レグルス・ブラックはホグワーツを卒業すると同時に、聖マンゴ魔法疾患傷害病院の研修癒となった。ブラック家の直系の長子である兄シリウスが勘当された以上、次期当主の座は彼のものだ。何も忙しい病院勤めをせずとも魔法省にはもっと楽な割のいい仕事がいくらでもあると親族からの反対を受けたが、レグルスは取り合わなかった。
死喰い人の危険な任務をこなしていくためには、癒術の心得があるにこしたことはない。それに仲間内に優れた癒し手――ヒーラーを持つことは、ヴォルデモート卿の望みでもあった。仲間達が仕留め損なった厄介な闇祓い達を密かに始末したり、服従の呪文をかけて隷属させるのに、これほど都合のいい立場はないからだ。
自分に下された役目を内心喜ぼうと、そうであるまいと、レグルスには選択の余地はなかった。【闇の印】を受け入れた時点で、ヴォルデモート卿の駒になる運命は決まったのだ。それを覆そうとするならば、死ぬしかない。ヴォルデモート卿は一旦部下になった者が、自分に抗う一派に加わるのを黙って見逃すような魔法使いではない。自分に対する者達にはいかに己の力が優れているかを知らしめんため。そして仲間内には裏切ったらどんな運命が待ち構えているのかを思いださせるために、残虐この上ない方法で殺すだろう。
両親の期待に応えるため。そして、魔法界の先行きを案じて死喰い人になる決意をしたレグルスだった。近年、マグルとの混血化が進むにつれ、スクイブの誕生率が格段に上がった。マグルに罪はない。が、彼らの血を絶やさねば、魔法族から魔力が消え失せていく。未来はないのだと言い聞かせて。
けれど、最近の自分の有り様に自信がなかった。信念のためではなく、殺されないためだけに動いている、そんな気がしてならなかった。
「レグルス! 何をぼうっとしている。患者を待たせるんじゃない。ほれ、グズグズするな!」
「……えっ、あ、はい。すみません」
指導癒の声に我に返ったレグルスは、急いで患者の上半身をベッドから起こすと、腹部の包帯を取っていった。まだ十歳にも満たないような少年が、手をかけた途端に天井を見上げた。鋭い牙に噛み砕かれたらしい、おぞましい傷跡があらわになると、血が腐ったような強烈なニオイが辺りに立ち込めた。思わず、顔をしかめずにはいられない。直に触れないよう、傷口をじっとりと濡らしている黄色い液を綿で拭き取っていくと、少年の腹部がピクリと動いた。
「痛いかい? すぐに終わる……もう少しの我慢だ」
「痛かないよ、別に」
その言葉は強がりなのだと、レグルスには分かっていた。天井を見据えたままの少年の顔は白かったし、への字に曲げた唇は震えていた。傷跡を隠すようにたっぷりと薬を塗りつけ、真新しい包帯を巻いてやると、少年はハァッと息を吐いた。
「頑張ったな。偉いぞ」
「オレ、男だもん。こんなことで泣いたりしないさ……ねえ、先生。それよりさ…、オレの……ううん、やっぱりいいや!」
振り返ると、痛ましげな目をした指導癒と目が合った。彼は何も言うな、と微かに首を振った。明日の午前中、また包帯を替えにくること。この部屋で静養するように申し渡した彼に続いて部屋をでた。
廊下の角を曲がり、少年の病棟が見えなくなると、指導癒は溜め息をついた。
「かわいそうになあ。まだ、あんなに小さいのに」
「両親はまだ見舞いにこないんですか? 息子があんな目に遭ったっていうのに」
「そう言ってもなあ……親にだって、覚悟はいるさ。あの子の傷はただの傷じゃない。狼人間の噛み傷だぞ? 怖いとか、そういうんじゃない……そんな風になった息子が哀れで正視できない親の気持ちも、私には分かる」
自分につき従わない魔法使いを脅すために、ヴォルデモート卿がフェンリル・グレイバックを使っていることを知っていた。子供を噛むのを専門にした、残忍な狼男。あの少年の傷も十中八九グレイバックの仕業だろう。自分の功績を吹聴して歩く下卑た顔が思いだされ、レグルスはザラリとしたもので背筋を撫で回された心地がした。聖戦にも血はつきもの。子供が巻き込まれてしまうのも仕方のないことなのだろう。が、仲間内にとはいえ笑みを浮かべて触れ回るその心理が到底理解できるものではなかった。
その時、いつもなら下っていくはずの階段に足を向けず、廊下の端にある病室に向かっていることに気がついた。診察の道筋がいつもと違うということは、ベッドに空きができたのか、それとも新たに担当する患者が増えたのかとレグルスは推測した。ここのところ、病院内の患者の入れ替わりが激しく、正規の癒者でも把握仕切れていないところがあるのだ。
レグルスの心を読んだように、指導癒は振り返る。
「闇祓いだ」
「闇祓い」
では、敵だ…――レグルスは緊張を隠すように、ゆったりと返した。
「傷自体は大したことない。粉々呪文で砕けた足の骨を元に戻しているだけだからな。二日もすれば退院できるだろう。骨の状態を確かめて、その再生具合に適当な量の薬を調合して飲ませてほしい。一人で、できるな?」
「……? 私、一人で、ですか? ええ、それはもちろんできますが」
病室の入り口が見えた辺りで、指導癒は足をとめ、声を落とした。
「お前がここに勤務していることは知っていたんだろうな。レグルス・ブラックに治療してもらいたいと」
「私はかまいませんが、ですが」
かまわないどころか絶好の機会ではないか。指導癒の目がない方が、何かと手を下しやすい。
しかし、わざわざ自分を名指ししてきたことが気にかかった。優秀とはいえ、レグルスはあと一年以上は優に研修癒のままなのだ。それに、こういった病院で特定の癒者に治療を願い、受け入れたという前例はない。人手があまりに足りなく、指名制度を取り入れたら治療が一体いつまでかかるか検討がつかないからだ。
「一体誰なんです? その闇祓いは」
「バーテミウス・クラウチ……息子の方だ」
予想もしなかった名前だった。レグルスはしかし驚きを見事に押し隠して頷くと、病室の前に進みでた。ドアを軽くノックしたが、返事はない。かまわずに開けると、中に滑り込んだ。
短期間の入院だから、私物の持ち込みのない殺風景な病室を予想していたレグルスは、目を見張った。
病室というよりも、まるで何処ぞの屋敷の一室のようだ。白い壁を覆い隠すようにかけられたタペストリーに絵画。分厚い絨毯は歩いても靴の音が全くせず、土足がためらわれるほどだった。そして、パイプ製の安いベッドの代わりに置かれた、木製のベッドの上。厚みのあるマットと羽毛布団の間に挟まった少年が半身を起こし、レグルスを見上げた。薄茶色の髪と、頬に散らばったソバカスが不健康な肌を強調しているようだ。ガウンから覗く手も、やけに骨ばっている。恨みがましい目つき――笑っているようで、目は笑っていない――が生気にあふれている唯一のものだった。
「やあ、ブラック。久しぶりだな」
「……ああ、クラウチ。君とこんなところで会うとは思わなかった」
レグルスは慎重に答えた。
次の魔法省大臣は確実と言われている魔法省執行部部長バーテミウス・クラウチの息子。ホグワーツで同期だった彼は、いつもレグルスを目の仇にしていた。今日ここにいるのは、少なくとも昔を懐かしんで……とか、そういった理由ではない。これまで闇に葬ってきた何人かの闇祓い達の顔を思い浮かべた。クラウチがここに自分を呼びつけたのは尋問のためかもしれない。
「闇祓いになったんだって? 驚いたよ。君なら闇祓いから始めなくても、お父上の補佐官を勤めることだってできたろう」
「それを君が言うのか? ブラック家のご当主になる方が、聖マンゴに缶詰めになるなんてな。そうした方が君にとっては何かと都合がよかったのかもしれないが」
剣の切っ先のように鋭い言い方だった。
「失礼……治療をさせてもらうぞ」
レグルスは答えず、布団をめくり上げた。右足の膝から下までがすっぷりとギプスに覆われている。固まっている包帯を手で外すことはできない。切り裂こうと杖を取りだすと、クラウチの顔に一瞬怯えが見えた。力を込めて、足を遠ざけようとする。
「おいっ……! 足をこれ以上痛めつけたらタダじゃおかないからな、ブラック!」
「治そうとしているのに何を言ってるんだ。動かすなよ、危ないな。俺の治療が嫌だったら他の癒者に代えるか? 代えるくらいなら最初から名指しするなと言いたいところだが」
クラウチは明らかに気分を害したようだった。玉座にかけるようにクッションに背を持たせ、ふんぞり返ってレグルスを見やる。
「仕事を掛け持ちっていうのは、なかなか大変だろうな、ブラック?」
言外に死喰い人であることをほのめかしている、ねちっこい言い方だった。レグルスは気にせず、杖を振って、ギブスを裂いていった。細っこい足を膝から足首にかけてつかんでいき、状態を確かめる。
「俺には聖マンゴでの、この仕事しかない。父も母もピンピンしているから、まだ当分は自分のやりたいことを好きなようにやっていられる……痛むか?」
「……ッ、少しな」
「骨の繋ぎ目も、まあまあといったところか。経過に異常はない。このまま強度を上げていけば、明日か明後日には問題なく退院できる。で、誰にやられたんだ、これは?」
「誰か分かったら、すぐに逮捕してる」
「仲間の誰も顔を見ていないのか?」
クラウチの青ざめた顔が、急に熱を帯びた。ベッドを叩きつけ、目をぎらつかせた。
「仲間だって……!? 俺の言うことを真に受けずに、とっとと帰っていった奴らが仲間なもんか! あいつらに少しでも脳があったら、死喰い人なんてとうに全滅させてる!」
「落ち着けよ。興奮するな……身体に障るぞ」
「心配してもいないのに、そんな真似はやめろ! 俺が怪我して、内心嘲笑ってるくせに……!!
ムカつくんだよ、お前……学生時代からさあ。いつもしつけの悪い馬鹿な取り巻きをのさばらせておいて、あいつらが暴れだしてから、ちょうどいいところでとめにくるんだ。皆、お前がいい奴だって思ってたよなあ? 弱いものいじめは許さない、正義感のあるレグルス君? 教授達も、他寮の連中も、皆お前のことを褒めそやしていたよ。
俺をダシにして、人気を集めて、さぞやいい気分だったろう? どんなに努力をしても追いつけない奴に情けを施すのは、最高だったろう? こいつよりも俺はこれだけ優れているんだって、周りに見せつけてやれるからな」
「いい加減にしろ。喧嘩を売ってるのか、クラウチ?」
叱りつけるように言いながら、レグルスは裂いたギプスに杖を振った。クラウチの足に巻きつけ、全く継ぎ目が見えないように直すと、癒療道具の入った鞄の中から骨の強化剤を取りだした。宙からコップを取りだし、小さじ一杯分ほど白い粉を注ぎ込むと、水で溶く。
「俺を嫌ってるのは知ってるよ。なら、とっととこれを飲め。それを見届けたら、すぐにここをでてってやる。そうすれば、君の興奮も少しは治まるだろう」
クラウチは眉間にシワを寄せたまま、レグルスを睨みつけた。
「手が痛くて、受け取れない。ここまできて飲ませろよ、ブラック」
とても頼みごとをしているとは思えない、ぞんざいな態度だった。たった数日とはいえ、病院に縛りつけられて苛立っているせいだろうと、レグルスは怒りを飲み下してクラウチに近づいていった。
コップを彼の口元に当て、傾けかけたその時、不意にクラウチの手が左手首をつかんだ。
「なッ……!?」
反射的に振り払おうとした右手から、コップが落ちる。床を白い液体が濡らしたが、そんなものを気にかける余裕はなかった。二の腕近くまでローブを捲り上げたクラウチが、息を呑むのを感じた。
「……馬鹿な」
「いきなり何をするんだ、放せ!」
腕を思い切り引き抜いた拍子に、クラウチの顔を叩いてしまった。けれど、彼は文句一つ言わずに、剥きだしになったままのレグルスの左腕を凝視している。
「ブラック……お前、死喰い人じゃなかったのか? 俺はてっきり」
「……なるほど。それを確かめるのが、君の狙いだったわけか」
【闇の印】が刻まれているのかを確かめるために、こんなことを。視線を断ち切るように、レグルスはローブの袖を引き下ろした。胸がムカムカして仕方なかった。
「とすると、さっきの話も作り話か。そうだろうな……たった一人で死喰い人かもしれない連中をつけ回すなんて、賢い君のすることじゃあない。心配した俺が馬鹿だった」
妙に落ち着いた声だと自分で思った。最初から分かりきっていたことだったのに。闇祓いである以上クラウチは敵なのだ。敵が自分に弱みを見せるために近づいてきたはずがないではないか。
床に落ちたコップと汚れを消し、新たに宙から取り寄せたコップに先ほどと同じ薬と水を満たす。ぶるぶると震える手の中で、コップのさざなみが大きくなる。何か言いたげなクラウチの手の中に無理やり押し込むと、レグルスは部屋をでた。
廊下にでると、袖をまくり、先ほどつかまれた左腕を見つめた。手首に指の跡が、はっきりとついている。時計回りに三度擦ると、禍々しい髑髏が姿を現した。癒術を学んでいく中で、皮膚の下に印をもぐらせる方法を発見したのが功を奏した。もし、さっきクラウチに見咎められていたら、彼を始末しなければならないところだった。騙された、裏切られたという怒りの中、何故か胸を撫で下ろしている自分がいることに気づき、レグルスは首を振った。
お前は優しすぎる――いつか誰かに言われた言葉を思いだした。シリウスだったか、両親だったか、ベラトリックスだったろうか。それとも、ヴォルデモート卿か。
――お前は優しすぎる。いつか、その優しさが命取りになるだろう。
「……優しくなんか、ないさ。敵は始末する。もう心を痛めたりはしない……絶対に」
時間を巻き戻すように、反時計回りに同じ回数だけ撫で動かすと、印はその片鱗も見えなくなった。厳然とした面には、その言葉通りに甘さは残っていない。ただ握り締めた拳だけが、レグルスの押し殺した感情を表しているかのようだった。
(2006/07/21)