笑いの陰で

 魔法省での戦いから数日が経った。厳しい監視の目を逃れて途切れ途切れに届けられるフクロウの便りから、ベラトリックスは夫を含む仲間達が皆、囚われの身となったことを知った。ヴォルデモート卿の仮の住まいとして提供された、このマルフォイ別邸の確かな所在を知っている者は少ないが、そろそろ魔法省の手が伸びてくる頃かもしれない。
「浮かぬ顔をしているな、ベラ」
「いいえ、そのようなことは」
 その日、ヴォルデモートに呼びだされたベラトリックスはひざまずいたまま、顔を上げなかった。彼の顔を見るのが畏れ多いという思いのためだけではなく、浮かぬ顔を隠すためでもあった。もっともヴォルデモート卿にかかれば、顔を伏せたところで隠すことなどできようはずがなかったのだが。
 同じ屋敷内にいながら、ヴォルデモートとベラトリックスは顔を合わせない。ベラトリックスは自分が下僕にすぎず、特に呼びたてがなければ主人の目に触れぬように振る舞っていた。身分が違う相手と同じ場所にいることは許されない。それは屋敷しもべが魔法使いに対する姿勢と同じだった。
 数日振りに聞く主人の声は低く、落ち着いていた。予言玉を手に入れよ、との命を実行できなかった自分への怒りは解けたのだろうか。ベラトリックスは二の腕の冷えを強く感じた。
「ロドルファスが心配か。案ずるな、吸魂鬼のいないアズカバンなど、ただの暗がりにすぎぬ。十数年もの長きに渡って苦痛に耐え忍んできたお前達にとっては、な」
「は…、ご主人様……ご心配痛み入ります。ただ私は自分が情けなく…、私も夫もあなたさまの下に戻りましたのに、なんの働きもできず、挙句にあのような失態を。どうか…、お許しを……」
 夫や、一緒に捕まった義弟のことは確かに心配ではある。脱獄後の万全ではない身体であの戦闘に加わり、またあの地獄に突き落とされたのだ。身体に障りはないだろうか。魔法省の人間達の拷問を受けていはしないだろうか。彼らはベラトリックスにとって家族であると共に、長く苦しかったアズカバンでの生活を共にしたという思いがある。二人は自分の血肉に等しく、彼らの苦しみは自分のものも同然だった。
 けれど、それ以上にヴォルデモートの役に立てなかったという事実がベラトリックスの胸を締め上げていた。彼女がヴォルデモートの下僕になったのは、他の者のように恐怖のためだけではないのだ。
 椅子にかけた自分の膝よりもさらに低い位置に身体を固め、身じろぎしないベラトリックスを持て余したように、ヴォルデモートは頬杖をついていた。やがて、
「弁解は聞き飽きた。もう、よい。あの厄介なシリウス・ブラックを片づけたのもお前の功績なれば」
「……何故そのことを」
 驚き、顔を上げかけたベラトリックスは、ヴォルデモートの足元を凝視していた。予言玉が失われたことを叱責されていた中、従弟と戦ったことは口にしただろうか。あの時は錯乱していた。よく覚えていない。
 背後のドアが音を立てた。後ろを窺うと、黒いローブが見えた。逃げ延びた死喰い人か…――
「我輩がお伝え申し上げた」
 皮肉めいた口調。その声には聞き覚えがあった。火山のように突如噴きでた怒りと憎悪の念が、主人への礼を忘れさせた。彼女は立ち上がると同時に杖を抜き払った。
「何故お前がここにいるのだ、スネイプ!? よくもご主人様の面前にその薄汚い身体をさらせたものだ、この穢れた血の裏切り者めが!!」
「アズカバンでの暮らしも、君を変えなかったようだ。いや、元気そうで何より」
 スネイプは顔色一つ変えずに素っ気なく言った。逆上するベラトリックスが檻の中にいる獣とでも思っているのか、軽蔑しきった目に警戒の色はない。スリザリンの血筋を持つブラック家の末裔であり、死喰い人随一の力を持つ自分を侮っているのだ。ベラトリックスは憤怒のままに、杖を振りかざした。
「アバダ」
 杖は手から弾かれ、カラカラと床を転がっていった。スネイプを睨みつけると、彼はヴォルデモート卿に視線を走らせた。
「やめよ、ベラ。スネイプは我が忠実な下僕だ。お前同様に信用の置ける、そして頭のある数少ない下僕だ……つまらぬいざこざで、そのいずれかを失うわけにはいかぬ」
「しかし……! どうか、ご主人様、無礼を承知で申します! この男は不遜にもあなたさまがお隠れになった折、探そうともせずにダンブルドアに寝返ったばかりか、その庇護を受け、のうのうと暮らしてきた者。そして今度、我らが勢力が盛り返したと知るや、また我らの側に戻ろうなど……こやつはコウモリです、またいつ裏切るか」
「それは君も同じことだろう」
「なんだと!? 貴様、今なんと言った? 私が貴様と同じようにご主人様を裏切るとでも? ただ一人の主のために死の牢獄に十数年もの月日、身を置いていた私を」
「アズカバンでの暮らしはそうひどくなかったろう……何せ、君の愛しい従弟殿も一緒にいたのだから」
「黙れッ、スネイプ!!」
 目を剥かんばかりのベラトリックスに、追い討ちをかけるようにスネイプがささやいた。
「普段は用心深く鎧をまとった君の心も、最愛の者を失った、いや、違いますな。自らの手にかけた時ばかりは、心を乱した。我輩に覗かれたことさえ気づいていなかったのかね、ベラトリックス?
 幼いブラックの手を引き、君は屋敷を歩いていた……宝物のように自分の横ばかりを歩かせたがり…、誰も寄せつけないようにしていましたな。特に君の妹を」
 ナルシッサ――儚い花のような容貌の妹の顔が目の前に現れた。
 母に疎まれ、虐待されていた年の離れた妹。彼女を庇う父とアンドロメダ、そんな二人を責める母。幼少時代の幸せは、この妹のために砕かれた。両親を、仲よしだった妹を奪っただけでは飽き足らず、私のシリウスを…――
「黙れッ!! 黙れ、黙れ、黙れェッ……!!」
 長い爪を生やした手でスネイプの身体を叩くベラトリックスの目には狂人のような輝きがあった。両手で庇いながら、うるさそうに見下ろすスネイプの唇が動く前に、彼女は鋭い悲鳴を上げた。一瞬、全身が痙攣したようにヒクついた次の瞬間にはガクリと床に倒れ、自らの喉を締め上げていた。ヴォルデモートはそんな彼女を冷ややかな目で見やり、長い足を組み替えた。
「俺様の言葉が分からなかったのか、ベラ? やめよ。そう言ったのだが?」
「…ァ、ご…………ま、ヴォル……ト様……」
 はたりと転がった白い手に、血管が幾筋も浮かび上がっていく。ビクンッと大きく跳ね上がると同時に、苦しげな咳と息遣いが部屋を満たした。
「ヒステリックな叫びなど聞きたくはない。心を閉ざせ、自分の脆さをさらさぬようにとあれほど教え込んだと言うに……俺様を失望させるな、ベラ。下がれ、お前に命ずることがあったが、今の様子ではな……」
 追い立てられるように、ベラトリックスの足が伸びた。痛む節々を無視して、身体は泳ぐように部屋をでていこうとする。磔の呪いの痛みでにじんだ涙が、目を曇らせていたが、それでもスネイプが口の端に笑みを浮かべているのが分かった。
 自分の意思に反して廊下にでて、ドアを閉めた途端、ベラトリックスはその場に崩れ落ちた。拳を床に打ち据え、子供のように声を上げて彼女は泣いた。スネイプの言ったことは真実だったが、彼女は認めたくなかったのだ。何者も恐れず、自由奔放に振る舞った従弟を愛していたことを。その彼を自分の手で葬った時、込み上げてきたのは悲しみであったこと――甲高い笑い声の陰で、涙をこぼさず泣いていたことを。

(2007/07/17)