痛みが引いた境界線

「つまんない」
 天井を睨みつけながら、少年は一人ごちた。不満げに尖らせた唇が愛らしい。
 年の頃は五つかそこら。まだ幼いながらも人形めいた整った目鼻立ちをしている。蝋のように白い肌を引き立てるモス・グリーンのローブはいかにも上等で、襟元から裾にかけて金糸の刺繍がなされている。合間から覗くフリルのついたシャツや、鈍い光沢のあるショート・パンツ、すんなりと伸びた足元を飾るバックルつきの洒落たブーツなどからも、この少年がいわゆる貴族階級に属することは見て取れた。
 少年の名はドラコ・マルフォイ。魔法界に数百年の歴史を誇る純血の名門、マルフォイ家の嫡子である。
 ドラコはむっつりとしたまま部屋中を歩き回った。薄緑を基調にしたその部屋は子供用の室内箒やら、ドラゴンの模型、角度によって様々なものに変化して見える立体式のパズルなど、子供の喜びそうな玩具で埋め尽くされていた。けれど、ドラコはそれらのただ一つとて手に取らないばかりか、苛立たしげに蹴り飛ばしていった。
 ドラコの不機嫌の理由は母親の不在だった。友人に招かれたとかで、父親が母親を連れ立ってでかけてしまったのだ。普段から家を空けがちな父親がでかけても特に何も感じないのだが、母親の姿が見えないのが幼いドラコには寂しかった。
 マグル界同様、イギリス魔法族の上流階級では普通母親は育児にほとんど関わらない。生まれたての赤児に乳を与え、育てるのは乳母であり、成長した子供に教育するのは家庭教師の役目だ。けれど、ここマルフォイ家では夫人自らが采配を振るっている。
 魔法界の王族ともいえる最古のブラック家の末娘ナルシッサは、病的なまでに細い体つきをした儚げな少女だった。学校を卒業してほどなくルシウス・マルフォイの元に嫁いだ彼女はなかなか子供に恵まれなかった。そして数年後ようやくドラコを身ごもったものの、ひどい難産となり、母子共に命は助かったものの二度と子供を産めない身体となってしまった。
 そのせいもあり、ナルシッサは片時も離さぬほどドラコを可愛がり、ドラコもまた母親が側にいる生活に慣れきっていた。
 屋敷から遠ざかる馬車の音に、最初ドラコはワクワクしていた。自分一人ですごす時間は覚えている限り初めてだったからだ。だが、使用人達は黙々と与えられた仕事だけに励み、誰も幼いドラコと話をしようとしてくれない。そうなると、いつも通りの生活が恋しくなる。
 乗馬の練習でもして気を紛らせようとホールに通ずる階段を下りていくと、眉をつり上げた執事が駆け寄ってくる始末。
 「まだ坊ちゃまはこんなに小さくていらっしゃるのですから」――使い古したセリフを努めて優しく言おうとする執事の顔を思いだして、ドラコは舌を突きだした。
(なにが、まだちいさくていらっしゃる、だ。いつまでもこどもあつかいして! ぼくがトウシュになったら、あんなやつクビにしてやるっ)
 側にあったボールを苛立ち紛れに蹴り飛ばすと、ドアに当たって派手な音を立てた。そして…――
「ひッ」
ドアの向こう側から甲高い悲鳴。一呼吸置いて何かが倒れる音がした。
(なんだ?)
 駆け寄り、ドアを開けると、ドラコは固まった。見たこともない妙ちきりんな生き物が目の前にいたのだ。
 醜い子供みたいだ。そう思ったのは、頭は成人したヒトと変わらないくらい大きいのに、身体が異様に小さかったためだ。だが、ヒトの姿とはまるで違う。しなびた老人のような肌は黄褐色。手足は細く、骨の上に申し訳程度に皮が張っているといった印象を受けた。ボロ雑巾のような布を一枚まとった姿は汚く、みすぼらしい。
 まじまじと見つめていると、ソレはドラコの方を向いた。満月のような黄色い目が、さらに見開かれる。
「ドビーめは掃除をするためにきたのでございます! わざと声を上げたのではないのでございます! ああ、姿を見られるなんて……ドビーは悪い子、ドビーは悪い子ッ!!」
 呆気に取られているドラコの前で、あろうことかソレは壁に頭を打ちつけ始めた。ゴス、ゴス、ゴス…――規則的に鳴り響く音の中、ドラコは開いた口が塞がらなかった。
 荒い息を吐きながら頭突きをやめると、ソレは膝をつき、ペタンと頭を垂れた。額には血がにじみでていた。
「お許しください! ドビーめは坊ちゃまがいることを存じなかったのでございます。本当でございます!!」
 ぶるぶると全身を震わせながら必死に訴えるソレに、ドラコはようやく我に返った。
(なんだって? いま、こいつはなんていった? ぼっちゃま?)
「おまえ……なんなんだ? なんで、ぼくのいえにいるんだよ?」
 この妙な生き物が人語を解することにも驚き、ドラコはおそるおそる訊いた。パッと顔を上げたソレに一歩後退る。いきなり飛びかかられやしないかと不安になったのだ。けれど、ソレはぴょこんとお辞儀とも取れる仕草をしただけだった。
「ドビーめは屋敷しもべ妖精でございます。代々マルフォイ家のご主人さまにお仕えしているのです」
「……おまえみたいなヤツがウチにいるなんてしらなかった」
 正直にそう言うと、
「いい屋敷しもべは姿を見られないように仕事をするのでございます。ドビーも普段はご主人さまや他の魔法使いの方々に見られぬよう気を遣っていますのに……」
「おいっ、やめろよ!」
 再び壁に頭を打ちつけようとするのを慌ててとめると、丸い目をさらに丸くしてソレはドラコを見た。
「何故とめられるのです?」
「なぜって……いたいだろ、そんなことしたら。じぶんでそんなことするなんてバカじゃないのか、おまえ」
 言っていることの意味が分からないのか、ソレは小首をかしげた。
「屋敷しもべが自分で自分を罰さねば、ご主人さまに余計な手間を取らせてしまいます。だから、いい屋敷しもべは罰せられるようなことはいたしません。どうしてもしてしまった時は、自ら罰を与えるのです」
 そうして再び壁を向くソレに、ドラコは思わず叫んでいた。
「そうだ! おまえ、ぼくとあそべよ。ちょうどヒマだったんだ」
 確かに退屈ではあったが、こんなわけの分からないモノと遊びたいと本心から思ったわけではない。けれど、ソレが自分を罰するのをこれ以上見ていられなかった。そして、ドラコは何がなんだか分からないながらも、ソレが哀れに思えてきたのだ。楽しく遊べたら、ソレも少しは慰められるに違いない。そう思って口にした言葉だった。
 だが、ソレはヒッと息を呑み、たじたじと後退っていった。
「め、滅相もございません! ドビーめは坊ちゃまとそんなことをできる身分ではございません!」
「いいから、こいって。めいれいだぞっ」
 命令の一言にソレの尖った大きな耳がピクンと動く。手招くと、足音を忍ばせながらドラコに続いておそるおそる部屋の中に滑り込んだ。
「おい」
 声をかけただけでビクンと飛び上がるソレにドラコは呆れた。
「おまえ、なんでそんなにこわがりなんだ?」
「ド、ドビーめは小心者なのでございます、坊ちゃま」
「ショウシンモノ? まあ、いいや。おまえ、いつもなにしてるんだ?」
「はい、主に屋敷の雑用でございます。火の始末や、お部屋の清掃。ドビーめはこの屋敷にいる屋敷しもべの古株ですので、ごく稀に旦那さまの所用を仰せつかることもございます……が、ドビーめは」
 ハッと言葉を切ったソレは気まずそうに目線を落とした。
「ドビーめはいつも失敗ばかりする、役立たずの屋敷しもべなのでございます」
「げんきだせよ。いっしょうけんめいがんばれば、きっとほめてもらえるさ」
 ドビーはパチパチと目をまたたいた。大きな目にこれまた大粒の涙が競りあがってきたかと思うと、膝を抱えてワッと泣きだした。
「坊ちゃまは…! 坊ちゃまは、なんて偉大な魔法使いなんでしょうか!! ドビーめはそんな……そんなことを言われるだなんて、思っても……」
「なっ、なくなよ!」
「は、はい、坊ちゃま…!」
 感極まったという声で答えると、ドビーはパチンと指を鳴らした。すると、その手の中には服(身に着けているボロ布)同様に薄汚れたハンカチが握られていた。目を見張るドラコに気づかず、思いっきり鼻をかむ。
「すっごい……」
「はっ?」
 ハンカチを丸めながら、もう一度鼻をすすってドラコを見上げる。
「なあ! いまの、どうやったんだ? つえもつかわないで、あんなことできるのか?」
 魔法使いは杖を使わなければ、せいぜい自分の身体の周囲に大雑把に魔力を働かせることくらいしかできない。自分の身体を柔らかくしたり、触れた物をふくらませたり。何もない空間から物をとりだしてみせるなんて、魔法使いには到底できない芸当だ。
 興奮するドラコに、ドビーはおずおずと言った。
「屋敷しもべは杖を使えない代わりに、いくつか魔法使いの方々にもできない魔法が使えるのでございます。例えば空間をねじ曲げて、直結させたり……」
「クウカン? チョッケツ? なんか、よくわかんないけど……もしかして、おまえ、スガタアラワシとかできるのか?」
 大人の魔法使い達がよく使う移動魔法を、この屋敷しもべとかいうヤツは使えるのだろうか。期待を込めて訊くと、
「姿現わしではありませんが、同じようなことでしたら……」
「できるのか?」
「はっ、はい」
「じゃ、ぼくをそとにつれてくこともできるのかっ?」
「坊ちゃまは外にいらっしゃりたいのですか…? で、ですが……」
 上目遣いにチラチラと見上げながら、言い澱む。大きな目が今にも飛びだしそうなほど見開き、やがてボソリとつぶやいた。
「ドビーめは坊ちゃまの願いを叶えて差し上げたい……ですが、旦那さまにしかられてしまいます。ドビーめはどうすれば……」
「ちちうえ? ちちうえはいまウチにいないし……それに、かえってきたら、ぼくのめいれいをきいただけだっていえばいいじゃないか」
「ですが」
「ああ、もう! ですが、なんていいよ、もう! つれてけったら、つれてけ!!」
 ドラコは煮え切らない態度に怒鳴りつけた。どうやら、その一言で踏ん切りがついたらしい。それでは、とドビーは汚らしい手を差しだした。
「坊ちゃま。大変申し訳ありませんが、ドビーめの手を握ってくださいませ」
「うんっ」
 なんの気なしにその手を取った途端、ドラコはゴツゴツとした感触に驚いた。見た目以上にドビーの手は骨ばっていて肉がついている感じがしなかったのだ。肌が冷たく、血色も悪いから死人のようだ。
(ぼくのとは、ぜんぜんちがう……)
 驚いて、口を開きかけた。だが、何を言う間もなく、パチンッ――ドビーが指を鳴らした途端、辺りが急速にかすみだした。透明なカーテンが何枚も、何十枚も重なっていくように、輪郭が薄れていく。ドラコは目がおかしくなったのかと、空いた手でゴシゴシとこすって、もう一度開けてみた。すると…――
「外だ……」
 ドラコはつぶやき、ドビーの手を離した。言葉通り、瞬く間にドラコの身体は広大な屋敷の外に運ばれていた。ちょうど大槍そびえる重々しい鉄門と、屋敷の正面玄関とを結ぶ小道に立っていたのだ。
 ドラコは信じられないというように、しゃがんで道に敷き詰められた砂利を手に取ってみた。冷たく硬い石の感触で、ふつふつと実感が湧いてくる。ドラコは振り返り、何処かまだ怯えた風なドビーを見て笑った。
「すごいよ、ドビー! おまえ、なんでこんなすっごいことができるのに、じぶんのことをわるくいうんだよ? つえもつかわないで、こんなことができるなんてすごいじゃないか!」
「すごい…、ですか?」
「ああ! なんでこんなちからをもってるのに、えーと……そうだ、ドクリツっていうのをしないんだ?」
「独立?」
「キュウリョウとかもらって、じゆうにやればいいんだ。じぶんでやりやすいしごとをえらべばいい」
 そうすれば失敗することも、自分で自分を罰する必要もない。そう言おうとした途端、ドビーの耳がピクンと大きく動いたのに気づいた。続いて、遠く離れた門扉が鈍い音を立てて開かれていくのが目に入る。道に敷き詰められた砂利が、音を立てて跳ねていく。
「あれ……もしかして」
 ドラコはハッとして必死に目を凝らす。すると、門側の風景が何処か歪んで見えることに気がついた。ドラコの小さな頭の中は、たった一つのことしか考えられなくなった。
「ははうえーっ」
 歓声を上げて、ドラコはそちらに駆けていった。すると歪みが突如布のようにはがれ落ち、俊足の天馬、二頭のグレニアンに引かれた黒塗りの馬車が姿を現わした。領地内に入ったので目くらまし呪文を解いたのだろう。ドラコから少し離れたところで天馬がいななき、両の前足を上げた。どうどう、と御者のいなす声が響き、やがて馬車は完全に制止した。
 まろぶように馬車から降りてきた女性は、ひどく青ざめていた。けれど、ドラコが駆け寄っていくと両の腕を差し伸べ、微笑を浮かべた。
「ははうえ、ははうえ、おかえりなさいっ」
「わざわざ出迎えにきてくれたのね? ありがとう、ドラコ。でも、これからはこんな危ないことをしては駄目よ。急に飛びだしてくるなんて……もし馬車に轢かれでもしたら、あなたの大事な身体がどうなってしまうか」
「はい、ははうえ」
 ふと落ちた影に、ドラコは目を移す。母親を脇に押しやるようにしてやってきた父親の手には、いつものようにしっかりとステッキが握られていた。先端に蛇の彫刻がついた、先祖伝来のものだ。
「ちちうえも、おかえりなさい」
 答えはなかった。
 高い位置にある父親のステッキが無造作に振り下ろされるのを見ても、ドラコは自分が打たれたのだとは思わなかった。いつの間にか地面に倒れ、額から頬にかけてズキズキと痛んでいるのが不思議でならなかった。
「あなた! 何をなさるの!?」
 母親の柔らかな手に抱き起こされながら、ドラコは父親を仰ぎ見た。光を背にしているせいで表情はよく分からない。ただ、きらめく銀髪と、同じように冷たい輝きのステッキだけが目に入った。
「君は黙っていたまえ」
 父親の声は、ヒステリックな母親の声とは反対に何処までも静かだった。
「一人で外にでてはならぬことくらい、言いつけずとも分かるだろうと思っていたが……それも、あのようなモノと一緒にいたとはな。汚らわしい。我が子ながら、その愚かさ加減には呆れる」
 あのようなモノ――ドラコは頬を押さえながら、背後を見た。大股で近づいていく父親に、全身を震わせるドビーの姿が目に入る。逃げたくてたまらないのに、足が何かで繋ぎとめられているかのように上半身だけを後ろに傾けて。
「ち、ちちうえ、ぼくが! ドビーはわるく……」
 振り返った父親の目は、いまだ見たことがないほど冷たいもので、最後まで言い切ることができなかった。ドラコはあまりの恐ろしさに無意識に母親の手を握りしめた。
「いいか、ドラコ。これは我々と対等ではないのだ。同列に置くことすら憚られる下賎な輩。それを友人のように庇うなどと……」
 父親のステッキが優美な弧を描いてドビーの身体に襲いかかった。小さな身体が、まるでボールのように飛び、地に二度、三度弾むのがドラコの目にはスローモーションのように映った。一瞬遅れて、甲高い悲鳴が響き渡る。
 力が抜け、へたへたとその場に座り込むドラコは、何事もなかったかのように足早に屋敷に戻っていく父親と、地面でのたうつドビーとを見比べていた。
 そんなドラコと目線を合わせたナルシッサは涙ぐみながら、
「ああ、かわいそうに……早く家に帰って治療をしましょうね。立てるかしら?」
 赤紫になった痕をさする冷たい指が、腫れた頬の痛みを和らげてくれるようだった。母親の優しさが傷ついた心に染みていき、ドラコは嗚咽を洩らさずにはいられなかった。
 手を引かれ、ゆっくりとドビーの横を行きすぎる。ドラコは当然母親が立ちどまるものと思ったが、ナルシッサは目もくれようとしない。まるでドビーがそこいらに転がっている小石や草のようにどうでもいい存在だと言わんばかりに。
 ドラコは信じられなかった。誰よりも優しい母親が言葉一つかけずに通りすぎるなんて。振り返ると、ドビーはいまだ起き上がれずに地面でぐずっていた。自分よりもひどい怪我を負っていることがはっきりと分かった。
 ――これは我々と対等ではないのだ。同列に置くことすら憚られる下賎な輩。
 父親の言葉が頭に繰り返される。対等でないから、あんな扱いをするのだろうか。それが正しいのだろうか…――幼いドラコには分からなかった。ただヒーヒー声を張り上げて泣いている屋敷しもべと、母親に手を引かれる自分との距離が実際以上に離れていることだけはしっかりと感じられた。

(2005/01/21)