遠い日の食卓

 例年地面をうっすらと覆ってはすぐに消えていく雪が、今年はなかなか融けていかない。【闇の帝王】の恐怖が天候さえも凍てつかせているのかもしれない。オリオン・ブラックは窓の外から室内へと目を移した。磨き上げられた食卓には、四つの椅子が並んでいた。彼自身と、妻と、二人の息子の居場所が。
 長子のシリウスはヴァルブルガが三十代半ばに差しかかってからようやく授かった子供だった。一人目は死産、二人目と三人目は流産し、彼女の心中はいかがだっただろうか。義弟のシグナスはベラトリックス、アンドロメダ、ナルシッサと三人の子供に恵まれたというのに。うまずめの陰口はおそらく耳に届いていただろうが、ヴァルブルガは弱音をこぼしたことはない。だが、シリウスが――一族待望の跡継ぎの男児が生まれた時、彼女は涙を流した。ようやく役目を果たせた。純血の、ブラック家の跡取りを産んだのだと。
 ヴァルブルガはその二年後、レグルスを産んだ。二人ともブラック始祖の血を継ぎ、利発な子供だった。特にシリウスは期待以上の能力を有しており、彼女は小さな頭に次から次へと様々なことを詰め込んでいった。ヴァルブルガにとっては、シリウスの能力を最大限に引き出すことこそが愛情だったのだろう。だが、当のシリウスがそれをどう受け取っていたか。いつの頃からか、シリウスは両親に刃向うようになっていた。

 最初の亀裂はシリウスがホグワーツに入学し、あろうことかグリフィンドールに選ばれたことだった。休暇で家に帰ってきたシリウスはヴァルブルガとひと悶着起こしたらしい。食事は部屋でとり、家族の誰とも顔を合わせず、学校に戻って行った。おそらくはその頃からだろう。ヴァルブルガがシリウスに傾けていた情熱を、レグルスに注ぐようになったのは。
 二度目の亀裂はシリウスがこの家を出て行った時。ヴァルブルガは元々気性の烈しい女だったが、溺愛していた息子との別離が引き金になったようだ。ブラック家七百年の歴史を記したタペストリーからシリウスの名前を焼き払い、自室にこもりがちになった。何か意味の通らないことをつぶやくか、手当たり次第に物を投げつけるか。宥めすかして聖マンゴに連れていった頃には精神に異常をきたしており、おそらく快癒することはないだろうと診断が下された。

 オリオンは静かに食卓を眺めていた。最後に家族四人が並んで座ったのは一体いつだっただろうと想いを馳せて。
 その時だった。部屋の隅にある暖炉の炎が緑色に変わり、勢いよく燃え上がり始めた。オリオンはハッと息を呑み、杖を構えた。この家にはありとあらゆる安全対策を施し、招かれざる客が紛れ込まぬよう煙突飛行ネットワークには組み込んでいない。【闇の帝王】の存在が頭をかすめ、彼は額を汗が流れていくのを感じた。彼にかかれば、この家の正確な位置がつかまれるのも不思議ではない。
 暖炉から飛び出してきた人物は、しかし【闇の帝王】ではなかった。
「……親父」
 吐き捨てるようにそう言った息子を、オリオンはまじまじと見つめた。二年ぶりに見るシリウスの顔は蔑みに満ちている。その冷やかな態度が、オリオンの心に平静を取り戻させた。
「お前か。何をしにきた、シリウス」
「レグルスが死んだ。そのことを伝えにきた」
「趣味の悪い冗談だ」
 あまりにも淡々とした響きに、オリオンはそう返した。その声は震えていた。何故? オリオンは笑いを捻り出した。そう、シリウスは子供の頃は陽気な子供だった。悪戯を仕掛けては一族に笑いを振りまいてくれたものだ…――
 鋭い衝撃を身体に感じたと思った時には、息子が馬乗りになっていた。
「冗談なんかであんたに会いにくるか! 死んだんだ、レグルスが! あいつ、俺に遺書を送ってきた……親父とあの人に自分の死を伝えてくれって!!」
 つかまれた胸倉が息苦しい。吠えるように叫ぶ息子の顔は、驚くほどにヴァルブルガそっくりだった。
 シリウスは抵抗しない父親を揺すぶるのをやめ、ふところから羊皮紙を取り出す。眼前に突きつけられたものを手に取り、オリオンは呻いた。

     *****

親愛なるシリウス

最後に手紙を書きたくなった相手が君だなんて正直俺自身も意外だった。この手紙を君が読む頃には俺は死んでいる。闇の帝王を裏切ったからだ。

子供の頃は俺達、仲のいい兄弟だって言われてたな。俺が君の後を追いかけてばかりいたから、何をするのも一緒だった。
けど、いつ頃からか追いかけるのに疲れてしまった。君はいつも振り返って俺を待ってくれていたけれど、歩みを止めるのが申し訳なかった。そうしてもらわないと追いつけないのが悔しくもあったんだ。

死喰い人になった直後は有頂天だったよ。未成年で死喰い人になれたのは俺が初めてだと褒めそやされた。
母上も喜んでくれた。その時がはじめてだったんだ。君の代わりとしてではなく俺を認めてくれたのは。
俺は魔法界の浄化に役立てることが誇らしかった。マグルとの混血が進むにつれて、スクイブの出生率が高まってきているのは周知の事実だ。魔法使い達の力を守るためなら、多少の犠牲だってやむを得ない……そう、最初はそう思っていたんだ。
弱者をいたぶるだけの世界なんて存在していいわけがなかったのに何故俺は気づけなかったんだろう。だから言ったじゃないか、と笑う君の顔が見えるようだ。

二人の行く先が大きく別れたのはホグワーツに入ってからだな。どうして君がグリフィンドールを選んだのか、俺には分かった。ナルシッサのことが引っ掛かってたんだろう。思えば彼女と出会ってからだった。君が母上にやたらと反発するようになったのは。

ブラックは七百年も続く純血の一族だから、純血を守り通さねばならないと気概を持った母上の言うこともよく分かる。でも、スクイブだからと叔母上が虐待を加えたのはどうなんだろうな。結局ナルシッサは今や優秀な魔女だし、ただ魔力の開花が遅かっただけ。今までブラックの……いや、純血の歴史の陰に葬られてきた者達にも彼女のような人があったかもしれない。

取り留めのないことばかりを書いてしまった。
シリウス。君に頼みたいことがあるんだ。俺の最期の願いだ、どうか聞いてほしい。
母上と父上に俺の死を伝えてほしい。俺はおそらく死体も残らないはずだから。行方不明としてずっと帰りを待ち続けるよりも死を知った方が少しはマシだろう。ブラック家の権威とベラトリックスの存在で一族に累は及ばないはずだ。
アンにも会うことがあれば、よろしく言ってくれ。結婚してから一度だけ会いに行ったけれど、子供がいて幸せそうだった。マグル出身者達が徐々に消されていっているから、くれぐれも用心するようにと。
そして、シリウス。この愚かな弟のことを心の片隅にでも覚えていてくれ。

さようなら。ただ一人の兄上。

     *****

「……あいつ、まだ学生だったんだぜ? なのに、なんで殺されるんだよ」
 羊皮紙を取り落とした父親にシリウスはつぶやく。
「死喰い人になったのは未成年の時だ。なのに、なんで、あんたらが止めなかった……みすみす死なせるようなこと、させやがった!!」
 噴出した怒りをぶつけられても、オリオンは肉体に痛みを感じなかった。心と身体がかけ離れてしまったかのように、痛みがない。
 オリオンはシリウスの問いを考えた。レグルスを何故止めなかったか。止めようもなかった。何故ならば気づいた時には、彼はすでに死喰い人の刻印をその身に受け入れていた。少年らしい義侠心に駆られて【闇の帝王】のしもべになった後は、褒めてやることしかできなかった。
 放心したように言葉を発しない父親に、これ以上言ってもどうにもならないと思ったのだろう。シリウスは立ち上がり、父親を跨いで部屋を出て行こうとした。母親にもこの事実を告げに行こうとしているのだ。
 オリオンの握ったままだった杖が、驚くほど素早く動いた。開け放たれたままだったドアが、一斉に音を立てて閉まった。行く手を阻まれたシリウスが睨みつけてきたが、彼は素っ気なく言った。
「お前はもうこの家の住人ではない、シリウス。とっとと出て行け」
「出て行くさ! 別に来たくて来たわけじゃない。あの人に伝えたら」
「ヴァルブルガは病気だ。お前が顔を見せれば悪化するに決まっている……お前にまだ少しでも母親を労わる気持ちが残っているのなら」
「あんな女、母親なもんか……! ブラック家の道具としてしか俺のことを見てなかった!!」
「シリウスッ……!!」
 無意識のうちに魔法を使ってしまったらしい。派手な音と共に壁に叩きつけられたシリウスが、打った頭を押さえながら、燃えるような目で見た。
「今さら父親ヅラするのかよ!? 家にロクに居つきもしなかったあんたが! 知ってるんだ、外で何をやってたか……外で女つくって遊んでたくせに説教する気かっ? 笑わせんな!」
 シリウスは暖炉に突進し、ポケットから取り出した小瓶の中身をぶちまけた。暖炉の炎が再び緑色に燃え盛ると、振り返りもせずに飛び込んだ。

 息子の姿がなくなると、オリオンは頭を押さえてしゃがみこんだ。堤を切ったように頭痛と耳鳴りが押し寄せてきた。咳き込みと同時に吐瀉物がほとばしる。
 床を汚した汚物に力なく目を向けながら、オリオンはぼんやりと考えた。シリウスが出て行った。ヴァルブルガが狂った。レグルスが死んだ。家族四人で残っているのは自分だけ。何処で間違えたのだろう。何が原因だったのだろう。
 レグルスの死は、死喰い人になったため。そこまでも健気に母親の望みに沿おうとするとは夢にも思わなかった。
 ヴァルブルガの精神は愛する息子に捨てられた悲しみから。何故当初シリウスに過剰なまでに愛情を捧げていたか。それ以外に捧げる相手がいなかったためではないか?
 シリウスの家出の原因は、スクイブだった姪にあるらしい。レグルスの遺書を読むまで知らなかった。いや、知ろうとさえしていなかったのだ。家族に無関心だった。
 四つ年上のヴァルブルガと物心ついた頃にはすでに婚約させられていた。ブラック家の当主として相応しい振る舞いをしろと責め立てる彼女に愛情はなく、疎んでさえいた。ブラック家の御当主様と褒めそやしてくれる優しい女はいくらでもいたから、家は空けがちだった。
「……シリウスとレグルスを追い詰めたのは、ヴァル。ヴァルを追い詰めたのは私、か」
 今となっては遠い昔。食卓に四人そろって座っていた。フォークとナイフを動かす微かな音だけが響く、ひどく静かな食事風景。特に楽しいとも思えぬものだが、永遠に失われてしまったのだと思うと胸に穴が空いたようだった。

(2013/02/28)