いつか見た星空

 小舟は引き寄せられるかのように緑の光を発する湖の中央へと進んでいた。地に立つ時と同様に揺れはなく、バランスを取る必要もない。小舟の先端に腰かけた屋敷しもべは水面を見るのを頑なに拒んでいるかのようだった。目を瞑り、聞き取れないほどの小声で何やらつぶやいている。
「クリーチャー。無理を言ってすまない」
 声をかけても聞こえているのか、いないのか。返事はない。主人に従順な屋敷しもべならぬ振る舞いだったが、よほどこの場で恐ろしい思いをしたのだろうと彼は静かに湖の中心に目を移した。緑の光は明るいにも関わらず、周囲の闇と溶け合うかのような不気味さがある。近づくにつれて、光源は湖の底ではなく、小さな島の上にあることが分かった。
 へさきが小島に触れ、緩やかに止まった。小舟を降り、緑の光に近づいていった。それは憂いのふるいによく似た台座から発せられている。ポケットをまさぐり、冷たい鎖の感触を確かめ、振り返った。立っていることすらもできないのか、しゃがみこんだ屋敷しもべ。
「クリーチャー、頼みがあるんだ。俺の最後の頼みだ。聞いてくれ」
 しもべは唇を震わせながらも、頷く。ポケットの中から取り出したものを見せ、
「水盆の中にあるロケットと、これを取り替える」
「はっ、はい……」
 一層震えだした屋敷しもべの姿に、その意味するところを誤ってとらえられたことを悟った。苦笑しながら、彼は続ける。
「水盆の中にある毒は飲み干す。水盆が空になったらロケットを取り替える。毒を飲むのは、俺だ」
「……な、何を!? レグルス坊ちゃま!」
「命令だ、クリーチャー。ロケットを取り替えたら、一人で去れ。ブラック家に戻って、このことは誰にも言うな。母には、絶対に……そして、闇の帝王のロケットは破壊するんだ。どんな手を使っても」
「そ、そんな……レグルス坊ちゃま、お願いでございます、そんなことはおやめください! 奥様がどれだけ悲しまれるか」
 主人の命令に背くことは屋敷しもべにとっての大罪だ。クリーチャーは自らの頬を叩き、地に額を打ち据えながら嘆願する。血まみれの哀れな姿で。
 レグルスは眼を背けるように水盆に向かう。水盆の横にこれみよがしに備えつけられた金のゴブレットを手に取り、水盆を満たしている緑の液体をすくいあげると、ためらうことなく飲み干した。苦味を感じた以外に、特に変化はない…――そう思った直後、彼は聴覚が急激に遠のいていくのを感じた。クリーチャーの悲痛な声が、厚い壁を通してしか聴こえない。倒れこみそうになるのをこらえ、水盆にすがりつく。
 目を瞑ったまま、レグルスは飲み続けた。一杯飲むごとに五感を一つずつ奪われていくのを感じた。そして、幻のように昔の記憶が浮かんでは消える。いつ、誰に言われたことか。それまで思い起こすことのなかった記憶までがまざまざと。

 ――シリウス様は類い稀な力を持ってらっしゃる。これだけの天才は数百年に一人、出るかでないか。
 ――何故シリウスがグリフィンドールなんかに。グリフィンドールにさえ行かなければ、こんなことにならなかった。何故、あの子だったの!?
 ――あいつも出来のいいヤツだけどさ、所詮兄貴の劣化コピーだよな。
 ――お前さえ、いなければ。
 ――あんたって姿はそっくりでも、全然違う。シリウスならそんなこと言わない。

 シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら、シリウスなら……――

 ――…グルス坊ちゃま、レグルス坊ちゃま!

 呼びかけに彼は朦朧としたまま目を開けた。倒れこんでしまったらしく、上を見上げると石の水盆があった。右手には金のゴブレットが握られたまま。左手にあったロケットは消えている。
「取り替えました! ご命令通りにしました、坊ちゃま!」
 キーキー声で叫ぶクリーチャーの手には金のロケットが握られていた。労いの言葉をかけてやりたかったが、喉が焼けつくように熱く、声が出ない。
 水。レグルスは重たい身体を引きずるように水辺に向かう。
「坊ちゃま! 湖に近寄っては……!!」
 湖には死人がいる。そう思いながらも、レグルスは握ったままのゴブレットで湖水で満たした。その瞬間。 
「レグルス坊ちゃま……!!」
 湖面に勢いよく叩きつけられ、レグルスはもがこうとした。その四肢にまとわりつく、白い無数の手。
 呼吸をしようともがいても、口内に入ってくるのは水ばかり。身体中に痺れをもたらした液体が少しずつ薄れ、幸か不幸かはっきりとした意識が戻ってくる。亡者達に抗おうとしても徒労に終わることは分かっているのに、杖は何処だと考えてしまったのが不思議だった。
 刺すような水の冷たさと深淵を思わせる暗さ。何処までも沈んでいく。

 ホグワーツではレグルスの周りには常に誰かがいた。ブラック家のお坊ちゃま、クィディッチのシーカー、成績を鼻にかけない優等生…――そんな風に見られていたんだろう。そんな風に見せるようにしていた。
 物心ついた時から二つ年上の兄の才能に嫉妬していた。圧倒的な能力を持ち、一族中が期待を寄せていたシリウス。彼は【光り輝くもの】の名の通り、何処にいても皆の視線を惹きつけた。子供の頃は親戚連中の注目を。ホグワーツでは友人達と一緒に馬鹿をやっていても人気者だった。自分の名前が一等星の中で一番暗い星だと知った時、レグルスは自分の運命を悟った。何処までも兄の陰に隠れる宿命なのだと。ただ、それでもいいと思っていた。シリウスが家出するまでは。
 母がシリウスに求めていたものが、全てレグルスにスライドされた。成績、魔力、思想、立ち居振る舞い…――【純血のブラック家】に相応しい完璧さと少しでも外れれば、容赦なく叱責されるようになった。この子は出来のいいシリウスとは違うから。そのように見逃されてきた数々のことが。

 ――レグルス。あなたはあなた、シリウスはシリウスなの。あなたはシリウスとは違うし、シリウスと同じになる必要はないの……分かる?

 シリウスにはなれない。けれど、周りが求めていたのはシリウスの代わりだった。
 自分がレグルスでいることを赦してくれたのは、従姉のアンドロメダだけだった。その彼女も、レグルスを置いてマグルの世界へと去っていってしまった。

「レグルス坊ちゃまーッ!!」

 光が遠くなっていく。何処までも沈む。堕ちる。
 クリーチャーの声はもはやレグルスの耳には届かなかった。だが、彼を救おうとする魔法は湖底の暗い世界からも、無数の小さな光として見ることができた。緑がかった闇夜に散りばめられた光。いつか、見た光景。

 ――あにうえ、まって。
 ――なんだよ、兄上って。きもちわるい。
 ――だって、ははうえがいったよ。シリウスはいえをつぐんだから、ちゃんとあにうえってよばなきゃダメだって。
 ――いーんだよ、シリウスで。オレとお前は親友だろ?
 ――しんゆう?
 ――そっ。一番のなかよしってことさ。上も下もないってこと。分かったな?
 ――わかった…、シリウス。あっ、ながれぼし! あっちにも!!
 ――きれいだな! りゅうせいぐんって言うんだぜ。また見にこような。

 また。
 がぶりと水を呑んだのを最後に、レグルスは動きを止めた。見計らったかのように、仲間となった躯から一人、また一人と離れ、死人達は眠りにつく。そうして湖は静けさを取り戻した。石の水盆の上で咽び泣く屋敷しもべだけを除いて。

(2014/12/30)