型から抜け出た真実

 身体を支配していた重苦しさがなくなった代わりに、かつて感じたことのない脱力感に覆われている。もう、終わりだ。終わり、終わり、終わり…――何もかも、終わりなのだ。
 私はホグワーツ卒業と同時にマルフォイ家に嫁いだ。恋情の欠片もない、ただ純血を保つためだけの結婚だった。かつての栄光に縋りつきながらも衰退していくブラックと、歴史が浅いながらも財力をもって魔法界に確固たる地位を築きつつあるマルフォイ家との楔に利用されたのだった。
 望まれたことは、ただ一つ。純血を残すこと。ただ子を生すだけの虚しい役目。姉のアンドロメダのように逃げださず、それを受け入れたのは私がとうの昔に諦めてしまっていたせいだ。愛した人と共にあることを。

 魔力の目覚めが極めて遅かった私はスクイブと見なされ、半ば幽閉されて育てられた。
 ホグワーツに入学する前年まで屋敷の中しか知らなかった私を外に連れ出してくれたのは従弟のシリウスだった。窓辺に立って空を見上げているだけだった私の手を取って、引き上げてくれた。窮地に陥った時に何処かから差し出される手を、私は過信していたのかもしれない。
 彼が去って以来、私は自分自身の望みを抱くことがなくなった。私を慈しみ、育ててくれた父の望みに沿うためだけに生きることにしたのだ。
 だが、私の身体は一向に懐妊の兆しを見せなかった。焦り始めた私は不妊治療を専門にしている老婆を呼んでは、勧められるままに薬湯を飲んだり、夫と臥所を共にする習慣をつけたりもしたのだが、一年経っても二年経っても実りはなかった。
 私の焦りは、段々と一族を巻き込んでいった。私がうまずめなのではないか、と陰口を叩く者さえいた。悔しくてならなかった。何より堪えたのは、夫に愛人を囲ってはどうかと人目も憚らず嘲笑った母の言葉だ。同じ女の身でありながら、仮にも血を分けた娘に対してそこまで言うものだろうか。それとも、私のような不出来な娘には傷つく権利さえないというのだろうか。
 夫はそんな時微かに目を細めるだけで、私を庇い立てはしなかった。私も彼にそんなものを望みはしない。
 そもそも私と夫との間には夫婦らしい会話などなかった。ただ屋敷内で顔を合わせれば挨拶を交わし、食事時は終止無言、ハウスパーティーに招かれた時も最初と最後のダンスを一緒に踊るくらいで、同じ家に暮らしている他人のようなものだった。
 夫が他の女性と戯れているのを見ても、私の心は動かなかった。例え情婦がいるにしても同じだったろう。そんなことで私は傷つかない。夫は私を愛していない、私も彼を愛していないのだから当然だ。
 ただ、子も生さないのであれば、私と夫はなんのために連れ添っているのだろうか。そんな虚しさを抱えたまま、いたずらに時を過ごした後、ようやく私の胎に子が宿った。
 ふくらみかけたお腹に手をやるたび、私は安堵の吐息をついた。ようやく役目を果たせる。私の価値を認めさせることができるのだ、と。トクトクと小さな心音を感じるたび満たされていたのは母性愛ではなく、務めを果たしたという達成感だけ。ほとほと冷たい女だと、自分自身そう思った。
 夫は幾月も私を寝所に留め置いた。私を気遣ってか、私がいない方が遊びに精をだせるからかは分からない。過剰なまでの措置だったが、外出を嫌っていた私にはありがたいくらいだった。少なくとも屋敷内では好奇に駆られた目で見られることもなく、母にばったりと会うこともなく、心の平静を保てたからだ。
 それが、今では…――私は横たわったまま、腹を見ようとした。異様なまでの盛り上がりを見せていたそこにはもはや何もなく、平らかだった。私の子供。私の価値を周囲に知らしめてくれるはずの、証が。

 ひどい難産だったらしい。全身を斧で打ち据えられるような痛みに、悲鳴を上げてのたうち回った。自分の声以外には、何も聞こえず、何も見えなかった。死ぬのではないかという思いすら浮かばぬほど、私の心身はただ痛みにだけ突き動かされていた。そして、それが止んだ時、私の身体の一部はすでになくなっていた。
 耐えがたい痛みが少しだけ楽になってくると、今度は眠気が襲ってきた。引きずり込まれるように意識を失い、また痛みに目を覚まし……それを繰り返していた。
 夫の姿を見たのは、何度目の目覚めの後だったろう。夢だったのかもしれない。確信はない。仮面をつけたような顔は、ただ私を静かに見下ろしていた。
 私の子供は? 無事なのですか?
 ちゃんと言えたかどうかは分からない。答えを聞く間もなく、私の意識は闇に落ちていた。
 見慣れない女性が私を覗き込んでいたのも夢か、どうか。優しく語りかけながら、私の口にスプーンを運んできた。甘い。スープだったのだろうか。かわいそうな方、という言葉だけが耳に残った。
 眠りの間隔が少しずつ長くなってくるにつれ、意識が少しずつ鮮明になってきた。何日間寝込んでいたのだろう。クッションを背に当てられ、私は腹に手をやった。ふくらんだ肉がしおれ、ぶよぶよになっていた。かつての自分の身体とは別物のようだった。
 私の子供。誰も子供について何も言わない。子供は死んだのだろうか。十月十日を共にし、はぐくんだ小さな命……。
 答えをくれたのは、以前より世話になっていたあの老婆だった。私が出産に喘ぎ苦しんでいるのを知り、屋敷に呼ばれたという。
 彼女の手で、私の子供は取り上げられたという。男の子で、産声一つ上げないほどか弱かったが、なんとか生きていると教えてくれた。けれど、と彼女は言いにくそうに続けた。あなたさまが子を孕むことは、もう二度とないでしょう。あなたさまの生殖能力は、もう永遠に失われてしまった。
 老婆がいつ帰ったのか分からないほどに、私は放心していた。もう二度と子供を産めない。子供を産めない。
 子を生すためだけの私。そのためだけの結婚。子を産めなくなった私はどうすればいい? もうなんの役にも立たない。なんの役にも立てない。

「少しは具合がよくなったようだな。食欲もでてきたようで何よりだ」
 夜になってやってきた夫が、寝台にかけ、私の顔を覗き込むようにして言った。珍しいことだった。身ごもって以来、彼は私の寝所を訪れたことなどなかった。
 夫は何も知らないのだろうか。だから、私にまだ価値があると思ってこんな言葉をかけるのだろうか。
「ルシウス様……わたくしの身体のこと、聞きましたでしょうか?」
「ああ、聞いた」
 彼は淡々と言った。なんの感情も、そこにはなかった。
「では、わたくしはいつブラックに戻されるのでしょう。わたくしの両親はなんと言っているのですか?」
「戻す、だと?」
「わたくしはこの家に血筋の相続のために嫁いでまいりました。けれど、わたくしは……もうその役目を果たすことができませんもの。離縁されることに恨みはありません。血のためには、致し方ないことですから」
「馬鹿なことを。離縁するなどと誰が言った? 使用人の誰ぞが君の耳に吹き込んだのか?」
「いいえ。けれど」
 夫は重々しい吐息をついた。その時、ふと彼の青白い顔の目元にクマが浮かんでいることに気がついた。彼のこんなに疲れた顔を、はじめて見た。
「子供など君が産んだあの子だけで十分だ。他はいらん」
「でも」
「ウィーズリーの家のように育てられぬほど子を持つ趣味は、私にはない。数が多いだけで使えない子供よりも、ただ一人でも優秀であればそれでいい」
「ルシウス様。わたくしへの憐れみならば、どうぞおやめください。女としての機能を失ったわたくしが、あなた様にして差し上げられることはありませんもの。ルシウス様なら、片手を上げるだけで数多の女性達の中から、より優れた女性を選ぶことだって」
「私に相応しい女性を探しだすまで妻の座を空けておけと? 何年も空座のままか知れないのにか? そのような面倒なことをする気はない。それほどに私は時間を無駄に費やすつもりはない。
 それに君が私にできることは何もないと言ったが、生まれた子の母親はどうする? 今は未熟児として聖マンゴに預けているが、我が家に帰ってきたら? 母親の乳をほしがったらどうする? あの子を育てられるのは、君以外にいない。母親である君しか」
「ルシウス様……?」
 冷血冷静。打算的に物事を考え、自分のことだけしか考えない人だと思っていた。けれど、私を見つめる目はどうしたことだろう。少し苛立ったような色が浮かんでいる。苛立ち? なんのために?
「それとも……君は私から逃れようと、そんなことを言っているのか?」
 私とシリウスとの関係を彼は知っていたはずだ。けれど、一度としてそれを問いただされたことはない。そんな過去など、事実上の夫婦にはどうでもいいことだと思っているのだと……そう思っていたのに。
「ルシウス様。わたくしはブラックから嫁いでから七年という月日を、ルシウス様の妻であり続けました。けれど、わたくしにはルシウス様の心が分からなかった……あなた様もきっとそうでしたのね。わたくしがルシウス様に歩み寄ろうとせず、頑なだったから。あなた様も、わたくしに近づこうとはなさらなかった。
 今からでも遅くはないでしょうか? わたくし達、生まれた子供のためにいい父母になれるでしょうか?」
「なれるに決まっている。我々は古きよき血を継ぐ者同士なのだから」
 頬を撫でる夫の手に感じ入り、目を瞑ると、唇にあたたかいものを感じた。結婚式以来ご無沙汰だったキスは深く、甘く感じられた。

(2005/11/21)