夜明け前 - 2/3

 物事は唐突に起こる。ジニー・ウィーズリーがディーン・トーマスと別れ、そう日を置かずにハリー・ポッターとつきあいだしたことは今、ホグワーツで一番騒がれている話題だった。
 このことでジニーは皆から――特に意地悪な女子生徒から「乗り換えた」と陰口を叩かれたが、彼女は全く気にしていなかった。気持ちが冷めているのにズルズルとつきあい続けても相手に失礼だから、きっぱりと別れた。好意を持っていた人と気持ちが同じだと分かったから、つきあい始めた。それの何が悪いのだろう。明日がどうなるか分からない時に、周囲の目を気にして後悔するようなことだけはしたくなかった。
 毎日を悔いのないよう、精一杯に生きよう――その思いは恋愛のことだけではなかった。
 今日も人気のなくなった図書室にこもって、調べものをしていると、とうとう閉館を知らせる音楽が流れてきた。ジニーは開きっ放しにしていた教科書を順々に畳み、鞄の中に突っ込むと本棚の陰からでていった。耳を澄ませても、話し声や足音は聞こえない。もう皆、寮に戻ってしまったのだろう。
 O・W・L試験が迫ってきて、閉館ギリギリまで図書室にこもることが多くなってきた。友達とは選択した授業が違うし、勉強する時に誰かが側にいると気が散るから、いつも一人できていた。
 角灯の明かりに照らしだされる図書室は昼間とは全く違って見える。物陰から誰かが不意に飛びだしてきそうな不気味さがある。地下にある書庫は通路が狭く、一層不気味だった。ジニーは胸元まで鞄を持ち上げ、そろそろと階段を上がっていった。
 階段を半ばほどまで上がったところで、ジニーは足をとめた。ぼんやりとした明かりの先に、人影を見た気がしたのだ。こんな時間まで図書室にこもって調べものをする生徒はそう多くない。もしかして、ハーマイオニーだろうか? 一人で暗い館内を抜けるのが怖かったせいもある。ジニーは階段を上がっていくと、本棚の陰をヒョイと覗き込んだ。
 そこにいたのは、ハーマイオニーではなかった。明かりで誰かがきたことに気づいているだろうに、ジニーに背を向けるようにしてしゃがみこんだまま、振り返ろうとしない。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
 その誰かの背中は震えているように見えた。何かの発作が起こって身動きできないのかもしれない。
「ねえ、大丈夫……? マダム・ポンフリーを呼んでくる?」
「お前…、ウィーズリー…、か……?」
 おそるおそるというように身体の向きを変え、見上げたのはドラコ・マルフォイだった。
 ジニーはドキリとした。相手がマルフォイだったことにではない。彼は薄暗い中にいるせいか、顔色がひどく悪かった。まるで蝋燭のように血の気がない。いつも身だしなみに気を配っていたマルフォイが、自慢のブロンドに櫛も入れていないようだ。長い前髪が形のいい細い眉を隠し、彼を幼く見せていた。
「マルフォイ、大丈夫? どうしたの……?」
「どうしたって……なんでもない、くるなよ!」
 反射的に伸ばした手は、振り払われた。打たれた手の甲がヒリヒリと痛んだ。けれど、不思議と怒りは湧いてこない。角灯を置き、マルフォイの顔を覗き込むように座ると、彼は身を退くように身体を縮めた。目だけは何かを訴えかけるように、ジニーを見つめたままだ。
「何かあったんでしょ? こんなに震えて。どうしたのよ?」
 ジニーはまるで小さな子供に話しかけるように優しい声をだしている自分に気がついた。
 マルフォイが泣くのを見て以来、ジニーの中で彼への昔のわだかまりはなくなっていた。男の子が泣くのを見たのは初めてだった。それも、自分よりも年上の人が。よほどつらいことがあったのだろうと思う。ヴォルデモートに苦しめられているのは、自分達だけではない。死喰い人の父親を持つマルフォイもまた苦しめられているのだ。そう思うと、親近感に似た感情すら芽生えてくる。
 マルフォイは何か言いかけ、思い直したのだろう。首を振り、
「関係ないだろ、お前には!」
 強い語調だった。ジニーの視線を避けるように、立ち上がる。
「僕の弱みを握って、ポッターの奴に言いつけようっていうんだろ。君は昔からポッターの忠実な下僕だったからな……恋人の座を手に入れるために何をしたんだ? どんな情報を流した? あの時のことも話したんだろ……僕が一人で泣いてたとか。いろいろと言いふらしたんだろ!」
「言ってないわよ、そんなこと」
「嘘つくなよ! 言わないはずがない。君は僕のことが嫌いなんだから」
「そんなに言いふらしてほしかったんなら、今から言いにいくけど。
 あのね、マルフォイ。あたし、そんなに話題が少なそうに見える? 誰かの悪口しか言えないヤツだって思ってる? あたしはつきあってるからって、なんでもハリーに話すわけじゃない。ハリーもね。ロンやハーマイオニーには話すのに、あたしには何も言わないことがある……あたしはそれでいいと思ってるの。誰にだって言いたくないことの一つや二つはあるものだし」
 ジニーは視線を上げた。マルフォイが寒さに耐えるように腕を組み、カチカチと歯を鳴らしている。本棚に寄りかかって、今にも倒れそうに見えた。今のマルフォイを取り巻く状況そのもののように。頼りにしていた父親を失い、背後ではヴォルデモートの影が蠢いている。
 湧き上がってきた思いは同情とは少し違う。ジニーは自分の感情をつかみかねたが、答えの糸口を見出すため、先に続けた。
「あなたが言いたくないっていうなら、もちろんいいわ。ただ、気になったの。弱みを握るためとか、そういうんじゃなくて……心配で」
「心配? 君が、僕を……? 何故?」
 何故? そう訊かれると、分からない。
 マルフォイは「ああ」と小さな声で呻いて、顔を覆った。本棚をズルズルと撫でながら、へたり込んだ。
「……怖いんだ。すごく…、怖い……こんなガチガチに震えてさ、馬鹿みたいだな……」
「誰にだって怖いことはあるわ。怖がるのは、恥ずかしいことじゃない」
 恥じるようにつぶやくマルフォイに言うと、彼は顔を上げた。弱々しい微笑を浮かべている。
「君は強いな。【あの人】にあんなことをされたっていうのに……僕には真似できない」
「強くなんかないわ。今でも暗いところが怖いって言ったでしょ? 今日だって」
 まるで褒められているみたいで、顔が火照る。両手で否定すると、マルフォイはゆっくりと首を振った。
「でも、立ち向かおうとしてる。流されっ放しの僕とは大違いだ。
 ウィーズリー、聞いてくれ。今夜は一歩も寮からでるな。何があっても寮に閉じこもって大人しくしててくれ」
「どういうこと?」
 マルフォイの真剣な声が、ジニーの不安を煽った。鋭く訊き返すと、
「……寮にいてくれ。寮にいれば、安全なんだ」
 同じ言葉が繰り返される。
 にじり寄り、肩をつかんだ瞬間、マルフォイの身体がビクンと跳ね上がった。しかし、ジニーはそんな彼の様子に頓着している余裕はなかった。
「ねえ……何か起こるの? マルフォイ、あなた、何を知ってるのっ?」
 マルフォイの父親は死喰い人だった。もし、彼がなんらかの情報を事前につかんでいるのだとしたら? 寮にいれば安全。言い換えれば寮以外の場所は危険だということだ。ホグワーツが危険にさらされる? 一年前の魔法省での戦いのように【あの人】が襲ってくるのだろうか。シリウスのように、また誰かが死ぬかもしれない。それは友達かもしれない、ロンかもしれない、ハリーかもしれないのだ。
 答えないマルフォイに業を煮やして、ジニーは立ち上がりかけた…――けれど、身体が動かなかった。どうして? ジニーは目を瞠った。マルフォイに抱き締められているのだ。
「ウィーズリー、無事で……」
 押し殺したようなマルフォイの声だった。次の瞬間、ジニーの身体を突き飛ばし、マルフォイは後ろも見ずに駆けていった。死喰い人が雪崩のように押し寄せ、ホグワーツが阿鼻叫喚の場と化すのはこの数時間後のことだった。