刻まれたのは嘆きの声

 ニンファドーラはソファの上に寝転がりながら、ぼうっとテレビを眺めていた。胸と太ももの間にクッションを挟み込んで、何度も身体を揺らす。お気に入りのアニメはもう終わってしまったし、後は小難しいニュースが流れるだけだ。つまらない。
 キッチンから聞こえるトントンという音は絶えない。
 あくびをして、膝頭を撫でては爪を立てた。まだ明るい時間だから外にいって遊べばいいのだが、母親に一人で出歩くことは禁じられていた。もう六歳になるのに「お外は危ないから」と言うのだ。
 窓の外から同じ年頃の子供達の声が聞こえるたび、ニンファドーラは羨ましくてならなかった。母親に抗議したこともあったが、いまだ許しはでない。
 一度として声を荒らげたことのない優しい母親だったが、言いつけを破ったり、だしぬこうという気にはならない。幼心にも気が咎めるほどの母親の善良さゆえに。
 玄関からけたたましいチャイムが響いた。クッションを投げ捨て、ニンファドーラはキッチンを見た。野菜を刻む音は規則正しく流れてきている。
 もう一度、チャイムが鳴った。換気扇を回す音で、聞こえていないのかもしれない。ニンファドーラは玄関まで走ると、ドアに飛びつき、鍵を開けた。
 そこには全身黒づくめの大きな男が立ち塞がっていた。父親の背よりも、ずっと大きい。それに、おかしな格好をしていると思った。ズルズルと引きずるほどに長い服は黒く、ご丁寧にフードまでかぶっているから、まるで雨合羽でも着ているようだ。
「君は……?」
 つぶやくような男の声には、戸惑った響きがあった。
「どちらさまですか?」
 確か、見知らぬ人にはこう言うはずだ。母親の言葉を思い返しながら、たどたどしく問うと、
「私はレグルス。レグルス・ブラックだ……君は?」
「トンクスよ」
 レグルスと名乗った男の顔はフードの陰になってよく見えない。けれど、ニンファドーラは彼が微かに笑ったのを感じた。
 目線を合わせるようにしゃがみこむと、彼は手を伸ばしてきた。見知らぬ人に頭を撫でられるのは好きではない。けれど、ニンファドーラはこのおかしな男に触れられるのは、あまり嫌ではなかった。格好は妙だが、そう悪い人ではなさそうだと直感的に思ったのだ。
「それはファミリー・ネームだろう? 名前は? なんていうの?」
「ニンファドーラ」
 頬に熱湯を浴びせられたようだった。赤らんだ頬に気づかないのか、男は優しく続ける。
「素敵な名前だね。可愛い君にぴったりの名前だ」
「あたし、かわいくないもん。こんなおなまえ、きらい。へんなおなまえだって、みんなにからかわれるの」
「君のママが好きだった名前だよ。ギリシャの、水の妖精を意味した名前だ」
「あなたのおなまえも、きいたことあるわ。ほしのなまえね」
「そう、よく知っているね。レグルスは獅子座の一番明るい星だよ」
「あたしもようせいみたいなかわいいのじゃなくって、つよいライオンみたいなイミのおなまえがよかったわ」
 ふて腐れて言うと、レグルスはまた笑ったように思えた。と、その時、彼の目が大きく見開かれ、すっくと立ち上がった。
 急にどうしたのかと振り返ってみると、そこには母親の姿があった。男の目の辺りを凝視しながら、ゆっくりと近づいてくる。幽霊でも見たような顔つきだ。
 あと二、三歩というところで母親は男めがけて身体を投げだした。ニンファドーラは仰天した。母親が誰かにこんな風に接するのを見たことがなかった。子供みたいに、無防備に抱きつくなんて!
「レグルス……レグルスね、久しぶりだわ!」
「ああ…、ああ! 久しぶりだ、アン」
 男は遠慮するように身体を離すと、フードを取った。でてきたのは凛々しい青年の顔だった。目鼻立ちがはっきりとしていて、何処か母親の顔と似ている。
「レグルス、娘のニンファドーラよ。
 ドーラ、この人はね、ママの従弟のレグルスおじさんよ。話したこと、あったわね? ママの仲よしだった従弟のレグルスよ」
「アン! 俺はまだおじさんなんて年じゃない。まだ学生なんだよ?」
 非難めいた口調なのに、その顔は何処か嬉しそうだった。
「ねっ、入っていって。今、夕食の支度をしていたところだったの。折角だし、食べていかない? そろそろテディも帰ってくると」
「いや、長居をするつもりはないんだ。少し、顔が見たくなったから寄らせてもらったんだ。もう帰るよ」
 レグルスの顔から不意に笑いが消え失せた。
 慌しく遮られたせいか、母親の表情が曇った。腹を立てているのではなく、悪いことを言ってしまったという表情だった。
 食い入るように母親を見つめていたレグルスが不意に腕を上げた。たっぷりとした袖がずり落ち、真っ白な手があらわになる。手首には毒々しい黒い刺青があった。ドクロと蛇を象った、忌まわしい印が。それを見た瞬間、母親が息を呑むのをニンファドーラは感じ取った。そっと引き寄せ、庇うように抱きしめてくる母親の顔を見上げれば、ひどくこわばっている。
 レグルスは手首を押さえた。隠すためか、痛みを抑えるためか。
「もう、会えないな……アンが家をでても、会いにいけばいい。マグル界だって、すぐに遊びにいけるところだって軽く思ってたけど、でも。こんな身体じゃ、もう駄目だな」
「どうして、あなたが……どうしてなの? 例のあの人の考えを知っていて、賛成したの? 本当に? シリウスの代わりとしてじゃなく、あなたの意思でなの?」
 レグルスは曖昧に首を振った。頷いたとも、否定とも取れる。彼は背をかがめ、ニンファドーラの頬に触れた。
「さようなら、小さな可愛い妖精さん」
 ふっと微笑を浮かべ、踵を返した。母親は引き留めるためか彼の背に手を伸ばしたが、その手は空をつかんだにすぎなかった。
 レグルスおじさんが亡くなったことを聞いたのは、それから半年ほど経った頃だった。たった一度。それもほんの少ししか言葉を交わさなかった親類が死んだと聞いても、ニンファドーラは悲しくはなかった。ただ泣きむせぶ母親の声だけが、大人になってからもずっと心にこびりついて離れなかった。

(2006/05/01)