Bitter chocolate

 白い太陽光を照り返す雪は柔らかく、踏みしめるたびにギシリと鈍い音を立てて足の形に沈んだ。今日はいつもよりは暖かな陽気だったが、それでも二月の空気は刺すように鋭く、服の上に重ねてきたローブと厚手のマントを通して少しずつ染みてくる。ハーマイオニーは一人中庭のベンチに座り、グルグルに巻いたマフラーの中に顔をうずめるようにした。
 ここ最近、ハーマイオニーはたまらなくみじめだった。ロンとの諍いのせいだ。
 ハーマイオニーはオレンジ色の長い毛をフサフサさせ、毛玉のように転がってはじゃれつくクルックシャンクスをとても可愛がっていた。ガニマタでつぶれたような顔をしていたし、皆口をそろえて猫として見栄えが悪いと言ったけれど、そんなところもハーマイオニーにとっては欠点にならなかった。
 そのクルックシャンクスが、ロンのペットのスキャバーズを追い回していると知った時も、ハーマイオニーは大して気に留めなかった。猫はネズミを追う習性を持っていることは分かっていたが、クルックシャンクスには十分な餌を与えていたし、動く小動物に惹かれるのは子供がオモチャに興味を示すのと同じようなものだと思っていたのだ。
 けれど、ロンはそう思わなかった。彼はクルックシャンクスを敵視し、事あるごとになじった。自分のペットを可愛がるからこそ彼はそうした怒りを見せていたのだが、ハーマイオニーにはそれが不当な言いがかりのように思えて、三年生に上がってからロンとの仲は次第にギスギスしたものになっていった。
 それでも、ハリーを間に挟めばなんとかうまくいっていたものが、ファイアボルトの件で一気に壊れてしまった。
 カードさえついていない箒がクリスマスプレゼントとしてハリーに贈られてきた時、ハーマイオニーはシリウス・ブラックのことを結びつけ、速やかにマクゴナガル教授に連絡して没収してもらった。きっとブラックがハリーを殺すために何かの細工をして贈ったに違いないと思ったのだ。けれど、ハリーとロンはひどく腹を立ててしまい、ろくに口も利かなくなった。そして、ようやく仲直りできそうだと思った矢先、今度はクルックシャンクスがスキャバーズを喰い殺してしまった。
 ハーマイオニーはそれまでロンの言い分に取り合わなかったことを後悔した。けれど、謝罪の言葉を口に上らせる前に、ロンは怒りのままにひどい言葉をいくつも投げつけてきた。ハーマイオニーもついカッとなって、クルックシャンクスを庇い立てて、ロンとの溝はますます深くなった。もう埋めることなど考えられないほどに、深く。
 ハリーはもう率先して二人の間を取り持とうとはせずに、ハーマイオニーの方をたまに気にする素振りは見せたものの、ロンの側を離れようとはしなかった。ハリーとロンは最初から親友だったし、やはり男同士だから自分には入り込めない壁のようなものがあることはずっと前から感じていた。それでもロンのことばかり気にかけるハリーに、ハーマイオニーは悲しくなった。
 そんなことをとめどなく考えていると、ふっと目の前に影が落ち、顔を上げた。
「こんなところで何してるんだ?」
「何かご用かしら」
ドラコ・マルフォイだった。ハーマイオニーは顔をしかめて切り口上に言った。
 ハーマイオニーは一年生の時、二ヶ月にも満たない短い間だったが彼と友達だったことがある。けれど、ハリーとロンと親しくなって以来、彼は敵意をあらわにするようになり、関係はぷっつりと途絶えた。こうして取り巻きもなしに、彼と二人っきりになるのは随分と久しぶりだとハーマイオニーは思った。
 マルフォイは見せびらかすように髪をかき上げながら、
「おお、怖い。最近愉快なお友達と一緒にいないようだけど、あいつらにまでビビられてるんじゃないだろうな、グレンジャー?」
「用がないなら放っておいて。あなたの不愉快な顔なんて拝みたくないのよ」
 剣で突き刺すような辛辣な物言いにも、マルフォイはフフンと鼻でせせら笑っただけだった。
「今日は一段と怒りっぽいな。カルシウムが足りてないんじゃないのか?」
「うるさい、うるさいったら! 放っといてったら、放っといてよ…!」
 叫んだ途端、涙がドッとあふれでた。決して、マルフォイの言葉に傷ついて泣いたわけではない。このところ親友達の前で無様に泣いたりはしないと気を張っていたのが、不意に緩んでしまっただけだ。
 ハーマイオニーはもうどうとでもなれと思って、泣き続けた。マルフォイが笑いたければ笑わせておけばいいのだ。どうせ彼のように陰険な人は、どんなことだって笑うに違いないのだから。
 予想していた底意地の悪い笑い声は上がらなかった。ハーマイオニーは赤くなった目元を拭いながら、隣りに腰を下ろしてきたマルフォイを見た。
「何よ……」
「なんだよ?」
「【穢れた血】と一緒のベンチなんかに腰かけたら、ご自慢の純血が穢れるわよ」
 ベンチはマグル界の人種差別を連想させた。
 ヒトラー支配下のドイツで、ユダヤ人の青年とドイツ人の少女の交流を描いた小説がある。青年は少女に心惹かれるが、自分がユダヤ人であることを打ち明けることができない。少女がドイツ人専用の緑色のベンチに腰かけ、彼を隣りに誘った時も、青年は腰を下ろすことには下ろしたものの始終落ち着かなかった。そんな彼の様子に、少女はユダヤ人専用の黄色いベンチのところまでいき、座ってみせた。人種の違う者のベンチに座ること自体が犯罪とされた時代だった。青年はすぐさま少女の手を引き、立たせた。結局二人はどちらのベンチでもゆったりと話し、くつろぐことなどできなかったのだ。
 その小説を読んだ時、子供心に同じ人間なのに人種が違うだけで同じベンチに腰かけてはいけないなんて馬鹿げていると、ハーマイオニーはなんのためらいもなく黄色いベンチに腰かけた少女に共感を覚えた。
 けれど、そう思えたのは自分が一度も差別されたことのない人間だったからではないか。上から見下ろすように、自分よりかわいそうな青年への憐れみから少女はそんな行動にでたのではないだろうか。現に、ドラコ・マルフォイを隣りにして、どうにも落ち着かなかった。
 ソワソワと廊下に目をやるハーマイオニーに、マルフォイは薄く笑った。
「君は変わったな」
「何が?」
 誰かに見られたら、どうするつもりだろう。ハーマイオニーは無意識に彼から離れるように動いていた。
「一年生の頃の君はマグル出身だということを卑下したりはしなかった」
「それは、あなたが私のことを【穢れた血】と事あるごとに罵るせいだわ!」
「そして、あの頃の君は責任転嫁なんてしなかった。そうだろ、グレンジャー?」
 なだめるような静かな声だった。差しだされたハンカチを、ハーマイオニーはまじまじと見つめた。取らないままでいると、マルフォイは押しつけるように渡してきた。ためらいつつも、涙を拭っていった。真っ白い布に、灰色の染みが広がっていく。
「今日は槍でも降るのかしら……いつも厭味尽くしのミスター・マルフォイが、なんで今日に限ってこんなに優しいの?」
 友達をやめてから、彼がこんな風に接してくれたことはない。スリザリンの連中を率いて【穢れた血】と連呼し、なんにでも突っかかってきたというのに。それを素直に喜べるほど、ハーマイオニーはもう彼を信じてはいなかった。優しければ優しいだけ、何か企んでいるような気がしてしまう。
 マルフォイの片手が、ハーマイオニーの膝にほど近いところに置かれた。彼は身を乗りだし、顔を覗き込むようにする。真剣な顔つきだった。
「論理的で、いつも何者にも屈しないハーマイオニー・グレンジャーになら厭味を言う価値がある。いつか、あの鼻っ柱をへし折ってやると、ずっと思っていたからな。けど、今の君ときたら! 泣いてる女をさらに泣かせたところで、なんの面白みもないじゃないか。みっともない顔が、さらにみっともなくなるだけだ」
「まあっ。みっともないなんて紳士のセリフじゃないわね!」
「良薬口に苦し。真実ほど苦いものなんだよ、グレンジャー。分かったら、とっとと泣きやめ。見苦しい」
「泣きやんでるわよ、もう!」
 グショグショになったハンカチを苛立ちのまま突っ返すと、マルフォイは表情を変えずに受け取り、ポケットの中にしまった。
「それはよかった。涙を武器にできる女じゃなくて、かわいそうにな……見れたもんじゃないぞ、今の君の顔は」
「だから……!」
 声を張り上げた途端、キュッと小さな音が鳴った。ハーマイオニーはパッと顔を染め、慌てて腹に手を当てた。
 その慌てふためいた仕草に、マルフォイが声を立てて笑いだした。ゴソゴソとローブのポケットを探りながら、
「怒ったり泣いたりすると、結構カロリー消費するんだよな。これでも食べろよ」
「い…、いらないわよ!」
 銀紙に包まれたチョコレートを半分に割って手渡され、ハーマイオニーは急いで両手を振った。マルフォイはその手を取って、無理やり握らせた。銀紙をむき、かぶりつきながら言った。
「ウィーズリーやポッターと顔を合わせづらいからって、食事をちゃんと摂らないのはよせよ。君が喧嘩するからには、それなりの理由があるんだろ? だったら、堂々としてろ」
 ハーマイオニーは驚いた。最近ハリーとロンの視線を避けるように、大広間にいってもパンを一つ二つつまむだけですぐに立ち去ってしまうことが多かった。そのことをマルフォイは見ていたのだろうか。なんのために?
「変よ、マルフォイ。あなた、私を励ましてるみたいよ」
「そうだな。早く君に立ち直ってもらわないと、念願が果たせないからだ」
 マルフォイは遠くを見つめながら、ぼんやりと言った。ハーマイオニーにはそれが彼の本心かどうか、よく分からなかった。
「……私、あなたのことが嫌いよ。バックビークの一件以来、あなたのことが大嫌いになった」
 彼が忠告も聞かずに無害なバックビークを挑発し、怪我したことで、ハグリッドは窮地に立たされることになったのだから。それも大した怪我ではないはずなのに、重傷を装って。心の中で何度卑怯者と罵ったかしれない。
 けれど、その卑怯者と、今ここで話しているドラコ・マルフォイは同一人物なのだろうか。
 マルフォイはすっくと立ち上がった。その手にもうチョコレートはなかった。
「それは、ありがたい。じゃあな」
 別れ際は昔と変わらない。見つめられていることを知ってか知らずか、彼は絶対に背を向けたまま振り返ろうとはしないのだ。
 ハーマイオニーは吐息をついて、手に持ったままのチョコレートを見た。銀紙に包んだまま先を折って、小さな欠片を口に放り入れる。舌に甘く、そしてほのかに苦い味が広がった。

(2005/02/13)