真の愛には恐れなし

 すっかり明るくなった大広間の天井には、珍しく雲一つない晴天が映し出されていた。闇の帝王が復活して以来、魔法界を覆っていた不穏な空気が一掃されたことを象徴するかのように。
 どうやら少し寝入ってしまったようだと思いながら、ジニーはそっと目を開けて隣りにいる母を見た。
 モリーは【生き残った男の子】の勝ち鬨が上がった瞬間から、糸が切れた人形のようだった。ハリーの側に駆け寄るでもなく、フレッドの遺体のところに向かうでもなく。そっと手を握ると、虚ろな目がジニーを見返してきた。ヒクリと口元が動いたのは、なんとか微笑みを見せようとしたのかもしれない。母の疲れが極限に達しているのをジニーは感じ取った。医務室はおそらく怪我人で一杯だろう。寮のベッドで休ませてあげた方がいいかもしれない。そう思い、立ち上がった時だった。

「あれっ? ウィーズリーさんじゃないですか!? すごかったですね、ベラトリックス・レストレンジとの一騎打ち! まさか、あの百戦錬磨の魔女を仕留めるなんて、あなたも大したもんだ!」

 人のよさそうな笑みを浮かべながら近づいてきたのは初老の魔法使いだった。母の姿を隠すように、ジニーは間に割って入った。声をかけてきた魔法使いに、怒りとも似た感情を覚える。
「失礼。母はひどく疲れているので、そっとしておいてください。ママ……行きましょう」
 モリーは言われるがままに立ち上がり、大人しく娘に手を引かれた。自分よりも遥かに背が高い息子達を、ほんの一声で震え上がらせていた母が、まるで幼い子供のように。
 ジニーの言葉を聞いていないのか、それともお褒めの言葉を聞かせたい一心なのか、初老の魔法使いは後を追ってきた。
「いや! お嬢さん、あなたの働きも見事なものでしたよ。まだお若いのに勇敢で。ポッターさんの恋人と噂されていますが、彼もきっと」
「黙って!」
 鋭い声と、反射的に向けてしまった杖に大広間中の視線が集中した。戦いはもう終わったはずなのに、と怯えたような目。責める目。向けられた相手はといえば困惑したまま、戦う意思はないとばかりに両手を挙げている。
 死線をくぐり抜けて掴み取った勝利の興奮から、夜通し騒がなくては気が済まない者も少なくなかった。喜びの気持ちは無論ジニーにもある。最愛の少年が生き延びたこと。もう誰の命も理不尽に奪われることがないこと。けれど、この平和への代償はあまりにも大きい。フレッド、リーマスにトンクス、それにコリン…――命を落とした人々の亡骸の中に、見知った顔をいくつも見た。怪我を負った人も少なくはない。癒える傷ならばいいが、以前ジョージが傷つけられたように、正体不明の呪いで生涯後遺症を負う人もいるだろうと思う。だからこそ、明るい声音には耳を塞ぎたかった。
 繋いだ手をそっと外すと、モリーはジニーの手から杖を取った。初老の魔法使いに頭を下げながら、
「娘の非礼を詫びますわ……私ども、家族を失ったばかりでして。この子の兄で……気が立っていたんです。本当に申し訳ないことを……」
「……ぁ、いや、そうとは知らず。こちらこそ申し訳ない……」
「ジニー!」
 長テーブルの間の狭い通路を、できうる限りの速さで駆け寄ってきたアーサーは、息を切らしながら娘と妻を見た。それから初老の男性に向き直り、モリーと同じく深々と頭を下げた。
「娘が喜びに水を差すような真似をしてしまって申し訳ありません、ミスター。けれど、近しい人を喪った人の思いもどうか汲んでやってください。ただ、歓喜に浸ることができない人も、ここには大勢いるのです」
 穏やかに、けれどきっぱりとそう言うと、アーサーは長身を屈めてモリーを抱き締めた。戦いの最中でバサバサになった母の髪を、愛しそうに何度も撫でる父の姿を見ていると、何故か涙がこぼれ落ちそうになった。ジニーは身を翻し、大広間を駆け抜けた。

 誰もいないところに行きたいと思っているのに、そこかしこに人はいた。何の考えもなしに人の少ない方へと足を向けているうちに、ジニーはある小部屋の前に辿り着いていた。近辺に人がいないのも無理はない。何故なら、そこは例のあの人――ヴォルデモートの遺体が安置されている部屋なのだから。ハリーに放った死の呪いを撥ね返され、亡くなったことを確認された後も恐れられているのだ。ハリーに稲妻形の傷をつけて消え失せた時も、死の淵から甦った。また同様のことが起きるかもしれないと。ジニーも、また小部屋のドアを開けることをためらった。けれど、それは彼が亡者のように甦ることを恐れたからではない。
 狭い部屋の中央には簡素な棺が置かれていた。敵方の他の死者と違って棺に納められてるのは、決して彼を悼む気持ちからではない。姿が見えるのさえ厭わしいからだろう。
 ジニーはゆっくりと棺に近づいていった。顔側に設けられた窓を開けて覗き込むと、白目を剥いたままの顔が飛び込んできた。蛇を思わせる平坦で人間離れした顔に、ジニーはゆっくりと手を伸ばす。白い面は固く、ひんやりとしていた。
「トム……」
 掠れた声で、かつての彼の名前を呼ぶジニーの胸には湧き上がる思い出があった。日記帳に宿っていた、トム・リドルの魂と過ごした一年間のこと。そして、密やかに戻ってきた彼はジニーの中の【決して消えない感情】に取り憑いた。それから築いた秘密の二年間。兄妹のような関係から恋人に発展するのは、二人にとってごく自然な流れだった。
 ジニーは見開いたままのヴォルデモートの目にそっと手を当てた。けれど、強張ったまぶたは頑として下りない。ジニーは唇を震わせた。
「兄のフレッドが死んだわ。たくさんの人が、命を落としたの…――あなたのせいで。どうして、こんな戦いをしなければならなかったの? あなたはとても優秀な魔法使いだった。あなたに流れるマグルの血は、あなたを貶めてなんかいなかった。なのに、どうして血で価値を決めようとしたの? そう、あたしと逢った時もそうだったね……記憶のあなたじゃない。五十年前のあなた」
 ジニーは憂いの篩とタイムターナーの作用で、遠い昔に過ぎ去ったはずの世界に迷い込み、そこで記憶ではない生身のトム・リドルに逢っていた。彼は未来からやってきたジニーに並々ならぬ興味を抱いたが、特にウィーズリー家の純血の血筋に執着していた。ジニーが無意識下で使った魔法からゴドリック・グリフィンドールの末裔なのだと見当をつけて、自分のものにしようとした。なんとか元の時代に帰ることができたのは、ひとえに記憶のリドルが身を挺して護ってくれたからだ。
 けれど、記憶のリドルも、もういない。たった一つのジニーの言葉が、永遠に彼を消し去ってしまった。
「もしも、あなたの記憶と出逢っていなかったら……あたしはきっと思う存分、あなたを憎めた。大切な人を突然失うのは、とてもつらいことだわ……あたし達は永遠に見つからないピースを探し続けるの。似てても、代わりなんか絶対に見つからないの……見つからないのに」
 ヴォルデモートの見開いたままの目から一筋の涙が伝った。自分の涙がこぼれ落ちたのだと気づいて、ジニーは目を瞑った。ローブの裾で目元を拭うと、ぼやけた視界が鮮明さを取り戻していく――皆が名前を呼ぶことすら恐れた、恐ろしい魔法使い。
「もう怖くない……それはあなたに対しても同じだった」
 かつて愛した少年を奪った魔法の言葉を、ジニーはもう一度紡ぐのだった。

(2021/6/20)