ドラコが異変に気づいたのは、ハロウィーンの数日後のことだった。魔法薬学の授業に向かう途中、渡り廊下の向こう側を見た瞬間、目にしたものが信じられなくて足をとめた。
仇敵ハリー・ポッターとその腰巾着のロン・ウィーズリー。彼らが一緒にいるのはいつものことだった。驚いたのは、そんなもののせいではない。彼らの後に続いた少女――重たげな本を抱えてよろめいているのが、ハーマイオニー・グレンジャーだったことに、だ。
ポッターとウィーズリーが振り返り、当然のように荷物を持ってやると、彼女は遠慮することなしに本を預け、にっこりと笑いかける。広い中庭を挟んでいるから、当然ながら声は聞こえない。けれど、ドラコの耳には彼女の「ありがとう」がはっきりと聞こえた気がした。
先をいくクラッブとゴイルがのろのろと振り返り、石像のようだった顔を微かに動かした。
「ドラコ、どうしたんだい? 早くいかなきゃ、スネイプ先生に叱られるよ」
「あっ…、ああ、そうだな」
我に返ったドラコは二人に追いつくと、重い足を動かした。
いつもなら話を振るのも、会話を盛り上げるのもドラコの役目で、クラッブとゴイルは時折相槌を打つだけでよかった。話下手な二人にとって、それは大いにありがたいことだった。それにドラコの毒舌は刺激的で、尊敬に値するもので、両親から「マルフォイ家の子息と仲よくするように」と申し渡されたままにドラコに近づいた二人だったが、彼の側にいるのは思った以上に楽しかった。
けれど、今のドラコはむっつりと押し黙り、足元を見つめたままだ。蒼白の顔に何やら思い詰めたような表情を浮かべている。
クラッブとゴイルはそっと目を見交わした。想像力に乏しい二人は、具合が悪くなったのだろうかと思う他なかった。そこで二人は「大丈夫か?」などとお決まりの質問をしないよう口をつぐんだ。ドラコは不機嫌な時、言葉尻をとらえては神経を尖らせるからだ。
そんな友人達の気遣いにも全く気づかず、ドラコは一人物思いに耽っていた。
一体どうして。先ほど天敵ポッターとウィーズリーと一緒に楽しげに歩いていたハーマイオニー・グレンジャーの姿を思い浮かべた。
彼女はポッターとウィーズリーのことをはっきりと嫌っていた。あの二人ときたら彼女を傷つけるようなことしか言わないのだから当然だ、とドラコは思う。
けれど、それなら彼女は何故あいつらと一緒にいたんだ? しかも、あんな風に親しげに。ドラコは全くわけが分からなかった。
ハーマイオニーが大事な本を――図書館からの借り物にしても彼女にとっては宝物だ――他人に預けること自体が信じられなかった。前にふらふらと歩く彼女を見るに見かねて、持ってやろうと申しでて体よく断られたことを思いだし、ドラコは心が底なし沼に落ちたようにズルズルと沈んでいくのを感じた。
いつもよりも遅れて地下牢の教室に入ると、目は自然一番後ろの暗がりになる席の辺りを探していた。ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーの特等席だ。そして、その横にはいつも一番前のど真ん中に陣取っているはずのハーマイオニー・グレンジャーが当然のように座っていた。杖を片手に何か熱心に話し込んでいて、ドラコの視線にも全く気づかない。
「ドラコ?」
胃がギュッと締め上げられたように苦しくなった。
「……スネイプ先生に、具合が悪いから今日の授業を休むと伝えてくれ」
口を覆いながら、ドラコは逃げるように廊下に取って返した。
*****
新しい友人達と一緒に魔法薬の調合の準備をしていたハーマイオニーは、黒板に書かれた材料と手順を読み返しながら、ふと最前列にドラコ・マルフォイの姿がないことに気がつき、さりげなく教室中を見渡した。山のようにこんもりとしたクラッブとゴイルの後ろ姿は入り口側の列の後方に見えた。けれど、その間に彼は挟まれていない。
皆、器材を机の上に並べ終えて、各々の席に戻っているというのに。彼は何処にいるのだろう。
火にかけた鍋に切り刻んだ材料を次々に加え、ゴボゴボ煮え立つ液体を凝視しながら火加減を調節するハーマイオニーは傍から見れば実験に集中しているように見えただろう。けれど、なんとなくドラコのことが気にかかっていた彼女は普段ならやらないようなミスをやらかしてしまった。できあがった薬を注いでいる最中、フラスコを取り落としてしまったのだ。アッと声を上げた時には遅かった。カシャンと音を立ててフラスコは砕け散り、反射的に床に伸ばした手に熱い薬が跳ねて当たる。
「ハーマイオニー! 大丈夫かっ?」
「だ、いじょうぶ……」
ロンの叫びに弱々しく答えながら、ハーマイオニーは右手を見た。服用しなければ効果のない薬だったのが幸いし、ただの火傷ですんだのはありがたい。けれど、細い肉の筋がいくつも浮き上がった手はヒリヒリと痛み、涙がにじみでてきた。
とにかく冷やさねば、と水道に向かおうとしたハーマイオニーの進路を塞ぐように、スネイプが冷ややかな表情を浮かべて立っていた。
「注意力散漫だ、ミス・グレンジャー」
「……すみません」
火傷した手を庇うように背にし、ハーマイオニーは頭を下げた。スネイプは表情を変えずに続けた。
「グリフィンドール、五点減点。医務室にいってくるのだな、ミス・グレンジャー」
「先生、でも……!」
例え僅かな時間でも授業中に教室からだされてしまったら、何か重要なことを聞き逃すかもしれない。ハーマイオニーが抗議の声を上げかけると、スネイプは微かに鼻で笑いながら小気味よさそうに言った。
「真剣に取り組まぬ者に、この授業を受ける資格はない。寝る間を惜しんで予習復習に取り組んだところで、肝心の授業に身が入っていないのではな」
スリザリン生が合図を受けたかのように一斉に忍び笑いを洩らした。ハーマイオニーは屈辱に唇を噛み、憤慨のあまり顔を真っ赤にしてしているハリーとロンの顔を見ないようにしながら教室をでていった。
廊下を小走りで、階段を一段飛ばしで駆け上がる。肩で息をしながら医務室に駆け込むと、校医のマダム・ポンフリーがきびきびと近づいてきた。
「どうしました? ミス……」
「グレンジャーです。魔法薬の授業で手に火傷を」
右手を見せると、マダムは手首をつかんでグイッと自分の目元まで引き上げた。その勢いに、ハーマイオニーはたたらを踏んだ。
「ふむ。ただの火傷ですね。よかったこと。皮膚に染み込み、骨まで腐らせるような薬もありますから……そこのベッドにかけてお待ちなさい。軟膏を塗ってあげましょう。
あ、これ! マルフォイ、何処へいくのですか!?」
奥に取って返したマダムの声に、ハーマイオニーは顔を上げた。一番奥にあるベッドの周りを覆っていたカーテンが開き、ドラコ・マルフォイが姿を現わした。
「具合がよくなったので、もう戻ります」
「そんな真っ白い顔をしているというのに。まだ寝ていなさい」
「僕は普段からこんな顔色ですよ、マダム。お気遣いなく」
近づいてくるドラコに、ハーマイオニーは笑いかけた。ドラコの表情が戦いを前にした兵士のように硬くこわばった。彼は視線を外し、何も言わずにハーマイオニーの前を行き過ぎた。思わず、ハーマイオニーは立ち上がった。けれど、彼は振り返りもしない。
スリザリン生はこれだから、とブツブツ文句を言いながら、マダムは手の甲がベトベトになるほどたっぷりと軟膏を塗りたくってくれた。包帯をグルグルと巻きつけられ、ようやく解放されると、ハーマイオニーは礼もそこそこに医務室を飛びだした。
左右を見回し、長い廊下の向こうにドラコの後ろ姿を見つけると、急いで追いかけた。
授業中の廊下は静まり返っていて、バタバタ騒がしい足音が鳴り響く。追いかけられているのに気づかないはずがないのに、彼が立ちどまる気配はない。
「……待って、ドラコ! ドラコっ!!」
伸ばした手が、肩をつかんだ。ようやく足をとめたドラコにホッとして、ハーマイオニーは髪をかき上げた。
ドラコは勿体つけるようにゆっくりと振り返った。
「何か用か、グレンジャー?」
なんの感情も読み取れない、無機質な声だった。ハーマイオニーは驚き、次に腹を立てた。
「何か用か、はないでしょう。さっき、医務室で無視したのは何故?」
「別に」
「何怒ってるの? 私、あなたに何かした? 理由も言わずに当たり散らされたって、たまったもんじゃないわ!」
会話は不要とばかりに短く言い返すドラコにカッとなり、叫んでいた。一瞬、辺りが押しつぶすような沈黙に呑まれた。ドラコはフッと息を吐いた。
「よかったじゃないか。あいつらと仲よくなれたんだろ」
「あいつら……ハリーとロンのこと?」
ドラコの唇の端が僅かに持ち上がった。皮肉な笑いだった。
「ファーストネームで呼び合うくらい仲よくなったんだな。ついこの前まで、あいつらのことを規則破り、型破りだって言ってたくせに」
「あの二人、ハロウィーンの夜、トロールに襲われた私を助けにきてくれたのよ。自分達が死ぬかもしれなかったのに、特別仲がいいわけじゃない……ううん、仲が悪かったクラスメートを助けにきてくれたの。それがきっかけで親しくなった……そんなに非難されることなの?」
「いいや。ただ、自分の馬鹿さ加減を思い知っただけさ」
「どういうこと?」
「君にちょっとでも心を許した僕が馬鹿だった。グリフィンドールとスリザリン……仲よくなれるはずがなかった。最初から分かりきったことだったのに、今さら気づいた。君との仲はこれまでだ、グレンジャー」
「つまり私があの二人と仲よくなったから、あなたは友達をやめると……そういうこと? そっちの方が馬鹿みたいだわ。ハリーはハリー、ロンはロン、あなたはあなた。友達は何人いたっていいじゃない。何故、選ばなければならないの?」
声が震えた。ハリーとロンと仲よくなった時、このことがきっかけでドラコも二人と仲よくなるかもしれない。グリフィンドールとスリザリンの確執も少しは埋まるかもしれないと楽観的に考えた自分がひどく滑稽に思えた。
「僕はあいつらとは絶対に馴れ合わない。あいつらと一緒にいることを選んだ君ともね。
だから、遊びはこれまでだ、グレンジャー。君はもっと頭がいいと思っていたのに。所詮ポッターを英雄扱いするミーハーにすぎなかったんだ」
ミーハーという言葉に、ハーマイオニーも怒りを抑えられなかった。【闇の帝王】を葬り去った英雄ではなく、命がけで自分を助けにきてくれたハリーとロンだから友達になったのだ。それを曲解されるのは我慢ならなかった。
「私も……あなたのことを買いかぶってたみたいね。あなたには自分より優れた人を認める勇気がないんだわ! 自分のことを間違っていたと認めるのが怖いんじゃない! ハリーとだって仲よくしたかったくせに!!」
「ポッターと仲よくしたいと思ったことなんか一度もない!」
歯を食いしばって、一層青ざめたドラコに、ハーマイオニーは彼の急所を射たことを知った。
「じゃあ、いつもハリーにこだわるのは何故? ロンをからかうのは何故っ? 羨ましいからじゃない! いいわ。そうやって、いつまでも自分の狭い世界に閉じこもってなさいよ。素敵な時間をありがとう、ミスター・マルフォイ」
追い討ちをかけるように言うと、ハーマイオニーは踵を返した。大股に歩きながらも、ドラコが追いかけてくるのを期待して。プライドが邪魔して、振り返ることはできなかった。
しかし廊下の角を曲がっても、階段を上がっても、寮の前に辿り着いてしまっても、待ち望んでいた足音はついに聞こえなかった。
*****
「……グレンジャー」
廊下の暗がりに彼女の姿が溶け込むと、ドラコは消え入るような声でつぶやいた。彼女を追いかけ、ひどいことを言ってしまったと謝りさえすれば、全ては元通りになるような気がした。いつかの未来に笑い話にできるような気もした。
そう分かっていても、足が動かなかった。自分の身体ではないようだった。
たった一瞬でもいい。彼女が振り返れば、自分の方から折れる勇気も湧いたかもしれない。けれど、前を見据えたまま歩み去るハーマイオニーはそんな素振りさえ見せなかった。まるで、ドラコという人間に全くの興味を失ってしまったかのように。
耳を澄ましても、もう足音は何処からも聞こえない。ドラコはぎこちない身体をのろのろと動かし、寮へと戻っていった。
(2005/02/21)