物をやる理由。やらねばならない理由を。彼女が自分の身を守るためのヒントを与えねば。例え、それが実の親を裏切ることになっても。