ソファにゆったりとかけたテッド・トンクスは日刊預言者新聞を開きながら、テレビの音にも注意を払っていた。マグル界のニュースもここ一年不穏なものが多くなってきた。爆発事故、建造物の倒壊、要人の奇怪な行動…――大半は死喰い人達の仕業なのだろうが、そういったことは日刊預言者新聞では伏せられている。圧力がかかっているのだろう。魔法界のニュースをマグル界から仕入れた方が早いくらいだ。
台所に立ったアンドロメダは夕食の支度をしながら時折夫の方を振り返った。彼が口を開くのを待っているのだ。
「ドロメダ。新聞には何も出ていなかったよ」
穏やかな夫の声に安堵の息を吐く。
「そう、よかった……」
「テレビはつけたままでいいかい?」
「ええ、もちろん」
テッドはマグル出身者で、家の中にはマグルの日常品が置かれている。純血の名門、ブラック家出身のアンドロメダは結婚から二十年以上経ってもそうしたものに慣れなかった。とりわけテレビが苦手で、マグルのドラマを見ながら食事をしようとするテッドに、雑音にしか聞こえない音が嫌だと抗議し、これまで数えきれないほど言い争ってきた。けれど、今はテレビの音を聞き逃すのが怖い。ニュース速報で重要な情報が流される可能性があるのだから。
「ねえ、本当に協力してよかったのかしら」
テッドは肩ごしに妻を振り返った。長い結婚生活を経て丸々と肥えていった身体は学生時代の面影を残していない。しかし、アンドロメダが愛した誠実そのものの目は変わらない。どんなことにも動じず、穏やかで優しげな目は。杖を振り、食器をテーブルに向って飛ばしながら彼女は続けた。
「ハリー・ポッターを騎士団に引き渡す手伝いのこと。あれからドーラはちっとも家に帰ってこられなくなったし、心配なの。それに、あなたのこと。マグル出身者を登録する法案も通ったらしいじゃない」
「大丈夫だよ、ドロメダ。この国に何人のマグル出身の魔法使いがいると思う? その全てを抹殺なんてことしたら魔法使いが絶滅してしまう」
「だと、いいんだれど……【あの人】は本当に恐ろしい。以前にもあったでしょう。マグル出身者ばかりを執拗に狙ったこと……ううん、マグル出身者ばかりじゃない。レグルスのことだって。あの子はまだ学生だったのに……容赦なく殺されてしまった」
年の離れた従弟のことを思い出すと胸が痛んだ。シリウスのように自らの意思で不死鳥の騎士団に属し、戦ったのではない。両親の、そして一族の期待に応えるために死喰い人になったレグルス。殺される半年ほど前に唐突にアンドロメダの元を訪れた彼は、その時もう死を予期していたのだろうか。死喰い人の真の目的を知って逃げ出したレグルスは始末されたのだとシリウスの口から聞かされた。
そして、そのシリウスも逝ってしまった。
物思いに沈むアンドロメダは夫が立ち上がったことに気づかなかった。枯れ木を踏みしめたような音がさざなみのように押し寄せ、急激に大きくなる。テッドが杖を取り出し、玄関側のドアに向けながら叫んだ。
「保護呪文が破られた! 逃げろ、ドロメダ!!」
ドアが開け放たれたと同時に、テッドの杖が弾き落とされた。吸魂鬼と見紛うような黒づくめの魔法使いだ。青白い顔とは不釣り合いな、強い光を放つ目を見た瞬間、アンドロメダは息を呑んだ。
「……ベラ?」
それはテッドと駆け落ちしてから、ただの一度も会っていなかった姉だった。
武器を持たずとも敵から妻を隠そうと立ち塞がったテッドを壁に叩きつけると、ベラトリックスは狙いをアンドロメダに変えた。
「久しいね、アン……クルーシオ!」
「アァァァッ……!!」
全身を幾千もの針で刺されるような痛みに、アンドロメダはのたうち回った。テッドは凄まじい悲鳴を上げる妻を庇おうと、血が流れ出た額を押さえながら、なんとか立ち上がろうとしていた。
「やめろ! 妻に何を」
「黙れ、【穢れた血】が! クルーシオ!」
今度はアンドロメダが夫の悲鳴を聞く番だった。標的が逸れたことで分断された思考が戻り始める。狭くなった視野が少しずつ開けてくると、この家を訪れた侵入者はベラトリックス一人だけなのが分かった。少なくとも今は。家の周囲を死喰い人達が取り囲んでいるのだろうか。逃げられるだろうか。杖は幸いなことにまだアンドロメダの手の内に握られている。
磔の呪いでテッドを苛みながら、ベラトリックスはアンドロメダに憎悪の眼差しを向けた。
「お前達の娘。狼男と結婚した恥知らずな娘は何処か言うんだ!」
「し…、知らないわ!」
「知らないはずがあるか! あんたの娘だろう!! 親子そろって血を腐らせた愚か者共!!」
金切声を上げて大股に歩み寄ってきたベラトリックスに杖を上げかけたアンドロメダだったが、一瞬遅かった。蹴り上げられた杖は噴出した炎を天井に浴びせただけで、ベラトリックスは無傷だ。髪を鷲づかみにされ、喉元に杖を押しつけられたアンドロメダはすぐ間近に姉の声を聞いた。
「無様な髪だ、アン……なんだ、この薄茶色の髪は」
「……ブラック家を出た時に、決めたの」
アンドロメダは家名を冠したような見事な黒髪だった。けれど、テッドと駆け落ちをした時に染め上げたのだ。何もそんなことをしなくてもと止められたが、ブラック家と決別したことを自らに言い聞かせるため。家族から呼ばれていた【アン】という愛称をやめ、【ドロメダ】に変えて。愛する家族との別離の儀式だった。
訝しげに見下ろすベラトリックスに、静かに、だが、はっきりと言った。
「私は、自分の安寧のために黒く染まらない。危険でも日の中で生きていこうと……この髪はその証。ブラックを捨てたことは後悔していない」
ベラトリックスの目が飛び出さんばかりに大きく見開かれる。次の瞬間、アンドロメダの頭は床に打ちつけられていた。
「家を裏切っておいて何て物言いだ! この恩知らずの恥さらし者!!」
続いて、また全身を蝕む鋭い痛みが襲いかかってきた。容赦ない磔の呪いにアンドロメダの意識が拡散しだした。つけっ放しのテレビの音に耳鳴りが、テッドの呻き声が混ざる。内臓を締めつけられ、血が沸騰しているように感じられた。額を流れ出したのは汗ではなく血だろうか。
一、二分か。それとも、もっと長い時間経ったのだろうか。急激に痛みが遠のいたと思うと、もみ合うような音がした。
「何故止める、ロッド! 邪魔するなッ」
床に転がったまま、アンドロメダは見上げた。ベラトリックスの他にもう一人いる。その顔には見覚えがあった――ロドルファス・レストレンジ。義兄というよりも、アズカバンに収監された死喰い人としての認識の方が強い。
「落ち着け」
「【あの方】から任せられた命を全うしようとしているだけだ!」
「今回はこの傷を負わせてくれた、お前の姪の行方を追うためにきたんだ。アンドロメダを殺して何になる。昔は仲のいい姉妹だったんだろ」
ロドルファスの左足は、膝下から厚みがなかった。呪いで失われてしまったのだろうか。床についたステッキで、どうにかバランスを保っているといった風だ。こけた顔つきは年齢以上に彼を老けさせているようで、アンドロメダを見下ろす目からは何の感情も読み取れなかった。
ベラトリックスは床を踏み鳴して叫んだ。
「こんな女……! もう妹なんかじゃない!!」
「また後悔する気か? 両親の時のように……それにシリウスの時のように」
「うるさい、黙れッ!」
「どう…、いうこと……まさか、お父様とお母様を襲ったのは」
か細いアンドロメダの声に、ベラトリックスは幾分冷静さを取り戻したようだ。底冷えのするような笑みを浮かべ、
「ああ。あんたは知らなかったかね、アン……忘れていた。シグナスは【あの方】に従順ではなかった。だから、長子の私が家督を譲り受けるために死んで頂いたというわけさ」
「なんて、こと……血の繋がった両親を? 何故そんなことができたの……?」
アンドロメダは両親の死を日刊預言者新聞の死亡広告で知った。葬儀の出席も、墓参りも無論できるはずがなく、一人涙を流すほかなかった。それが、苦しみを分かち合うはずの姉が、両親を殺した? ベラトリックスは死喰い人になり、数々の悪事を働いた。それでも、実の親を殺すなんていうことがありえるのか。けれど、シグナスと…――父親を他人のように呼んだ。
呆然とつぶやくアンドロメダに、ベラトリックスは杖を向けた。
「私の【父】はただ一人。【あの方】の望みを叶えるためならば、なんだってできる」
「ベラ。俺は、お前が傷ついていくのをもうこれ以上見たくない」
死の呪いを紡ごうとしたベラトリックスの口が引き結ばれる。ベラトリックスは杖の狙いはそのままに叫んだ。
「私は【あの方】のためなら何でもできる! 誰だって消す! 邪魔するなら……お前だって殺してやるッ!!」
アンドロメダは姉の顔が一瞬見慣れた表情に変わるのを見た。どうしようもない事態に遭遇した時。後に退けない時に、彼女は決まってこんな顔をしていた。間違っていることが分かっていても、自らを奮い立たせて向っていった。
ロドルファスも杖を取り出した。ベラトリックスは一瞬矛先を変えるか迷ったようだが、その必要はなかった。何故ならばロドルファスの狙いはアンドロメダだったのだから。
「どうしてもアンドロメダを殺すのなら…、それなら俺がやる」
ベラトリックスは笑い出した。うつむいた拍子に長い髪が垂れ落ち、隠れてしまった顔は分からない。けれど、彼女は泣いているのではないか…――アンドロメダは何故かそう思った。
「……そんな身体で死の魔法をかけられるか、馬鹿。帰るよ、ロッド」
「お気遣いありがとう、ベラ」
炸裂音と共にベラトリックスとロドルファスの姿が消えた。【姿くらまし】したのだろう。しばらく経っても新手が現れないことを確認し、アンドロメダは身体を引きずれながら夫の近くまで這っていった。浅い呼吸を聞きつけ、なんとか難を逃れたことを知った。殺されなかったことは奇跡に近い。けれど、その幸運よりも両親の死の真相がアンドロメダの心に重く圧し掛かり、苦しめた。
(2013/04/15)