狭き門の先

 冷たい壁に背中を押しつけられながら、ジニーは恋人のキスを受けていた。強く吸われる舌や、唇は少し痺れを覚え始めていたのに、ディーンはまだ執拗に口腔をまさぐっている。軽く肩を押しやって抗議してはみたものの、彼はまだ足りないとばかりに舌を絡め取った。
 軽く太ももに置かれた手がするすると這い上がってくるのを感じた途端、ジニーは思い切り彼を突き飛ばした。よろけたディーンの目は一瞬の驚きの後、すぐに責めるような目つきに変わった。
「いきなり何するんだよ!」
「それはこっちのセリフだわ! いきなりキスしてきたかと思えば、次はあんなことまで」
「つきあってるんだから当然じゃないか!」
 ディーンの黒い肌が、赤みを帯びた。相当怒っているのだ。けれど、それで萎れるようなジニーではなかった。彼女は一層顎を上げ、毅然として言い放った。
「男って皆、女の感情なんてお構いなしなの? マイケルといい、ロンといい、それにあなたといい! ろくろく話もしないで、会えばそういうことばっかりしたがるんだから。好きだからつきあってるんじゃなくて、したいからつきあってるんじゃないの!?」
「好きだから、したいに決まってるだろ!」
「好きなら、あたしの気持ちも少しは考えて! ロンのお節介に頷くのはシャクだったから言わなかったけど、あたし皆の目につくようなところでベタベタするのって好きじゃない。気づきもしなかったでしょ? あなた、いつも自分のことしか考えてないんだから!」
 ディーンの眉が真一文字になったかのように寄せられた。悪態が喉から飛びでるすんでのところでなんとかこらえたという顔をして、ディーンは大股に歩み去った。ドスドスと賑やかな足音を置き土産にして。
 ジニーは恋人の後ろ姿を見送ろうともせずに、壁に寄りかかった。あんな風に怒鳴らなければよかったと思ったが、あれでよかったのだという思いが後悔の念を鎮めた。

 ディーン・トーマスとつきあってから、かれこれ半年ほど経つだろうか。前の恋人――マイケル・コーナーと別れた直後に、つきあい始めたディーンは、同じDAのメンバーだったし、ロンのルームメイトでもあったから、学年が違っても話すことは多かった。思ったことを率直に口に出したり、目上の人間だからと言って物怖じしない態度が好きだった。交際を断る理由はなかった。
 けれど、最近は今のような諍いが絶えない。半年も経つのにキス以上進ませてくれないとディーンは責めるようになった。
 ジニーも、その先のことに興味がないわけではない。ケンカばかりになってきたとはいえ、ディーンのことは好きだったし、このまま許してしまってもいいと思う時もある。けれど、どうしても最後まではいき着けない。反射的に身体が拒んでしまうのを、どうすることもできなかった。そして拒めば拒むほど、ディーンは焦る。他に誰か好きな奴でもいるんじゃないか、と探るように言いだした。
 このパターンは同じだ、とジニーは思った。マイケル・コーナーの時と、全く同じ。

 ――君はポッターのことが好きだったって皆、知ってる。今でもそうなんじゃないか? 彼のことが忘れられないんじゃないのかっ?

 マイケルの言葉を思いだして、ジニーは頭を抱えた。クィディッチの試合後の嫌味なんかよりも、その言葉の方がずっと残っている。
 そう、マイケルとつきあいだしたのは忘れられなかったからだった。ただし、その相手はハリーではない。ジニーの心に深い影を落としていた人はトム・リドル――一度はジニーの命を奪いかけた【闇の帝王】の【過去の記憶】だった。
 【ヴォルデモート卿】の魂が秘められた日記帳は、バジリスクの毒牙に貫かれても完全に滅しはしなかった。ルシウス・マルフォイの手を借り、ジニーの元に戻ってきたリドルは「他人のために自分の命を懸ける意味が知りたい」と彼女に取り憑いた。とはいっても、再び【秘密の部屋】事件のような惨事を引き起こすことはなく、ただ誰にも悟られぬようにジニーの側にいただけだった。ジニーが事件の真犯人に気づくまでそうだったような、優しいリドルに、ジニーはいつしか友達や兄弟達に感じていたよりも強い絆を求めるようになっていた。愛情らしい愛情を受けることなく、またそれの必要性すら感じていなかったリドルだったが、彼にとってもジニーはかけがえのない存在となっていった。
 そのリドルが再びいなくなった時――【記憶】の彼が完全に消滅してしまった時、ジニーは信じられなかった。彼の【死】があまりにも唐突すぎたために。ホグワーツ中を探し回り、リドルの姿を追ったが、彼はもはや何処からもいなくなっていた。
 深い虚脱感に覆われていたジニーの前に現れたのが、マイケル・コーナーだった。彼の容貌は何処かリドルを匂わせるものがあったし、傷心を優しく労わってくれた。申し出を受けたのは、そんな理由からだった。
(でも、あたしはトムを彼に重ねて見てただけ。本当のマイケルを好きになったんじゃない……ディーンのこともそうじゃないの? ディーンを見上げる時、いつも期待してなかった? ディーンじゃなく、トムが見つめ返してくれることを)
 ああ、と呻くのをやっとの思いでこらえた。今度こそ大切にしようと思ったのに。自分のことを想ってくれる人を大事にしようと思ったのに、結局は同じだった。失くした恋人の形をしたピースを、無理やり埋め込もうとしてしているから。自分勝手なのはディーンじゃない。自分なのだ、とジニーは思った。

 コツン、と響いた足音に顔を上げた。ディーンが戻ってきたのかと顔を上げたジニーは、壁からサッと離れた。ドラコ・マルフォイだ。両脇に小柄な女の子を二人侍らせているせいか、背の高いのが際立って見える。クラッブとゴイルの間にいる時は気づかなかった。
「さすがはウィーズリー……何処でもあんな風にイチャつくから、ウサギみたいに次々と子供を産めるわけか。道理でな」
「高貴なマルフォイ家のお坊ちゃまが立ち聞きが趣味とは思わなかったわ」
 クスクス笑う女の子達を黙らせるように睨みつけながら言ってやると、マルフォイがフンッと鼻を鳴らした。
「あんな馬鹿でかい声なら3マイル先にだって聞こえるさ。通りがかりの奴らに聞かれるかもしれないのに、よくあんな下世話な話をできるものだな? 【穢れた血】に染められたか、それとも元から資質を持っていたか……」
「ハーマイオニーのことをそんな風に言わないで!」
「【穢れた血】を【穢れた血】と罵って何が悪い?」
 そう言ったマルフォイの表情は心なしか硬かった。
 ジニーは言うか言うまいかと迷いながら、マルフォイの顔を見つめた。廊下の明かりが暗いせいか、青白いマルフォイの目の下が落ち窪んで見えた。まるで長く病気を患っているかのように、げっそりとして見えるのに驚きを隠せなかった。ホグワーツ入学以来、ロン・ウィーズリーの妹だからとしつこくジニーをいじめてきたマルフォイだったが、彼はいつも高慢で、妙な自信に輝いているように見えていた。それが、この変わりようはどうだろう?
「……マルフォイ、あたし、多分あなたの気持ちを知ってるわ。ハーマイオニーへの本当の気持ち」
 眉をつり上げたマルフォイは、女の子達を押し退けて、大股でジニーに近づいてきた。
「本当の気持ちだって? あの【穢れた血】が死ねばいいって思ってることは、馬鹿なお前らでも、もうとっくのとうに気づいているかと思っていたが」
「あなた、このままでいいの? いつ死ぬかもしれないっていうのに」
 マルフォイがハーマイオニーのことを好きなのは、きっと気のせいじゃない。思えば、一年生の時にホグワーツ特急でハーマイオニーとマルフォイに出会った時から、うっすらと気づいていた。ハーマイオニーも、もしかしたらそうだったのかもしれない。マルフォイに渡された手鏡を大事そうにしまっていた姿が、五年前のことなのにありありと思い浮かんだ。
 マルフォイは肩をすくめた。
「僕が死ぬなんてことはまずありえないが、別にどうってことないだろ? お優しい【穢れた血】のグレンジャーが僕のために涙を流すなんてことをするはずがない」
「馬鹿ね! その逆の可能性が……ハーマイオニーが死んだら、あなたは後悔しないの!? そうやって、あの人のことをいつも貶めて。心にもないことばかり言って!」
「その口黙らせてほしいか? 永遠に」
 脅すように杖を突きつけてきたマルフォイの顔が、不意に忌々しげに歪んだ。交差するようにジニーの杖が自分に向けられたことに気がついたのだ。慌てて加勢にこようとする女の子達に「くるなっ」と言い捨て、マルフォイは視線を戻した。
 ジニーはてっきりまた何か罵るだろうと思っていたが、彼はだんまりのままだ。まるで次の言葉を待っているかのように。
「伝えたい相手が、いつまでもいるなんて思わないで」
「そんなこと、分かってる」
 身を翻し、長いローブの裾をはためかせながら廊下の向こうに歩いていくマルフォイを、当惑顔の女の子達がパタパタと追った。
 ジニーはぼそりとつぶやいたマルフォイの言葉を噛み締めた――放っといてくれ。
「後悔するわ、きっと……」
ささやきは、すぐに人気のない廊下に溶けていった。

(2006/05/20)