ナルシッサ・マルフォイは編み物をそっと脇にやり、膝かけを引き上げた。丸みを帯びてきた腹部を撫でる顔つきは疲労を帯びてはいたものの、聖母のように優しい。
ここのところ夫の帰らない日が続いている。表向きは領地の管理のため遠方に赴いていることになっているが、実のところ、彼女の夫は【例のあの人】の下僕として任務を行っている最中だ。マルフォイ家は薄れたとはいえ、サラザール・スリザリンの血を引いている。直系の血筋でもある【例のあの人】の縁者として昔から援助していたらしいが、彼はさほど恩義は感じていないようだ。マルフォイ家当主であるルシウスにさえも下僕の証である闇の印を刻み込み、手足のように動かしていることからも読み取れる。零落した直系筋など捨ててしまえばよかったのだが、そうするには【例のあの人】の力が強大になりすぎた。歯向かえば、即座に一族もろとも滅ぼされてしまうだろう。
ナルシッサは一年前に殺された従弟のレグルスを思い出した。
レグルスは家族の期待に答えるため、そして少年らしい浅はかさからホグワーツ在学中に死喰い人に加わった。彼は昔から優しい人だった。スリザリン寮に割り振られたマグル出身者や混血者にも純血と同じように接し、屋敷しもべ妖精には決して手を上げず声を荒らげることすらなかった。だから、きっと死喰い人としての凄惨な任務に耐えられなくなったのだろう。【例のあの人】の元を逃げ出してしまったらしい。
彼の遺体は見つからなかった。伯父夫妻は諦めまいとしていたようだが、後日彼直筆の遺書が届けられたらしい。行方不明のまま希望を持ち続けるよりも死を受け入れさせるために――両親を気遣った、彼らしい最期だと思った。
夫もいつそうなるか分からない。今こうしている間にも、ルシウスは何処かの路地裏で一人倒れているかもしれないのだ。
(ルシウス……)
純血の血筋を残すためだけの政略結婚だった。長い歴史の末に少しずつ傾ぎだしたブラック家を支えるため、そしてこの血では歴史の浅いマルフォイ家がのし上がるための結婚。愛どころか、好意すら抱いていなかった相手との結婚だった。なのに、何故こうも夫の生死が気になるのか。
ドアの軋みに顔を向けると、そこには死神が立っていた。頭からずっぽりとローブをかむり、不気味な骸骨の面が静かに見据えている。ナルシッサは息を呑み、立ち上がった。
「ルシウス様」
「座っていなさい。私がそちらにいく」
フードを脱ぎ、目元の覆いを机の上に置くと、ルシウスは大股に歩み寄ってくる。立ったままのナルシッサの肩に両手をやり、座るよう促した。ナルシッサがおとなしくソファにかけると、隣りに腰を下ろす。
「お帰りなさいませ、ルシウス様。ご無事で何よりです」
機械的に挨拶するナルシッサに、ルシウスは無言のまま頷く。ルシウスは問われなければ、ほとんど口を利かない。元より口数の少ないナルシッサも事務的なことを一つ二つ言うだけだったから、二人の間に夫婦らしい会話はそうなかった。半年後には子供も授かるというのに。
青白いルシウスの目元にはうっすらとクマが浮かんでいた。伸びかけたヒゲも見える。身なりを整える間もないほど、忙しかったのだろう。ナルシッサは手を打ち鳴らし、屋敷しもべ妖精を呼ぶと、熱い紅茶を持ってくるように申し渡した。ほどなくして眼前のテーブルに現れたティーカップに手を伸ばし、やはり無言のままルシウスは口をつける。気を利かせても「ありがとう」の一言もない夫に、ナルシッサは慣れきっていた。
「お疲れでしょう。お部屋に戻られて、仮眠を取られた方がよろしいのでは?」
「いや、また半刻もすれば出て行かねばならないからな」
「そう、ですか。今回はどのような任務か……伺ってもよろしいでしょうか」
ルシウスは表情を変えずに、ナルシッサに目を移した。
「【あの方】の命は、例え身内の者といえど洩らすことはならないと言っていたはずだが……忘れたか?」
「申し訳ありません。ただ、わたくし不安で……ルシウス様が任務の途中で倒れるようなことになれば。それに…、レグルスのように殺されでもしたら」
ルシウスは怪訝そうに眉根を寄せ、それからフッと笑った。
「君がそんなことを考えるとはな。私と同じく、血も涙もない女だとばかり思っていたよ。愛した男を捨て、親に言われるがままに結婚した哀れなお人形さん。私が死んだら、愛しのシリウスの元に戻るといい。あいつはまだ君を想っているぞ。女っ気がまるでない」
「わたくしはあなたの妻です。この家に嫁いできた日から、わたくしはシリウスのことは胸の奥深くにしまいこんできました。なのに、ルシウス様は何故そのようなことを仰るのですか?
わたくしだけなら、いい。けれど、この子は……あなたの子供はどうなるのです? あなたが亡くなれば、この子は父なし児となってしまうのですよ。何故自分の命をそうも軽々しく考えられるのですか? わたくしは……私は死んだら、なんてことは考えたくない。生まれてくる子が寂しい思いをするかもしれないなんて考えたくも……あっ」
「どうした?」
「今、この子が……ほんの少し……だけど、ちゃんと、動いて……」
目を見開いたまま、ナルシッサは腹を撫で続ける。ぴくぴく、と引きつるような動きだったが、胎動らしきものを感じ取れたのはその時が初めてだった。妻の驚きに伝染したように、ルシウスはおそるおそる手を差し伸ばした。まろやかな腹部に触れ、思い切ったように耳を当てる。胎児の音が聞こえたのだろうか。ルシウスはハッと息を呑み、さらに強く頭を寄せる。
夫婦の営みすらも義務のようにこなしていたルシウスは、終えればすぐに離れていって、寄り添ったまま夜を明かしたことなど一度もない。その夫が、今はこんなにも近くにいるだなんて…――ナルシッサは甘い感情が心を満たしていくのを感じた。子供が確かに胎に宿っていると感じたせいばかりではなく、今まで冷たいばかりだと思っていた夫の優しさの欠片を見た気がした。
「……くだらんな」
つぶやき頭を離したルシウスだったが、いつもの非情な目には戸惑いの色が浮かんでいた。
(そうだ、この人は私とよく似ている……血も涙もないと他人に思われている。けれど、違うのだわ。きっと、ただ不器用なだけ。他人に自分の感情を表すのが苦手なだけ……)
すぐに発たねばならないという時に一度家に立ち寄って顔を見せてくれたのも、彼なりに家族の不安を和らげようと気遣ってくれたのかもしれない。
「ルシウス様」
ナルシッサは仮面を取った夫に呼びかけた。
「きっと無事に帰ってきてください。私、この子と二人であなたの帰りを待っていますから」
振り返ったルシウスはすでに仮面をつけてしまった。片手を上げ、すぐに姿くらましをしたルシウス。けれど、覆いのない口元がほんの一瞬綻んだようにナルシッサには見えた。
(2005/12/27)