空<カラ>の世界

 白い世界だった。遠く地平線が見えるほど、一面の広い世界。何の音も聞こえず、虚無そのものだ。
 【彼】はいつからここにいるのか分からなかった。どうして、ここにいるのか。それすらも分からない。けれど、空腹に苦しむこともなく、一抹の淋しさを抱えることもなく、静かにその場に在り続けた。

 ある時、一人の青年が現れた。やって来た、ではない。最初からそこにいたかのように、するりとその空間に抜け出してきたといった風だった。背の高い黒髪の青年だ。それに印象的な目をしている。日没後の残光と群青色の空を閉じ込めたような不思議な色合い――懐かしい、と思った。そして、その言葉の意味を考える。いつか、何処かで逢ったことがあるのだろうか。
 青年は何か話しかけるでもなく、ただ側に佇むばかりだった。朝晩もなく、時間という概念のない世界で 【彼】に寄り添い、いつの間にか溶けるように姿を消す。こうして青年がこの白い世界に現れるのは一度や二度ではなかった。何もない白い世界にある、ただ一つの変化だった。

 いつかの時に【彼】は問いかけてみた――あなたは、だれ? 青年は嬉しそうでもあり、何処か戸惑った風でもあった。
「ブラック…――レグルス・ブラックだ」
 レグルス・ブラック。おうむ返しする【彼】の口振りには何の感情もこもっていない。その名前は何かしらの感情を呼び覚ますに違いないと思ったのに、期待外れだった。
「君は、自分が誰なのか分かるかい?」
 【彼】は答えなかった。レグルスは【彼】を…――たゆたう光のたまを、目を細めてじっと見つめる。
「君はバーテミウス・クラウチ……父親を殺し、幾多の犠牲を出した咎で吸魂鬼の手にかかった」
 バーテミウス・クラウチ。父親。吸魂鬼。聞き覚えのある言葉だった。けれど、やはりそれらも心の奥底にさざなみを立てることはない。
「君の魂を喰らった吸魂鬼が散ってから、君の断片は少しずつこの世界に集まり始めた……けど、完全じゃないんだね。闇の帝王は死んだ。君が手にかけようとしたハリー・ポッターも天寿を全うした。縁者も絶え、永い年月が流れたっていうのに」

 それからレグルスが姿を現した時は、一言二言だが言葉を交わすようになった。というよりも浮かんだ疑問をポツリと漏らすと、仔細を語ってくれるといった具合だった。聞き覚えのある単語を拾いながら、【彼】は少しずつ自分が何者であるのかを理解していった。
 父親と同じ名前のバーテミウス・クラウチ。魔法使いの純血の旧家クラウチ家の一人息子。父親に恥じないよう、優秀な成績を保つ努力をしていたこと。けれど、父親は時を経るほど自分に無関心になっていった。首席になっても認めてはもらえなかった。だから、自分を認めてくれた闇の帝王の元に下った。仲間達と闇の帝王の手足となって働き、彼が姿を消した時には探しだそうとし、ロングボトム夫妻を拷問し、挙げ句実の父親の手によってアズカバンの監獄に送られた。
「でも、君の父親は後悔していた……ここで会ったミスター・クラウチは、全て自分が悪かった。君に謝りたいと言っていた。多分あの人は、君のことをちゃんと愛していたんだと思う。忙しさの中、それを君にしっかりと伝えられなかったんだ」
 レグルスは慰めるようにそう言ったが、やはりどんな感情も芽吹かない。沈黙で返す【彼】に気を悪くした様子はなく、優しく別のことを言った。
「大分記憶は取り戻してきたみたいだけれど、自分の姿は思いだせない?」
 記憶を取り戻したわけじゃない。話してくれたことを少しずつ整理していっただけだ。そう伝えようとして、やめた。レグルスの目を失望させたくないと思ったことを、少しだけ不思議に思った。

 邂逅を繰り返し、どれだけ経ったか。黒髪の少年が現れた時に【彼】は初めて「ブラック」と名前を呼びかけた。いつも見ている彼よりずっと幼い姿をしたレグルスは、今にも泣きだしそうに見えた。
「君とはじめて会った時のことを考えていて……気づいたら、この姿になっていた。
 あの日、コンパートメントに一人きりで居心地が悪かった。そこに君が入ってきてくれた。嬉しかったんだ……君も同じく緊張していて。家のために全てを捧げようとする姿が、自分と似ていると思った。友達になりたいと、そう思ったのに」
「でも、君はアイツらを選んだ」
 【彼】は――いや、バーテミウスは口をついて出た言葉に驚いた。記憶と感情が堰を切ったように一挙に押し寄せる。光のたまでしかなかった彼の身実が、この場にあった。初めて見るもののように自身の両手を見つめ、呆然と立ち尽くす。
 レグルスは唇を震わせていたかと思うと、ガバッと彼に抱きついた。そのあまりの力強さにバーテミウスは体勢を崩し、尻もちをつく。レグルスはいつもよりずっと幼い姿をしているとはいえ、今のバーテミウスは彼よりもずっと華奢な身体つきだ。おそらくレグルスと初めて会った時の姿なのだ。
「ごめん……! ずっと後悔してた……どうして胸を張って君に味方しなかったんだろうって。シリウスなら、きっと君と一緒になって戦ってた。勇気を出せなくて、君を傷つけた……ずっと謝りたかったんだ」
「……どけよ、ブラック。重い」
 向き合った顔はクシャクシャで、真っ赤になっている。大粒の涙を流すレグルスにうろたえながら、バーテミウスは彼の身体を押しやった。
「お前……本当にブラックか? こんな風に泣いたりするなんて、完璧なレグルス・ブラックらしくない」
「完璧な人間なんていない。何度も言ったじゃないか……さあ」
 涙を拭うと、レグルスはサッと手を差しだした。バーテミウスは怪訝な目で、手の中にある見えない何かを見ようとした。気づいたレグルスは声を立てて笑う。
「改札口を出て、先に進もう。今度は一緒に」
「ここは……プラットホーム? さっきまでいた、あの白い世界は?」
 白い世界は覆いが取れたように、人気のないプラットホームに変わっていた。鮮やかな紅色の蒸気機関車はホグワーツ特急だ。ふらふらと蒸気機関車の方へ行きかけたバーテミウスの手を、レグルスが強く引き戻す。
「戻れないんだ、あちらには。君はあの汽車に運ばれて、ずっとここにいたんだ。吸魂鬼に魂を奪われ、記憶も何もなかったから……だから、白い世界に見えていたんだね」
 魔法使いは皆、命を終えるとホグワーツ特急を降りてここに来る。死後の世界の入り口が共通した見え方なのは、それだけホグワーツでの生活が人生に大きな影響を与えるからだろう。そして改札口を抜けて、それぞれの世界へと向かっていくのだ。ここに留まるのはバーテミウスのように自分の存在を忘れてしまったり、魂に著しい損傷を負ったものくらいだとレグルスが語る。
「君はどうして僕につきあったりしたんだ。放っておけばよかったのに……僕は、嫌なヤツだったろう。君が僕より優秀なことが許せなかった。どれだけ努力しても、軽々と上をいかれるような気がしてたんだ。それに…、それに君は誰からも好かれていた。クィディッチだってシーカーを務めてた……君の周りはいつも眩しいくらいに輝いていて、妬ましかった。君のせいで父に認められないと……そう思っていたから」
 何度か言葉を詰まらせながらも、バーテミウスは胸の奥底にしまい込んでいた思いを吐露した。口を挟まずに聞いていたレグルスが、ゆっくりと首を振る。
「君が僕を嫌っているのは知ってた。でも、君を嫌いになったことは一度もない。だって、君は本当に俺とよく似ているから。君が俺に持っていたのと同じ気持ちを、俺は子供の頃から兄に感じてた。だから自分を責める必要なんかない」
「僕は……僕も、君とは友達になりたかった。だから、あの時コンパートメントの中に入ったんだ‥‥‥」
 消え入りそうな声だったが、レグルスの耳にはしっかりと届いたようだ。
「行こう、バーティ。今度は一緒に」
 バーテミウスは顔を真っ赤にして、頷いた。手を繋いだまま、二人の少年は足早に改札口へと向かう。【その先】の世界は霞がかっていて見通せないが、固く手を握り合った二人の足取りは軽かった。

(2021/07/20)