洗礼の接吻

 身体を蝕んでいた強い痛みが少しずつ薄らいでいく。両手を握った息子達の顔、ハンカチで目元を押さえた娘、泣きじゃくる孫達の顔…――その一つ一つの輪郭がおぼろげになっていくのを感じながら老女は目を瞑った。悲しみの声が室内に満ちる。老女の横たわるベッドを囲んで近しい家族達が慟哭する様に、赤毛の少女が振り返る。彼女は唐突に現れたのだったが、その場にいる誰もが不審の目を向けない。まるで、少女が透明人間のように。
 少女は開けっ放しになった部屋を抜け出て、駆け出した。庭を、草原を、せせらぐ川を渡って。景色は信じられないような速さで視界を走り抜けていったが、少女は息一つ弾ませない。いくつもの昼夜を巡って、ようやく足を止めた彼女の前にはプラットホームが広がっていた。振り返れば、紅の車体があった。ホグワーツ特急とよく似た蒸気機関車だ。何故ここに。浮かんだその疑問は、すぐに打ち消された。
「ジニー」
 優しく呼びかける、その声。クシャクシャの黒髪の少年が駆け寄ってきて、抱き締めた。
「ハリー。会いたかった」
 四年前に死に別れた夫の抱擁で、ジニーは理解した。自分は家族に見守られながら命を終えたのだ。
 ジニーは少し身体を離して、まじまじとハリーの顔を見た。稲妻形の傷跡も、アーモンドを思わせるきれいな弧を描く緑の目は変わらないが、四年前の夫とは違ってシワも白髪も一つもない。それに身に着けているのはホグワーツの制服ではないか。ヴォルデモートと最後の戦いをした頃の姿だ。
「あなた、若返ってる」
「そうだね。でも、君は僕よりもっと若返ってるよ。十二、三歳の頃の姿だ」
 言われてみると目線がおかしい。彼は大分腰を屈めて自分を見つめているではないか。何気なく見つめた小さな左手。その薬指には結婚指輪もない。困惑するジニーに、ハリーはそっと言った。
「死への門は人それぞれなはずなのにね。皆、ホグワーツ特急から降り立ってくるんだ」
「皆……?」
「そ、皆。君のお父さん、お母さん、兄さん達……さあ、行こう。改札口を出れば、また懐かしい人達に会えるよ」
 頷き、ジニーはハリーの手を取った。その時、何処かから泣き声が聞こえてきた。いや、泣き声ではないのかもしれない。風の音と勘違いをしたのかも…――けれど、引っかかるものがあった。
 足を止め、辺りを見回すジニーに気づき、ハリーは少し離れたところにあるベンチを指差した。
「君には言ったことがあるね。ヴォルデモートの魂が、ここにいる。生の世界には留まれず、死の世界にも踏み出せずに、ただここで泣いているんだ」
「そう。分かたれた魂を元に戻すのは深い悔恨……そう言ってたよね」
 ジニーはハリーの手を離し、ベンチに近づいていった。しゃがんで、ベンチの陰で震えたその生き物の見つめる。大きさはヒトの赤ん坊とそう変わらないだろう。けれど、皮膚がない剥き出しの赤黒い肌のソレは醜悪としか言いようがない。
「久しぶりだね、トム」
 ソレはジニーの語りかけにも何の反応も示さない。ただ哀れっぽい泣き声を漏らすばかりだった。
 ハリーはジニーの肩をつかんだ。この世界ではヴォルデモートがどんな危害も与えられないと分かっていても、愛する妻と忌まわしい生き物を近づけたくなかったに違いない。
 ジニーはハリーの手をそっと外した。
「ハリー、あなたに話したいことがあるの。ずっと胸にしまっていた、大切なこと」
「それって君がリドルを好いていたってこと?」
 ジニーは目を見開いたが、すぐに頷いた。
「そう。私の初恋だった……憧れじゃない、本当の意味でのね」
「でも、あいつはそんな君の気持ちを踏みにじった。【秘密の部屋】で君を殺そうと」
「違う。その時じゃなく…、あの事件の後。日記帳が私の手元に戻ってきたの……彼の魂と一緒に」
「……そんな、わけないだろ。バジリスクの牙はホークラックスを破壊する。あいつが復活できるはず」
 ハリーの顔に動揺が走るのをジニーは申し訳ない思った。夫には一生言うまいと思っていた秘密を告げるのだ。結婚して互いに全てを共有してきたというのに、これだけの秘密を抱えてきた事実にハリーはどれだけ傷つくだろうか。
「他の魂とは違って日記帳だから、だったのかな……私もどうしてかはよく分からない。でも、トムは生き残っていた。日記帳を捨てて、私に取り憑いた……私の中の、決して消えない感情に取り憑いたって言ってた」
「どうして言わなかったんだ。僕に…、ダンブルドアに」
「消されるのが怖かったの。馬鹿だって言われるかもしれないけど、彼のことが好きだったから」
 ハリーは口をつぐんだ。重苦しい沈黙の中、相変わらず憐れみを誘う生き物の鳴き声が響いていた。
 額の傷が痛むのだろうか。ハリーは傷跡を押さえ、一声うなった。
「ヴォルデモートは愛情を理解しようとなんかしない」
 ジニーは膝をついたまま、ハリーを見上げた。
「ねえ、ハリー。多分、私はあなたよりも彼を知ってる。ヴォルデモートは愛情を理解しようとしなかったんじゃない……理解できなかっただけ。彼が取り憑いた私の中の感情って、なんだったと思う?」
「さあね。ジニーの好意にでもつけ込んだんじゃないの?」
 投げやりなハリーに首を振り、ジニーは続けた。
「ううん、違う。好意は揺らぐから……あの事件の後、私がまだ彼を好きだったとは思わなかったみたい」
「じゃあ、何」
「恐怖。私がトムに抱いていた恐怖……事件が終わってから、ずっと暗闇が怖かった。トムのことも好きだと思いながらも、怖い気持ちも何処かにあった。でも、消えてなくなったの。恐怖と一緒に、私に取り憑いていたトムの魂は。
 過去のトム・リドルに会ったの。五十年の時を越えて。彼は私が一緒に過ごしたトムとは違った。私に関心を持ったけれど、その時はあくまでも純血で自分の望む力を持ったという理由だけだった。その彼に対峙した時、トムは私を命がけで守ってくれた。それこそ、自分の命を賭して守ってくれたの。
 彼が消えたのが信じられなかった……どうして『もう怖くない』なんて言っちゃったんだろうって。でもね、ハーマイオニーが言ってくれたの。真の愛には恐れなしって。私がトムを本当の意味で愛したから、恐怖がなくなった……だから、消える瞬間のトムは幸せそうだったんだろうって」
「そいつに触るなッ!」
 ジニーはかまわず両手を差し伸べ、その醜悪な生き物を抱き上げた。見た目よりもよほど軽く、間近で見るほどにおぞましかったが、ジニーは表情を変えなかった。腫れたまぶたの合間から覗く目が、おそるおそるジニーを見る。ソレを胸に抱くと、ジニーはベンチに腰かけた。嫌悪感丸出しのハリーに、ジニーは言った。
「ハリー、あなたも彼を救おうとしたでしょ。後悔を促した。違う?」
「君は何を」
「私も彼を救いたい。愛情を知らずに育ったこの子の母親になりたいの」
「子供達なら、あの可愛い三人で十分じゃないか! 僕の両親を…、シリウスやリーマス、トンクス、それにフレッドと早くに別れてのだって元はといえばコイツのせいなのに!!」
「ねえ、ハリー。あなたとトムは境遇が似ていた。でも、どうしてトムは世界を恐怖に陥れたと思う? 何故あなたのように生きられなかったの?
 お母さんが命を懸けてハリー、あなたを守った。愛したから、あなたは第二のヴォルデモートにならなかったのだと思うの。トムは母親の存在を知らなかった……それどころか愛の妙薬でつくられた子供だった、のよね? あなたは度々両親の愛を感じて生きてきたでしょう。でも、トムは? こうして、ここで恐怖を抱えてうずくまっているのに迎えにきてくれる母親もいない」
 もしもトム・リドルが母親の愛を感じていたら…――ジニーはずっと考えずにはいられなかった。おそらくはリドルの母親も彼を愛してはいたのだろう。けれど、それは無償の愛だったのか? 虐待されていた哀れな女性だったという話は聞いた。そこから抜け出し、美しい家庭を創り上げたかったのだろうと思う。けれど、愛の妙薬を使って夫を手に入れ、その子供に望んだことが『この子がパパに似ますように』だけだったと聞いた。リドルの母親が求めたのは父親に似た子供であって、子ども自身ではなかったのだ。
 そう、多分ずっと負の連鎖だったのだろう。愛情を感じられずに育った人だから、愛情を正しく伝えられなかった。
 ジニーは泣き止んだソレにそっと語りかけた。
「トム。覚えていない? 記憶だけじゃない。本当のあなたとも会ったことがあるの。でも、きっとヴォルデモートと名乗った後もあたしのこと、覚えてたはずよ。ホグワーツで会った時、それを感じたの。
 憂いの篩を設置したのは、あなたね? あたしとの思い出をあの部屋に封印してたんだろうって……ずっと後になってから分かったの。たった一日の思い出をどうして苦々しく思ったの? 多分、あなたはあたしに愛情を抱くのを恐れたんじゃない? あなたの魂の一つがあたしを愛してくれたように、あなた自身もそうなってしまうことを恐れた……そうよね?
 愛情を持つのは弱くなることじゃないの。逆に愛することで、誰かを守りたいって思う気持ちが芽生える。強くなれるの……三人の子供を持って、しみじみと感じた。ねえ、トム。一緒に行きましょ。こんなところで寂しく泣いてないで。あたしと一緒に。もう大丈夫だから……一人にしないから」
 ソレを抱き締め、額に口づけた瞬間だった。醜悪だった赤ん坊の姿が変身術をかけたようにグニャリと融けたかと思うと、見る間にとてもきれいな顔立ちの赤ん坊が現れた。パッチリと見開いた目は見覚えのある紅茶色で、トム・リドルその人であることは疑いようもない。ジニーのことは認識できているのだろう。笑いかける赤ん坊に思わず頬ずりしたジニーに、ハリーは大きな溜め息を一つ吐いた。
「君って人は! 言い出したら聞かないんだから」
「そんなところも好きになってくれたんでしょ?」
「まあね。そんな君の強くて、優しいところが大好きなんだ……じゃあ、参りますか。第二の子育て人生が待ち受けているんだな」
 何処から取り出したのか温かな布を差し出した夫に、ジニーは顔を綻ばせる。赤ん坊をくるむと、ジニーは立ち上がった。改札口の向こうからこぼれる白い光を目指して、ゆっくりと歩き出した。腕の中には赤ん坊と、肩を抱き寄せるハリーの温度を感じながら。

(2013/12/03)