夜明け前 - 3/3

 今学期はホグワーツがいつにも増して広い。生徒数が激減したせいだ。
 今世紀最大の偉大なる魔法使い、アルバス・ダンブルドアの存在は、子供達を預ける親達にとって何者にも勝る保障だった。かの邪悪な魔法使い、ヴォルデモート卿が復活したという情報が一般に公開された前年度も、ダンブルドアの膝元にいれば安心だと思い、送りだした親が多かった。
 そのダンブルドアがよりにもよって教職員の手にかかったのだから、その動揺も推して知るべしだ。何処にいても危険なことを承知しつつも、皆、子供達を自分の側から離したがらない。戻ってきた生徒は全校生徒の三分の一ほどだ。新入生など数えるほどで、組み分けの儀式はあっと言う間に終わってしまった。
 新入生歓迎のためのささやかな宴の中で、ジニーは見知った顔を探した。他のどの寮よりもグリフィンドール席は生徒が少なく、火が消えたようだった。
 ヴォルデモートを倒すため、ハリーはいってしまった。ロンとハーマイオニーを引き連れて。
 ハリーと最後に会ったのは、ビルとフラーの結婚式だ。会ったというよりも、大勢の来客の中に見つけた言った方が正しい。二人は別れの言葉も交わさなかった。もうそれはダンブルドアの葬儀の時にすませてしまったからだ。
 本当のところ、ジニーは彼が一緒にきてくれと言うことを望んでいた。ロンとハーマイオニーのように、彼の一番近くで支えになっていきたかったのだ。何故、ロンとハーマイオニーはよくて、自分は一緒にいけないのだろうと嫉妬も覚えた。昔から感じていたことだった。どんなに仲よくなっても、あの三人の中には入り込めないという思いは、いつになっても消えなかった。醜い感情をぶちまけなかったのは、ただハリーを失望させたくなかったからだ。
 失望させないために、自分を偽る――気に入られようとして、わざと本来の自分とは違った自分を演じる。ジニーはディーン・トーマスの時と同じ過ちを繰り返しているような気がした。
 その夜、ジニーは一人でハグリッドの小屋に向かった。生徒の一人歩きは許可されておらず、おまけに消灯時間はとうに過ぎている。見つかれば罰則を受けることも分かっていたのだが、ハグリッドから手紙をもらったのだ。
 ハグリッドはダンブルドアを親のように慕っていた。その彼が死に、可愛がってきたハリーが危険な旅にでてしまうと、目に見えて憔悴してしまった。ジニーもホグワーツに入りたての頃から彼には世話になっていた。話でもして少しは慰められたらと思ったのだ。
 晴れ渡った空の何処にも雲の影はない。頭上を見渡し、ジニーは違和感に気づいた。今日は月がない。新月なのだ。星明かりが地面を照らしていたが、何故か頼りない。
 冷たい夜風が肌を撫でた。ジニーは自分が一人なのを強く感じた。不意に足元から震えが立ち上り、自分を奮い立たせるように杖先に光を灯した。足元がはっきりと見えるようになったが、逆に周囲の闇が一層深まった。
 ジニーは足をとめ、振り返った。何かの気配を感じたのだが、遠く城が見えるばかりで何もない。
 ホッと胸を撫で下ろしたジニーは向き直り、悲鳴を上げた。背後に長身の男が立っていたのだ。足元まで隠れる丈の長い黒いローブに、深くかぶったフードの陰から、髑髏を象ったような不気味な仮面が覗いている。死喰い人だ。一瞬の驚きが勝敗を分けた。ジニーは攻撃を仕掛ける前に、しっかと手首を押さえられてしまった。
 殺されるという恐怖から、ジニーは無我夢中で手足を振り回した。その時。
「落ち着け…、ウィーズリー!」
 聞き覚えのある声だった。何より名前を呼ばれたことで、ジニーはハッとなって男を見つめた。
 彼はそっとフードを脱ぎ、仮面を外した。ドラコ・マルフォイだった。
「マ、マルフォイ!? あなた、無事で……」
 言いかけ、ジニーはハッとつかまれたままだった手を振り払った。
「またホグワーツに何かする気なの!? あなたが手引きしたって聞いたわ。死喰い人を誘い入れて、皆を傷つけて……それにダンブルドアまで!」
「……ウィーズリー、僕は」
「どうしてなの!? どうしてあんなことを。どれだけの人が傷ついたと思ってるの!? ビルだって……うちの兄だって、死にそうな目に遭ったのよ!! あなたの仲間の狼男に噛まれて!!」
 不治の病に冒されてしまったようなものだ。ビルの無残な姿を思いだして、ジニーの目に涙があふれた。マルフォイはギュッと唇を結び、首を振るだけで何も言わない。
 何かが弾けるような音で、静寂が破られた。ジニーだけでなく、マルフォイも跳ね上がった。
「ドラコ、何をトロトロとやっている」
 二人の周りを十人ほどの死喰い人が取り囲んでいた。その一人がマルフォイの方に近づいてくる。長い黒髪が垂れている。声からして、女のようだ。マルフォイはその死喰い人からジニーを庇うように立ちはだかった。
「その小娘だろう、ポッターの恋人は」
「伯母上! これは僕の任務のはずですが」
 マルフォイの伯母――シリウスを殺したベラトリックス・レストレンジだ。
 噛みつくような甥の剣幕にも、彼女は少しもたじろがなかった。口元に笑みさえ浮かべて、
「ああ、分かってるさ。何も私達は手出しをしようってんじゃない。ただねえ、お前は前にもダンブルドアをやり損なった。またしくじったんじゃあ、【あの方】に申し開きできないだろう? 【あの方】の怒りはいまだ鎮まらない……お前の父親があんなヘマをしなきゃ」
「あれは父上だけのせいじゃない! 伯母上、あなただって」
「お黙り!! 青二才の分際で、よくも私にそんなことを!
 さあ、とっとと小娘をやるんだ。私と対等の口を利きたければ少しは【あの方】の役に立ってみせるんだね。お前ときたら、その女々しい性格のせいで折角の魔力の高さも宝の持ち腐れになっているんだから。母親に甘やかされて育ったからだね、まったく!」
 その会話で、ジニーはうっすらと自分の置かれた状況が見えてきた。全て罠だったのだ。ハグリッドの手紙も、おそらくは筆跡を真似て届けられたのだろう。【ハリー・ポッターの恋人】を密かに城から連れだし、始末するために。それを恐れて、ハリーは自分を置いていったというのに。
 マルフォイは少しの間、伯母と睨みあっていたが、やがて意を決したようにジニーを振り返った。ひどくこわばった顔をしている。額にはうっすらと汗がにじんでいた。鬼気迫る表情に後退るジニーを、ベラトリックス・レストレンジが嘲った。
「おやおやおや! ポッターの恋人はあいつと同じで、敵を前に尻尾を巻いて逃げるらしいよ!」
 死喰い人の間に忍び笑いが広がった。ジニーは自分に向けられた杖と、それを握ったマルフォイとを交互に見つめた。今から手を上げ、構えたところで到底間に合わない。仮にマルフォイを倒せたところで、多勢に無勢だ。
 ジニーは唾を呑み込もうとしたが、喉はすでにカラカラで張りついている。
「……マルフォイ、一つだけ教えて?」
 せめてその声が震えないように、ジニーはささやいた。マルフォイが微かに頷いた。
「あの時、どうして、あたしにあんなことを言ったの? 図書室で……」
「それは……それは、君を」
 狼狽したようなマルフォイの言葉が言い終わらぬうちに、死喰い人の誰かが鋭く叫んだ。
「きた! やつらだ!!」
 死喰い人達の円陣が崩れた。城の側から、いくつかの人影が走ってくる。警護に当たっている不死鳥の騎士団員達だ。一つ、赤い閃光が投げかけられたかと思うと、それが合図のように次々に色とりどりの光が飛び交う。
 仲間達の援護をしながら、ベラトリックス・レストレンジが金切り声を上げた。
「ドラコ! さっさと小娘を殺して、こっちを手伝うんだ! 早くおしッ!!」
 マルフォイはジニーの手をグイとつかんだ。ついで、ジニーの肩に手をかけ、引き寄せた。
「なっ、何!?」
「ウィーズリー、心を鎮めろよ……怖くないから」
 細いと思っていたマルフォイの身体が、意外に力強い。きつく抱きしめられた身体が痛いほどだった。ギュウギュウと絞めつけてくる痛みは肩だけではない。触れられていない頭部や脚部までが圧迫されているようだ。煙突飛行する時の感覚とよく似ている。
 か細い悲鳴は自分自身の耳にも届かなかった。痛みが遠のくと、ジニーは弾かれたように目を開けた。ホグワーツ城が何処にも見えない。踏みしめた足元から、ギュッと鈍い音がする。一面の雪景色がそこにはあった。付き添い姿くらましをされたのだ。ここが何処だかは分からないが、マルフォイとは縁の地なのだろう。
 押さえつけられていた手が離れた。がくりと膝をついたマルフォイに、ジニーは駆け寄った。
「マルフォイッ? しっかりして!」
「そんな……僕は何をやってしまったんだろう……逃げた。任務を放り投げた……どうしよう」
「マルフォイ!」
 両手で顔を覆いかけたマルフォイは、ようやくジニーの存在を思いだしたようだった。微かに笑った口元が、小刻みに震えている。目には涙を浮かべて。
「殺される…、【あの方】が許してくれるはずがない。二度も任務を果たせなかった……もう駄目だ」
「マルフォイ、あたしを助けてくれたの? どうして……そんなに怖がってるくせに。今からだって遅くない。あたしを殺せばいいのに、どうして」
「できるもんかッ! 人を殺すなんて。君を殺すなんて……」
 マルフォイは取り乱していて、自分が何を口走ったか気づいていないようだった。ジニーは一瞬息ができなくなった。マルフォイは熱に浮かされたように続ける。
「ウィーズリー、一緒に逃げてくれ……頼む。【あの方】はこれからも君のことも捜させるはずだ。僕は弱いから、君を守ってやれない。でも、時間稼ぎにくらいはなれる……なってみせるから」
 いつの間にかマルフォイに抱きしめられる格好になっていた。少しでも力を緩めればジニーがいなくなってしまうとでも思っているのか、きつくきつく。
 ジニーはマルフォイを落ち着かせるように背中を撫でた。こんな時はどちらの方が年上なのか分からない。
「マルフォイ、一緒にいく。あなたと一緒にいくわ。でも、逃げちゃ駄目。逃げたら、何処までも追い詰められてくわ。追ってくるのはヴォルデモートや死喰い人だけじゃない。自分の弱さもよ。何処か遠いところで暮らしたって、ずっと怯え続けてちゃ、意味がない。幸せになんかなれないわ」
「君は……戦えって言うのか? 【あの方】と……怖くないのか? 死ぬかもしれないんだぞ」
「ねえ、マルフォイ。どうして、さっき、あたしを逃がす時間稼ぎになるなんて言ったの? 死ぬのが怖いのに」
 マルフォイは僅かに身体を離し、ジニーの顔を覗き込んだ。その頬が赤くなり、気まずそうに顔を背けた。
「それは…、君を殺されたくないと思ったからだ……」
「あたしもおんなじ。大事な人達を失いたくない。そうならないために戦うの。一人一人はヴォルデモートにかなわなくたって、皆で力を合わせればきっと勝てる」
 マルフォイはギュッと目を瞑り、見開いた。
「君は本当に強いよ、ジニー……僕も君のように立ち向かえるかな?」
 ジニーは黙って手を差しだした。ゆっくりと立ち上がったマルフォイは照れくさそうに笑った。
 深い雪に足を取られながら、ジニーはマルフォイと歩きだした。二人の姿は降り積もる雪の合間に消え、残された二つの足跡もやがて隠されていった。

(2006/10/01)