似て非なる感情

 カツカツと靴音を高く鳴り響かせながら、ドラコは足早に廊下を歩いていた。その少し後を、クラッブとゴイルが必死に追っている。これは尋常ではなかった。何せドラコは友人達に比べれば縦幅も横幅も大分小さい。となれば必然的に足も短い計算になるのだが、短所は他の点で補えるとばかりに、ドラコはほとんどヒステリックといえるほどに忙しなく足を動かしていた。クラッブとゴイルが小走りにならねばならぬほどに。
「なあ、ドラコ。さっき、どうしてグレンジャーにあんなことされてそのままでいたんだよ?」
「そうだよ。やり返せばよかったのに」
 機嫌を取るように言う二人にドラコは急停止し、サッと振り返った。クラッブとゴイルが瞬間つんのめりそうになる。
「馬鹿。グレンジャーはあれでも女だぞ。女に手を上げるような真似ができるか」
 あれでも、に力をこめて言うドラコの青白い顔は明らかにいつもと違っている。ゴイルがおそるおそる指を指す。
「そりゃ、そうだけど……くっきり手の跡ついてるぞ。痛くない?」
「痛いに決まってるだろ! くだらないことばかり訊くなよ、ゴイル」
 腫れ上がった左頬を押さえて声を張り上げるドラコの顔に、みるみる血の気が出てきた。もっとも普段から日陰育ちの植物を思わせる青白い肌をした彼には、怒ったくらいで普通の人の顔色と同じくらいになるのだが。
 今日の魔法生物飼育学の授業で影を背負っているかのように落ち込んでいるハグリッドを見て、ドラコはからかわずにはいられなかった。彼はハグリッドのことが嫌いだった。第一にハリー・ポッターと親しくしていること。第二に彼の生まれが純血ではないこと。体格からして、おそらく忌むべき巨人の血が混ざっているのだろう。そして第三に化け物に目をかけ、生徒達を危険に巻き込んでも平気なその神経がドラコは気に喰わなかった。
 今年度の最初の授業で見せられたヒッポグリフにしても、あの魔法生物は専門家だけが飼育を許される危険種に分類されることをドラコは知っていた。
 そんな動物を、生徒と引き合わせようとするなんて! 「こいつはいい子で可愛い」という主観で生徒を危険な目に遭わせる権限が、あんな奴にあるのか? あるはずがない。あんな奴が教師であってたまるものか。一度くらい痛い目を見なければ、ああいった人種は態度を改めようとはしない。可愛がっていたヒッポグリフが処刑されれば、少しは目の曇りも薄らぐだろう。
 思い通りハグリッドを陥れることは成功したドラコは満足だった。そして、その満足感を周囲に知らしめねば気がすまなかった。どうやら、それがまずかったらしい。ハグリッドへの揶揄に、あのハーマイオニー・グレンジャーが憤然と向かってきたのだ。か弱い女子とも思えぬ力で、強烈なビンタを喰らわされた。
 さすっただけでビリビリと痺れる頬はひどく熱くなっていた。ドラコはふうっと溜め息を吐いた。鏡を持っていないから確かめられないが、きっと顔の輪郭が歪むほどに腫れているに違いない。
「こりゃー、パンジーが見たらカンカンだよな……」
「ドラコの顔に傷がっ…――なんつって。卒倒するかも」
 しげしげと観察してこぼすクラッブに、茶化すようにゴイルが言った。ドラコはピリリと眉を引き攣らせた。
「おい、お前ら。何があったか、絶対言うなよ」
「情けないって思われるから?」
 ドラコは頷いた。それもある。が、それだけじゃない。パンジーに知られれば、彼女は仕返しをしようと画策するに違いない。どうしようもないことならともかく、自分の問題を誰かに解決してもらうのはプライドが許さなかった。それも女の子に。
 クラッブは首を傾げて、
「ドラコさあ、パンジーのことどう思ってるんだ? ずっと訊こう訊こうと思ってたんだけど」
「どう思ってるって……幼なじみだよ。父上とパーキンソン氏が親しいから、昔から家同士の行き来があった」
「そうじゃなくてさあ、パンジー、ドラコのこと好きだろ。傍から見てても、丸分かりだし。でも、ドラコがてんで相手にしてやらないから、パンジー最近しょぼくれてるじゃないか」
「気が強いけど、可愛いじゃないか。上級生にも、何度も告白されてるらしいよ。断ってるみたいだけどさ」
「ふうん」
「君のことが好きだから、断ってるんだぞ?」
 焦れったそうに言う二人に、ドラコは眉をひそめた。最近はこんな会話の流れになることが多かった。二人はどうもパンジーの肩を持っているらしく、自分とくっつけようとしていることを感じていた。
 以前は持て余していたパンジーの好意も、年齢が上がってくるにつれ、少しずつ受け入れられるようになっていた。大広間での食事や、寮での語らい。ごく自然に共にできるようになった今では、彼女とは幼なじみであること以上に親しくなったように思う。
 けれど、その先を求められてもドラコには応えられなかった。好きだとは思う。けれど、率先して彼女と一緒にいたいとか、手を繋いだり、キスをしたいとは思えないのだ。
 そう思えるかもしれない相手は、きっと彼女ではなく…――
「僕はそういう意味では、パンジーのことが好きじゃない。これで満足だろ」
 不意に思い出したかのように、ドラコは二人を押しのけて、今きた道を戻っていく。
「何処いくんだよ、ドラコ」
「医務室。このまま放っておいたら、もっと腫れそうだ。氷でももらって冷やしてくる」
「授業は?」
「体調不良につき、休みます……とでも言っといてくれ。馬鹿力で殴られたせいか、脳までシャッフルされた気分だ」
 プッと噴きだした二人は特に不審に思った風もなく、次の授業の教室へと向かっていった。
 ドラコは早足に廊下を急いだ。じきに授業開始を告げるベルが鳴り渡るはずだ。生徒達の姿はほとんどない。前方に女生徒が一人いるだけだ。大理石の階段を駆け上がっていく、ふわふわの栗毛の女の子。
「やあ、暴力女のミス・グレンジャー」
 振り返った彼女は少し驚いて見えた。手に持っていた何かをサッと後ろに隠すと、好戦的な笑みを浮かべた。
「あら、もやしっ子のミスター・マルフォイ。ご機嫌いかが?」
「最悪だね。口で言ったことに対して、拳で返ってくるとは夢にも思わなかったからな……教養ある魔法族の中に野蛮人が紛れ込んでいるとは。一つ勉強になったよ」
 階段を上っていくドラコに、彼女は逃げる素振りすら見せなかった。胸を張り、一歩も退かない。
「それはよろしかったこと。純血なんて威張り腐っていても、無知の分野があると分かって少し利口になったでしょ」
「あーあ、感謝するよ」
「あなた、次の授業は呪文学じゃないでしょう? どうしてこんなところにいるのよ。サボリじゃないでしょうね?」
 サボリだと決めつけている口調に、ドラコは声を立てて笑った。
「医務室に向かう途中だ。誰かさんに負わされた怪我が病むんでね」
「医務室はこっちじゃないわよ」
「君を見かけたからな。謝罪の言葉が聞けるかと思ったんだが、マグル生まれはそんな礼儀すら持ち合わせていないらしい」
「自業自得よ」
 肩を竦めて、ハーマイオニーは言った。
「落ち込む人を前に、あんなことを言うなんて。あなた前から分かっていたけど、最低」
「それは、どうも。弱っている奴を見ると、ついつい足蹴にしてやりたくなる性分なんでね」
「嘘ね。だって、あなた、ついこの間私を慰めてくれたじゃない。ロン達と喧嘩してた時……」
 ドラコは一ヶ月前のことを思いだした。食べ物も喉を通らないほど落ち込んでいたハーマイオニーを見るに見かねて、ついつい声をかけてしまった時のことを。
 ハーマイオニーは一年生の時、ほんの数ヶ月を共にした友達だった。その後、天敵ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーと親しくしだした彼女とは交友を絶ったが、それでもドラコの中で彼女の存在は消えてなくなりはしなかった。自分が正しいと思ったことは例え立場が悪くなろうとも貫き通す勇気や、自分よりも弱いものを身を呈して守る優しさ――自分には逆立ちしても手には入らないだろうものを持つハーマイオニーは、ドラコの目にはまぶしかった。それは憧れともよく似ていた。
 その彼女が落ち込んでいる姿を見るのは、つらかった。何かをしてやりたいと思った。彼女の心を少しでも軽くするようなことを。
 何故そう思ったのだろう、とドラコは考えた。昔の友達だったからか? けれど、今一番親しくしている女友達のパンジーが同じような状況に陥ったとしても、そんな風に首を突っ込むだろうか? 多分そうはしないだろう。揉め事は、第三者が介入すればこじれるだけだ。基本的に自分の問題は自力で解決すべきだとドラコは思っている。
 なのに、何故あんな風にかまってしまったのだろう。
 ベルが鳴り、ハーマイオニーが飛び上がった。
「いっけない……こんなことしてる暇じゃなかったわ! マルフォイ、これっ」
 カバンから引っ張りだすと、押しつけるように小さな紙袋を渡してきた。ドラコは怪訝な顔を向ける。
「なんだよ、これ……」
「ホグズミードにいった時に買ってきたクッキー。今、女の子達の間で評判のクッキーよ。本当は授業が終わった後に食べようと思ってたんだけど、あげるわ」
「はあ? 別に君に物をもらう理由がないだろ?」
「引っぱたいたこと、ほんのちょっとは悪いと思ったの…! 口で言われたんだから、口でねじ伏せるべきだったって……だから! ああ、時間……!!」
「グレンジャー」
 階段を駆け上がりかけたハーマイオニーの手首をつかむと、キャッと悲鳴を上げて転びかけた。
「な、何するの! 授業が……」
「まさか、こんな物で詫びになると思ってるんじゃないだろうな? 目には目を、だろ?」
「……何よ、まさか一発殴らせろって言うの? 女を相手に」
 ハーマイオニーの目がドラコの手にいき、顔をこわばらせた。
 クラッブとゴイルと並んでいると小柄に見られるが、ドラコは決して同学年の少年達の間で小さいわけではない。クィディッチの練習で鍛えているから、筋肉もそこそこについている。女のように整った顔立ちをしていても、力がないわけではなかった。ドラコはポキポキと指を鳴らした。
「あんなビンタできるヤツが、女だから……なんて言っても説得力がないな」
 ドラコは大きく腕を振り上げた。瞬間、ハーマイオニーはギュッと目を瞑った。けれど、振り下ろしたドラコの手はハーマイオニーの頬に辿り着く前に速度を失い、優しく押さえただけにすぎない。ハーマイオニーがおそるおそる目を開ける前に、ドラコは彼女の左頬にキスしていた。ハーマイオニーが鋭い悲鳴を上げ、持っていた荷物をぶちまけた。羊皮紙の束やペンが、音を立てて階下に転がり落ちていく。突き飛ばされたドラコは咄嗟に手すりに手を伸ばし、頭から落ちるのを免れた。
「な、なっ……何するのよ!? い、いま、今、あなた私に……」
「仕返しだよ、グレンジャー。これで、チャラだ」
「だって、ちょっ……待ちなさいよ、マルフォイ!」
 取り乱したハーマイオニーは涙目になっている。キス一つでうろたえるハーマイオニーを見て、ドラコは妙にすがすがしい気分になった。紙包みの中から一つ、クッキーをつまみ取ると、口の中に放り込み、フッと笑いを洩らす。彼女を困らせることができたのが嬉しかった。けれど、何故困らせたのが嬉しかったのか。自分の中に根づいている感情に、ドラコは気づかないふりをした。

(2005/03/13)