Keep a distance

 壁に立てかけた大きな鏡の前を、少女がぎこちなく歩いていた。
 首筋や胸元があらわになる大胆なカットのドレスは真紅で、雪のように白い肌を引き立てていた。花びらに見立てたスカートの裾は幾重にも重ねられてふんわりと広がっていて、歩くたびにさやさやと音を立てて動く。炎の揺らめきのように、軽やかに。
 床の、石と石との境い目に何度もかかとを引っかけそうになりながら、唇を引き結び、真剣な面持ちで取り組んでいる姿はひどく可憐だった。
「ジニー。熱心なのは結構だけど、そろそろ時間なのを忘れてないかい?」
 少女はピタと足をとめ、振り返る。今の今まで室内には彼女一人だけしかいなかった。にも関わらず、視線の先には当然のように男がいる。けれど、少女は少しも驚く素振りを見せないばかりか、震える口元を僅かに歪ませた。
「なんだか……すごく緊張してきちゃったの。こんなの着るの、はじめてだから」
 肩口から腕、足元へと撫でるように視線を動かし、不安げに訊く。
「ねえ、トム……何処かおかしくない? やっぱり、こんなドレス似合わないかな…? 髪も……いつもみたいに下ろした方がよくない?」
「大丈夫。とってもきれいだよ、ジニー」
 心底感心したように言われ、緊張が目に見えて和らいだ。眉尻まできっちりと引かれた三日月形の眉のラインがなめらかになる。
「よかった……心配だったの。折角ビルが贈ってくれたけど、あたしが着るには派手すぎる気がしてたんだ。きちんとお化粧をしたのもはじめてだし」
「さすがは君の大好きな兄さんだって思ったよ。君のためだけにつくられたみたいに、よく似合う。エスコートするのが僕じゃないのが少し妬けるね」
 軽く笑われ、彼女は「あっ」と小さな声を洩らした。
「ごめんね、トム……でも、あたし、どうしてもダンスパーティーにいきたかったの。皆、すっごく素敵なんだろうって言ってたから」
 弓なりに反った睫毛のせわしない動きは、彼女の大きな目に吸い込まれるような魅力を添える。
「気にしなくていいよ。ジニーが嬉しいなら、それでいい」
 それに見入ったまま首を振ると、
「あのね、あたしネビルとだから一緒にいきたいんじゃないのよ。彼のことは好きだけど、友達としてなの」
だから誤解しないでね、というように念を押す。そんな意図はなかったのかもしれない。けれど、早口な言い訳は嫌なことは早くすませたいと言っているようだった。彼は笑った。その笑いは作り物には見えなかったが、寂しさが漂っていた。

 少年――トム・リドルは世界を恐怖に陥れたヴォルデモート卿の【過去】の【記憶】だ。彼は魔法界の浄化という先祖の遺志を継ぐため、そして自らの本懐を遂げるため、ジニー・ウィーズリーを利用し、五十年もの時を経て甦ろうとしていた。
 が、それは彼の【未来】を消滅せしめたハリー・ポッターに破られてしまい、果たせなかった。いや、果たせなかったように思われた。彼は結局甦ってきたのだ。他ならぬジニーの助けを借りて。
 とはいっても、リドルにもはやハリー・ポッターと戦う意思はなかった。リドルの興味は自分の【未来】を倒した相手ではなく、その彼を救うために自分の命を懸けてきた幼い少女へと移ったのだった。
 ジニーと共有する時間が増えるにつれ、リドルは彼女に惹かれていった。以前騙していた時とは違う。本音で向きあい、理解不能だと決めつけずに相手の主張に耳を傾けていくうちに心の深いところまで許しあうようになった。

 今の二人の関係を言葉にするには難しい。ほんの少し前までは友達といえるものだったかもしれない。もしくは仲のいい兄妹の関係だ。
 それが急速に変わっていったのは、やはりジニーの成長が一番の原因だろう。黙って互いを見つめる時のなんとも言いようのない息苦しさと、押しあう視線の重み。軽く触れあうだけだった親しみを込めたキスが、リドルにはもうできそうもなかった。近頃では、ジニーの手を握ることすらためらってしまう。
 ジニーの成長は年と背丈を、心をも確実に近づけてくれたはずなのに、一歩分の距離を置いたまま半年近くすごした。
 そしてクリスマスが近づいてきたある日、ジニーの口からでた言葉にリドルは言葉を詰まらせた。三大魔法学校対抗試合の伝統行事がここホグワーツでも行なわれることになった。四年生以上の生徒と、彼らに運よくパートナーに選んでもらえた下級生はダンスパーティーに出席できるのだと。

 ――あたし、ネビルに誘われたの。一緒にいってくれないかって……あ、ネビルは本当はハーマイオニーといきたかったのよ! でも、彼女、他の人といくことになってるから。
 喉元にナイフを突きつけられたように何も言えないリドルに気づかないのか、ジニーは甘えるように上目遣いに訊いた。
 ――ねえ、トム、いってきてもいい? あたし、どうしてもダンスパーティーにいってみたいの……だって、こんな大がかりなパーティーなんて、もう二度と出席できないかもしれないもの。

 そんなジニーにどんな顔で応対したのか、リドルはどうしても思いだせなかった。ただ、切々と訴える瞳が蠱惑的であったことだけが脳裏に焼きついている。熱を帯びた目は、自由を求めて足掻いているかごの中の鳥のようだった。
 引きとめることなどできなかった。ジニーは恋人ではないのだから、縛ることなどできるはずがない。ジニーは微かに目を伏せ、それでも嬉しそうに「ありがとう」とささやいた。
 この身が本物で、今現在ホグワーツに通っていたら――考え、リドルは自嘲する。考えたところで無駄なことだ。時はそうは流れなかった。それに、もし普通にジニーと出会っていたところで、つまらない子供だと決めつけて、殻の中に隠された彼女の本質など見抜けなかったに違いない。
 それでも、もしも……。

「トム? どうしたの? もういかなきゃ間に合わないよ」
 ジニーの言葉にハッと我に返る。彼女はチラチラと時計を盗み見ては、そわそわと落ち着かなく足踏みしていた。
「そうだね。ジニー、いっておいで」
「……え?」
 もちろん実体化したままいくわけにはいかない。ジニーはいつものようにリドルが自分に取り憑くのを待っていたのだ。けれど、リドルは相変わらず腕組みしたまま、壁に寄りかかっていた。動く気配はない。
「僕はここで待つよ」
「でも」
「ダンブルドアの眼光は鋭いんだ。僕はそのことをよく知っている……もし君に取り憑いているのを見破られたら、今度こそ完全に消されてしまう。危険は冒したくないんだ。
 さ、いっておいで。あんまり急いで慣れない靴に転ばないように気をつけるんだよ、シンデレラ」
 ジニーはもう一度壁時計を見、それからリドルに目を移した。皆、すでに玄関ホールで待機している時間だった。彼女は渋々と頷いた。
「うん…。トム、なるべく早く帰ってくるから……ごめんね」
真紅の裾を踊らせながら、ジニーは駆けていった。その姿がドアの陰に隠れ、不規則なハイヒールの音が遠のき、やがて完全に聞こえなくなると、リドルの顔から一切の表情が消え失せた。
 リドルは静かに暖炉の火を見続けながら、ぼんやりと思った。
 もしも今、ジニーを想う【僕】が生身の人間だったなら、この気持ちを言葉にしていただろうに……と。

(2004/11/19)