SOAR HIGH - 6/8

 薄くたなびいた雲を幾筋も映した湖に、二つの小さな影が落ちた。一つは湖面すれすれのところを軽やかに滑っていき、もう一つは角々しくぎこちない動きを見せている。影は箒。乗り手はまだ少し幼さを残した少年と少女だった。
 どんどん小さくなる少年の背に、少女は怒鳴った。
「もっとスピード落としてよッ……追いつけない!!」
「別に僕のスピードにあわせろなんて言ってないだろ? 向こうの岸で待っててやるから、ゆっくりくればいいさ」
「お……落ちたらどうすればいいのよ!? 私……私、泳げないのよ…!」
「ああ、もう動揺するなって!」
 猛然と水飛沫を掃き散らしながら駆けつけた少年は、少女の隣りに並ぶと、素早く箒の柄をつかんだ。彼女の声色同様、それはガクガクと震えていた。
 少年は仰々しく溜め息を吐いた。
「平常心でいろって言っただろ、グレンジャー。他のことではともかく、箒に関しては学習能力がないな」
「死ぬかもしれないって時に平常心を保てるわけがないでしょ! 大体早すぎるわよ。まだ二週間しか練習してないっていうのに」
「もう二週間も、だ。習うより慣れろっていうだろ。大体箒なんて宙に浮かんでいること以外椅子に座ってるのと同じじゃないか」
「そりゃ、あなたにとってはそうかもしれないけど……あ、待ってよ、ドラコ」
 不平はすげなくかわされてしまい、少女――ハーマイオニーは少年の後を追った。つい最近【友達】になったばかりのドラコ・マルフォイの後を。
 ハーマイオニーはホグワーツ特急で出会って以来、彼のことをはっきりと嫌っていた。弱いものいじめ、家柄を鼻にかけた居丈高な態度、決闘をしかけておきながら逃げたりする卑怯なところ……彼の気に喰わないところを数え上げていくと本が一冊書けるほどだと思っていたし、それは彼をファーストネームで呼ぶようになってからも変わらなかった。
 多分、根本的に反りがあわないのだ。生まれも育ちもかけ離れているのだから、それも仕方ないとハーマイオニーは思う。
 けれど、不仲から始まっただけあって、彼と接するのに遠慮はいらなかった。互いに言いたいことは腹にため込まず、直接相手にぶちまけるのが常だった。そうすることで、同調はできなくても相手の考えを理解できるようになる。完璧に分かり合うことは不可能でも、歩み寄ろうと努めることが大事なのだ。近しい友人のいなかったハーマイオニーは彼とのつきあいを通して、自分の考えが正しいものだと信じ込むクセに気づき、他人の言葉に少し耳を傾けることを学んだ。
 それに、彼はただ嫌なだけの人じゃない。棘がある薔薇が美しいように、人を苛立たせる天才のドラコ・マルフォイにも確かに美点はあるのだ。
 心持ちスピードを落としてくれたのか、グラつきながらもなんとか彼と並んで飛ぶことができた。ホッと息を吐くと、ドラコが呆れたようにつぶやく。
「運動オンチだとは思っていたけど、泳げないとはねえ。ガリ勉の石頭もそこまでいくと尊敬するよ」
「それって褒めてるの、けなしてるの?」
「褒めてるに決まってるだろう、グレンジャー」
 ハーマイオニーの眉がピクンと動いた。からかわれたことが不快だったせいではない。
 ドラコは友達になった後も頑なに【グレンジャー】と呼び続けている。何故かと訊いてみると、一度こうだと思い込んだ呼び名を変えるのは難しいからだと言われた。
 確かに彼は友人のクラッブとゴイルのこともファミリーネームで呼んでいる。でも、パンジー・パーキンソンのことは? 彼女のことを名前で呼ぶのは何故だろう。何より、何故そんな取るに足らないことが気にかかるのだろうか。
(はじめてできた友達だから、そんな細かいところまで気になるんだわ。きっと、そう)
 ハーマイオニーはそんな自分が嫌だと思った。まるで嫉妬しているように感じられて、そのことだけは口にだせなかった。
 それに、彼の存在が心の中で大きなウェイトを占めているのを知られるのは癪だった。グリフィンドールからは毛嫌いされているドラコ・マルフォイも、スリザリンでは人気者だ。学年も男女も問わず、いつも大勢の輪の中心にいた。ハーマイオニーにとってはたった一人の友達でも、ドラコにとってはたくさんいる友達のうちの一人――それも、つきあっていてさほど楽しいとは思えない友達なのだから。自分だけが彼を気にかけていると認めるのはプライドが許さなかった。
「何怒ってるんだ?」
 探るようなドラコの視線にかちあって、ハーマイオニーは慌ててウキウキとした調子で言った。
「別に怒ってなんかないわよ。ちょっと考えごとをしてたの。
 もうじきハロウィーンよね。楽しみだわ! ホグワーツのパーティーってすごいんですってね。宙に浮かぶジャック・オ・ランタンとコウモリの群れ、ゴースト達の踊る影、見たこともないような豪華なご馳走が大盤振る舞いなんですって」
「僕はハロウィーンよりも、その後のクリスマスの方が楽しみだね。久しぶりに家に帰れる」
「あら、ホームシックだったの?」
 クスクス笑いながら言うと、
「寮生活ってのは、ひどい苦痛だよ。プライバシーも何もあったもんじゃない」
 柄から両手を離してウウンと伸びをするドラコを見て、ハーマイオニーは意外に思った。彼のように常に周囲に人を侍らせているような人は、集団生活を楽しんでいるように見えていたのだ。
「君は? 家に帰れるのが嬉しくないのか?」
「私? そうね。久しぶりにパパとママに会えるのは嬉しいけど、図書室にいけないのがつらいわ……調べ物をしようにも、マグルの図書館じゃね」
 ドラコは口の端を引きつらせた。
「君は本当に勉強しか頭にないんだな、グレンジャー……しかし、あれだな……それじゃ、クリスマスのプレゼントもそういった物以外は受け取ってもらえないか」
「クリスマスの? なんですって?」
 一体なんのことかと首をひねるハーマイオニーに、ドラコが辛抱強く繰り返す。
「プレゼントだよ、グレンジャー。もう注文してしまったんだけど、残念ながら分厚い辞書じゃあないんだ」
「あなたが、私に…?」
「そんな驚くことないだろ」
「驚くわよ! 私、親戚以外の人からプレゼントをもらうのってはじめてだわ……」
 ハーマイオニーは箒に乗っていることも忘れて、両手で口元を覆った。ふつふつと込み上げてくる嬉しさのせいで、頬が赤らんでいた。そんなハーマイオニーに、ドラコは肩を竦めた。
「正直君が喜ぶものかは分からないけどな……」
「あら。プレゼントされるなら、なんだって嬉しいわ。その心遣いだけでも十分。私も何か考えておく」
「参考書ならお断りだぞ、グレンジャー。休暇中くらい勉強のべの字だって見たくない」
 反論する代わりに声を立てて笑うと、気持ちがグンと軽くなった気がした。ガチガチに緊張していたのに、いつの間にかごく自然に箒に乗っていることに気づく。
 はじめて空に駆けだしたのは彼を見返したい気持ちから。その後、彼との練習で箒に乗れるようになり、こうして人並みに飛べるようになった。憧れていたものにどんどん近づいていって、もう手を伸ばせば届きそうなほどに近く感じる。
(私を押し上げてくれるのは、いつもあなただった)
 地面を掃くようにして岸に降り立つドラコの横顔を盗み見、ハーマイオニーは微笑んだ。向かいくる風に耐えて彼の隣りを飛び続ければ、きっと何処までも高く飛べる…――そんな期待を胸に感じながら。