時を経ても変わらずに

 いつもは混み合っているダイアゴン横丁も、休日の午前中となれば人通りもまばらだ。客達はまだかとショーウィンドウに鼻先をくっつけるようにしている店主や、店の看板がこれ見よがしに翻るのには目もくれず、子連れの男が早足にいく。子供はまだ幼い少年だ。六つか、七つほどだろう。大人の足に合わせるには、ほとんど走らなければならず、一生懸命に手足を動かしていた。
 ルシウス・マルフォイと、その一人息子のドラコだ。
 ルシウスは居並ぶ店同様に、息子の存在も黙殺していた。歩調を緩めることも、息子が自分の後をついてきているか確認するために振り返ることもしない。ドラコが何か言いたげな視線を送っているのに気づきながら、声をかけようともしなかった。
 子供の甘えは許してはならない。子供は満腹中枢のない金魚のようなものだ。甘えという餌を与えれば与えるだけ飲み込み、増長し、やがて使い物にならないクズができあがるのだと彼は思い込んでいたのだった。
 そんなわけでルシウスが足をとめたのは、息子を気遣ってではなかった。店と店の間の小路を曲がってきた女性に気づいたのだ。
 棺に片足を入れかけた老婆しか着ないような、くたびれたケープを羽織っているが、それほど年がいっているわけではない。ふさふさした栗色の巻き毛には艶があり、豊かだった。背丈は低く、遠目にも分かるほど肉づきがいい。その女性もまた子供の手を引いていた。真っ赤な髪を肩まで垂らした、小さな女の子だ。
「ちちうえ?」
 呼びかけにはたと自分を取り戻したのと、女性がルシウスの顔を見たのは同時だった。微笑みを凍りかせた女性もまた足をとめた。気づかずに一歩踏みだしてから、赤毛の女の子が振り返る。
「ママ? どうしたの?」
 舌足らずな声がはっきりと耳に届く位置だった。
 女の子は小首を傾げて、ルシウスを見る。子供らしいふっくらとした顔に浮かんだ、あどけない表情だ。絵筆で描いたような薄い三日月眉に、低い鼻、軽く開いた口。そして、大きなトビ色の目が、それほど似ているわけでもないのに女性を思わせる。血の繋がりがはっきりと感じられる。
 ルシウスは射るように自分を見つめる女性に目を向け、笑いかけた。
「久しぶりだ、プルウェット……いや、ミセス・ウィーズリー。まさか、こんなところで会うとは思わなかった。十数年ぶりか? 君とは……そうそう、あの卒業式以来だ」
 ウィーズリー夫人は虚を衝かれたのか目を見開き、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「そうね、お久しぶりだわ、ミスター・マルフォイ。主人の口からあなたのことは聞いていましたけれど、お元気そうで何よりです。その子は息子さんね? よく似てるわ」
「ドラコだ。ご挨拶なさい」
 自分の陰から様子を窺っているドラコの頭を小突いた。よろめきながらウィーズリー夫人の前にでたものの、ドラコは口を開こうとしない。
 ウィーズリー夫人はルシウスの渋面をいち早く見て取り、顔を赤くしてうつむくドラコの前にかがんで目線を合わせた。
「はじめまして、ドラコ。素敵なお名前ね。ドラコはドラゴン……魔法界で一番強い獣の名よ。あなたもいつかそんな強い魔法使いになるのでしょうね。
 いらっしゃい、ジニー。ママ達は少しお話があるから、ドラコと一緒に遊んでてちょうだい。遠くにいっちゃ駄目よ。ママ達が見えるところにいること……ドラコ、悪いけど、お願いね。ジニーの面倒を見てあげてね」
「話がある、ね。一体なんの話だ?」
 手を繋いで駆けていく子供達の後ろ姿を見ながら、ルシウスはつぶやいた。あら、とウィーズリー夫人が大袈裟に肩をすくめる。
「何か用があったんじゃないの? あなたの方から声をかけてきたから、てっきり」
「往来で知人にあったら声くらいはかける。それが礼儀だ」
「そう、最近のあなたは礼儀なんか知らないと思ってたわ……アーサーから聞いただけでも相当悪どいことをやってるみたいじゃない。もっとも昔から卑怯な手口ばかり使ってた気はするけど」
「ズケズケと物を言う。君はまるで変わっていない。なつかしの番犬の吠え声だ……そうだ。やっぱり変わったよ、君は。より一層ブルドッグに近づいてきた。いまや、そのものだ」
 ニヤリと笑うルシウスに、ウィーズリー夫人はフンッと鼻を鳴らした。
「噛みつかれたくなきゃ、へらず口を叩くのはやめなさい。それで? 本当に何も用事はないのね?」
「ああ。君の貴重な時間を割いて悪かったがね……これから大事な商用がある。そろそろ、行かねば」
 ルシウスの進路を遮るように、ウィーズリー夫人が回り込んだ。
「ねえ、私がドラコを見てちゃいけない?」
 唐突な言葉に、ルシウスは眉根を寄せた。どういうことだ、と言わなくてもウィーズリー夫人は察したらしい。
「ちゃんと見てるわ。危ないことはさせない。あなたの用が終わるまで……時間を決めて、後で落ち合えばいいでしょ? ね、そうしてちょうだい。ジニーもたまには同じ年頃の子供と遊ばせたいの、ねっ?」
「ドラコは後々マルフォイ家の後を継ぐ。私の仕事もね。今のうちから誰と、どんな話をし、どういったことをしていくのか……理解できなくても触れさせておく必要がある。余計なことに費やす時間はない」
「余計なことって言うのは子供とのコミュニケーションも含まれてるの?」
「何が言いたい?」
「あなた、自分で気づかないの? ドラコはあなたに怯えてるわ」
「それもいいだろう。親と友達感覚で接せられても困る」
「親と子供の線引きは確かに重要よ。でも、子供を恐怖で意のままにするのはどうかしら?」
 責めるような言葉に、ルシウスは背を向けた。不愉快だった。子供が親を恐れるのは当たり前だ。事実、自分の子供時代を振り返ると、父親にはある程度距離を置いていたし、なんでも言うことを聞いていた。子供には到底及ばない何十年もの経験を持っている親に従うのは当然ではないか。
 歩きかけた時に、もう一度引き戻す力を感じた。ウィーズリー夫人がマントを握っていた。
「差し出がましいでしょうけど、言わせて。子供は愛情を込めて育てなきゃ駄目よ。どれだけ心で愛していたって、伝わらなくちゃ意味がないわ」
「妻が十二分に甘やかしている。それに我が家の教育方針に口をださないでいただきたいな……さあ、放したまえ」
 ウィーズリー夫人は意外にもあっさりと手を放した。
 彼女の視線を背中に感じながら、ルシウスは子供達の方に近づいていった。クィディッチ用具店のショーウィンドウの前で、ドラコは箒を指差し、何か得意げに語っている。絞めた鶏のようにか細い声でしか話せないはずのドラコが、クィディッチのうんちくを傾けているようだ。そんな息子は初めて見た。いつも長い前髪の下から覗く目はおどおどとしていて、客人があっても挨拶もできないような子供だと思っていたのに。
 話の合間にウィーズリーの娘が感心したように相槌を打つと、また熱を込めて先を続ける。喋ることが楽しくてたまらないといった風だった。
「ドラコ」
 声をかけると、ドラコは口を閉ざした。叱ったわけでもないのに、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「もう行くぞ。今日は魔法省にも顔をださねばならない」
「はい、ちちうえ」
 すぐに頷き、ルシウスの側にかけてきたが、ドラコは名残惜しそうにウィーズリーの娘を見ていた。ウィーズリーの娘は屈託もなく手を振った。
「いっちゃうの? またね、ドラコ。さよなら、おじさん」
 ドラコはウィーズリーの娘を見つめているが、何も言わなかった。寂しそうな顔をしているのに、何も言わない。言葉という言葉を忘れてしまったかのようだ。ルシウスは後ろを見た。ウィーズリー夫人と目が合うと、彼女は促すように頷いてみせた。ルシウスはドラコの肩に手を置いた。飛び上がらんばかりに跳ねた息子の耳元に、努めて優しい声をだした。
「さよなら、と言われたんだ。さよならを返しなさい」
 目をぱちくりさせたドラコの肩をもう一度軽く叩くと、呪いが解けたようにドラコは笑顔になった。ウィーズリーの娘に手を振り、「またね」と言うと、ルシウスのすぐ横にぴたりと張りつくように歩きだした。
 ルシウスはもう一度ウィーズリー夫人を振り返ると、彼女は安堵したような笑みを浮かべていた。まるで母親みたいだ。在学中も、卒業してからも、いつも人の心配ばかりして…――ルシウスは苦笑しながら、ウィーズリー夫人に片手を上げた。いつまでも変わらない、お節介焼きの彼女に。