夜明け前 - 1/3

 ジニー・ウィーズリーは西日に染まった渡り廊下をぷらぷらと歩いていた。いつも影のようにつき従っているディーン・トーマスはいない。喧嘩したのだ。最近はそう珍しいことでもない。
 つきあい始めの頃はとてもうまくいっていた。ディーンの方が年上だったし、告白してきたのが彼の方からだったせいかもしれない。何か二人で決める時はジニーの意見を優先してくれたし、荷物を抱えていると代わりに持ってくれたり、手を貸してくれた。初めはそれが得意満面だったジニーだったが、最近はどうにも苛立つことが多くなった。
 元から、ジニーは人に頼るのが好きではない。自分のことはなんでも自分でしたかったし、恋人とは対等な関係でいたかった。
 けれど、ディーンは【ただ守られるだけのか弱い存在】としてジニーをとらえているようだ。ジニーは同級生の誰よりも小柄だったし、華奢だった。少し垂れ気味だった目は年を追うごとにつってきたものの、まだまだおっとりとして見えるらしい。ディーンに「君って見た目によらずパワフルだよね」と苦笑されるたび、もっと女らしく、しとやかにしてほしいと言われている気がした。
 多分、その考えはそう的を外れていないだろう。ジニーがたまに【可愛らしい女の子】を演じると、彼は嬉しそうな顔をするのだから。
 廊下の向こう側に目をやり、ジニーは足をとめた。しかめっ面をつくり上げると、少し早足に歩きだす。背の高い、ヒョロヒョロとした少年が重い足取りでジニーの方に向かってきていた。うつむいていたが、背格好や整髪料を使ってきっちりとまとめた金髪で、ドラコ・マルフォイに違いないことが分かった。
 気合を入れるように胸を張る。小さい頃の苦手意識は大人になってもそう簡単には克服できない。一年生の頃に散々いじめられたせいで、マルフォイの前にでると今でも少し緊張してしまうのだ。
 あと五歩という距離まで迫っても、マルフォイは顔を上げなかった。気づいてもいないらしい。
 拍子抜けしてそのまま行き過ぎようとしたジニーは、すれ違いざまにハッとして立ちどまった。不審そうに顔を上げたマルフォイの顔は瞬時に驚きから戸惑い、そして憎しみへと変化した。
「……なんだよ、チビ。馬鹿面下げて何か用でもあるのか?
 お前が一人歩きできたとは意外だねえ。保護者はどうしたんだ。あのダミアンだか、ダニエルとかいう奴は? とうとうお前に愛想を尽かして逃げてったのか? まあ代わりは大勢いるだろうねえ……マグルや混血にとっちゃあ、お前の卑しい血筋でも宝石のように輝いて見えることだろうよ」
「目が赤いわよ、マルフォイ。まさか、こんな年になって泣いてたんじゃないでしょうね?」
 挑発を無視して言うと、マルフォイはパッと目元に手をやり、低くうなった。
「ウィーズリーは頭だけでなく、目まで悪いのか? 夕陽で赤く見えるだけだ。僕が泣いただって?」
「そんなパンダみたいな顔で言われたって説得力ないわよ。鏡でも見てみれば?」
「ぶつけたんだよ、悪いか!」
 舌打ちし、逃げるように背を向けたマルフォイに、ジニーはケラケラと笑いながら追い討ちをかけた。
「どうせ怖い夢でも見たんでしょ? あなたの父親がお優しいご主人さまに拷問される夢? それとも母親が殺される夢かしら? ああ、それともあなた自身? パパー、ママー、怖いよー、助けてーって泣いてたの?」
「黙れッ……!!」
 マルフォイが振り返りざまに飛びかかってきた。
 なんの抵抗をする間もなく押し倒されたジニーは、背中をしたたかに打ちつけ、息を詰まらせた。喉を押さえつけられ、声を上げることもできない。なんとか逃れようと必死に爪を立てて足掻いたが、力はますます強まっていくばかりだ。血管がギュウギュウと押しつぶされ、今にも破裂しそうに熱くなっていく。
 鬼のような形相のマルフォイに、ジニーは初めて恐怖を覚えた。マルフォイにちょっかいをかけられたことはこれまでだって何度もあったけれど、口でからかうだけだったし、皆から乱暴者だと言われていても女子に手を上げたという話は一度も聞いたことがなかった。何処かで安心していたのだ。
 指先まで震えが走りだすと、ようやくマルフォイの力が緩まった。ジニーは激しく咳き込みながら、ボロボロとこぼれる涙を拭った。喉がヒリヒリと痛かった。絞められた跡がくっきりと赤く色づいている。
 よくもやったわね、と叫ぼうとしたジニーはマルフォイの顔を見た途端、言葉を失った。マルフォイは泣いていた。涙をこらえるためか、固く目を瞑ったまま。
「……何が、分かる」
 嗚咽混じりに、つぶやく。
「お前に、何が分かるんだ……分かるわけ、ない……家族が殺されるかもしれない恐怖を。自分が…、殺されるかもしれない恐怖も……分かるもんか……」
「……マルフォイ、あなた」
 マルフォイの父親はあの魔法省での戦いの後、アズカバンに収容された。なんでもヴォルデモートの命令を果たせなかったことで、あの牢獄からでたら始末されるだろうとも言われている。一族諸共、いつ消されてしまってもおかしくはない。ヴォルデモートが自分の恐ろしさを世に広めるために、過去多くの名家を滅ぼしてきたことは大人達から伝え聞いていた。
「誰も…、分からない……僕がどんなにつらいのかなんて。誰も……助けてくれない」
 ジニーは両手を突きだした。突然そんなことをされるとは思っていなかったのだろう。マルフォイの身体がバランスを崩して横倒れすると、ジニーは逆に彼の上にまたがった。掲げた手を勢いよく振り下ろすと、乾いた音が響いた。
「自分を甘やかすもいい加減にしなさいよ!」
 目を皿のように見開いたマルフォイは、打たれた頬を押さえた。
「あたしに分かるわけないですって? あたしのパパは去年重傷を負って、病院に入院したわ。報せが届いてから、気が気じゃなかった。すぐに駆けつけることもできずに、眠れない夜をすごしてた。
 自分が殺されかけたことだってあるわ! 【秘密の部屋】で、ヴォルデモートの分身に。自分の身体がどんどんこわばって、冷たくなっていく感覚。あなたこそ分かるのっ? その時のあたしの恐怖が分かる!? 事件が終わっても、暗闇が怖くてたまらなかった。今でもよ! 暗いところには、一人でいけない!
 皆、そうなのよ! あなた一人だけがつらいんじゃない! ヴォルデモートが復活してから、皆、同じ恐怖を抱えてるの! 自分だけがつらいだなんて甘ったれたこと言わないで!!」
 目を白黒させるマルフォイに、ジニーはふっと我に返った。興奮のあまり一気にまくし立ててしまったが、目の前にいるのが誰かをようやく思いだしたのだ。マルフォイ相手に、何をこんなに熱くなってしまったんだろう! しかも、こんな風に彼に馬乗りになって! 誰かに見られたら、どんな噂をされるか分かったものじゃない。
 マルフォイはそそくさと自分の上から退くジニーを不思議そうに見た。頬を撫でながら、つぶやく。
「……なかなかいいビンタだ、ウィーズリー」
「それはどうも……言っとくけど、叩いたのは謝らないわよ。それだけじゃあ、足りないくらいだし。見なさいよ、これ! あなたのカノジョはどうだか知らないけど、あたしには首を絞められて悦ぶ趣味はないの」
 すっくと立ち上がったマルフォイに、ジニーは二、三歩ばかり後退った。また何かされたら、力では勝てないのが分かったからだ。それも当然だ。マルフォイの方が頭一つ分は高いのだから。気づかれないようにポケットの中に手を入れて、杖を握り締める。
「ウィーズリー」
「な、何?」
 マルフォイが軽く頭を下げ、ジニーは面食らった。
「悪かった。手を上げるつもりはなかったんだ。ついカッとして…――なんだよ、その顔?」
「あなたでも、その……謝ったりすること、あるのね」
「失礼なヤツ……」
 フイッと背を向け、マルフォイは歩み去っていく。ジニーは反射的に「マルフォイ」と呼びかけていた。面倒くさそうに振り返るマルフォイに、ジニーは慌てて何か言う言葉はないかと考えた。
「ハンカチを水に浸して、冷やした方がいいわ。目元……そのまま戻ったら、泣いたのバレバレよ」
「それはご親切に」
 いつもと同じ、抑揚のない気取った喋り方が妙におかしかった。笑うジニーを不愉快そうに一瞥し、マルフォイは踵を返した。渡り廊下の先の暗がりに溶けてしまうまで見送ると、ジニーも逆方向に歩きだした。