振り返らない背中

 乗客と見送りで混雑するプラットホームを、懸命に歩く少年がいる。黒髪の痩せた少年だ。年の頃は十歳前後。身体には不釣合いな大きなカートを誰かにぶつけそうになっては足を止めて謝っているため、折角の早足も意味を成さない。
「レジーッ! レグルス、トロトロすんなって!」
 苛立った声が前方から発せられる。乗降口に足をかけ、振り返った兄のものだ。その声に一層慌てて駆け出そうとした瞬間、カートがガツンと派手な音を立て、衝撃が走る。勢いよく地面に投げ出されたレグルスはすぐに立ち上がった。手のひらが砂と微かな血で汚れているのを見た途端、痛みが襲ってくる。
「何やってんだ! 気をつけろよ!」
 間近から鋭い声を浴びせられた。カート同士をぶつけてしまったらしい。持ち主は同じ年頃の少年だった。薄茶色の髪で、真っ赤な頬にはソバカスが点々と飛んでいる。レグルスが謝ろうと口を開きかけた時だった。
「バート、お前も悪いだろう。カートが邪魔にならないように壁側に寄せていなかった」
 父親らしい男性が静かな声でたしなめる。トレンチコート姿の細身の人だ。魔法省勤務の人間くらいしか締めたがらないネクタイを、左右対称に形よく結んでいるのが印象的だった。こんな上手にネクタイを結べるなんてマグル出身者か、半純血だろうか。
「大丈夫かね? 怪我をしたようだ。見せてごらん」
 優しさよりも事務的な響きがある声で、男性はレグルスの手を取った。ジャケットの裏ポケットに忍ばせていたらしい杖を取り出すと、一振りする。青白い光が手のひらに当たると、すでに傷は癒え、汚れも清められていた。治癒と清めの魔法をほぼ同時に、しかも無言で行ったその見事な手管にレグルスは目を見張った。高度な魔法の使い手だと子供ながらに感じたのだ。
「あ……ありがとうございます」
「君。もしや、君はブラック家の子供か?」
 強い視線でまじまじと見てくる男性に、レグルスは怪訝に思いつつも頷いた。その時、
「何もたついてんだよ。世話焼かせるなって!」
「シリウス」
 口調は荒いが、迎えに来てくれたらしい。シリウスは強引に手を取ると、レグルスのカートを片手に駆け出した。たった二歳しか違わないのにすごい力だ。ほとんど引きずられながら、レグルスは先ほどの親子を振り返った。彼らはまだレグルスの方を見ていた。
「お前、バーティ・クラウチと何話してたんだ?」
「バーティ・クラウチ? さっきの人?」
「なんだ、知らなかったのか。そっ。魔法法執行部のお偉いさん。最近よくウチに来るのを見かけてる。大方、ブラック家のブラックなところでも嗅ぎ回ってるんだろうよ」
 シリウスが汽車に乗り込みながら皮肉たっぷりに言う。
「そうなんだ」
 レグルスとシリウスの父、オリオンは仕事を理由に家を空けがちだ。物心ついた頃から月の半分ほどしか家で見かけなかった。どんな仕事をしていて、何のために家を離れる必要があるのかは分からない。けれど、家族にあまり関心を寄せていないことは子供ながらに感じていた。
 母のヴァルブルガはしつけに厳しく、子供達を監視するように見る母親だった。二年前、グリフィンドールに選ばれたシリウスと盛大にやりあってからは、部屋に引きこもることが多くなったのだが。子供達を見送ることすらも億劫なのか、今朝は姿さえ見かけなかった。
 バーティ・クラウチとその子供のことを思い返し、レグルスは羨ましく思った。クラウチといえばブラック家と並ぶ純血の名家で、魔法法執行部の役職者なら多忙を極めているはず。それなのにクラウチ氏は子供の見送りにきた。同じ純血なのに、家族四人揃ったのはいつだったかと思い出せないほど冷え切った自分の家とは違うのだ。
 考え込むレグルスとは正反対に、シリウスは全くの何のこだわりもなかった。どんどん先に進もうとするシリウスに、
「なあ、ここのコンパートメント空いてるけど」
 素通りしようとするコンパートメントを指差す。シリウスは立ち止まったレグルスの手をグイッと引く。
「友達が席を取ってるんだ。お前も来いよ」
「いや、俺はいい」
 レグルスは慌てて言った。咄嗟にシリウスが入学して以来、母から言われ続けた言葉を思い出したのだ。グリフィンドールの連中とは関わるな、と。

 ――あなただけは絶対にスリザリンに入るの。シリウスのような恥さらしになっては駄目。

 背後から風がすり抜けたと思った、その時。
「シーリーウース!」
 シリウスの背に大きな黒い塊がしがみついていた。
「やーめろって! ジェイ!!」
「休み中会えなくって寂しかったよ、ハニー」
「キモイ、ウザイ、やめろッ!」
 口ではそう言いつつも、シリウスの声音は嬉しそうだった。黒い塊…――それはシリウスと同じようにスラッとした少年だった。クシャクシャのあちこちに跳ねた黒髪が鳥の巣を思わせる。眼鏡の奥のハシバミ色の瞳がレグルスを見た途端、素っ頓狂な叫びを上げた。
「これが噂の弟君だ! シリウスそっくり!! はじめましてー、僕はジェームズ・ポッター」
「……レグルスです、はじめまして」
 これがジェームズ・ポッター、とレグルスは身構えた。シリウスの無二の親友と聞いている。悪戯とユーモアのセンスがある最高のヤツだ、との事前情報があったにも関わらず苦手意識を感じた。
 ジェームズはニッと歯を見せた。シリウスの背中にしがみついたまま、手招きしてみせた。
「一緒においでよ。シリウスと二人で開発した悪戯用のグッズを試してみたかったんだ! もちろん君に対して使うわけじゃないから」
「すみませんが、少し一人になりたいので……遠慮します。シリウス、行けよ。大丈夫だって。自分のことは自分でできる」
「何言ってるんだよ。さっきもできないから迎えに」
「いいんだって。いつまでも子供扱いするな!」
 カートを奪うようにして取ると、シリウスは目をつり上げた。
「何いきなりキレてんだよ! 勝手にしろよ、人が折角誘ってやったのに。行くぜ、ジェイ」
「ほいよ、相棒! またな、レジー」
 ジェームズ・ポッターと肩を組んで歩くシリウスは、もう振り返ろうとはしなかった。二人が隣りの車両に行ってしまうまで背中を追っていたレグルスは、そんな自分に気づいて頭を振った。自分から誘いを断ったのに、置いていかれたような気になるなんてまるで子供だ。
 コンパートメントに入ると窓側の席に掛けた。外には見送り客が大勢見える。皆、窓越しに自分の子供達と話したり、手を振ったりしている。レグルスに目を向ける人は誰もいない…――カーテンを閉めると、レグルスはカートの中からホグワーツのローブを引っ張り出した。
 ややあって蒸気の音が響き渡り、ゆっくりと車体が動きだす。ホッとして通路側に目をやると、先ほどカートをぶつけてしまった少年と目があった。彼は一瞬どうしようかと迷ったようだったが、意を決したようにコンパートメントのドアを開けた。
「……さっきは僕も悪かった。ここ、いいかな?」
「いいよ。レグルス・ブラックだ、よろしく」
 レグルスが手を差し出すと、彼はぎこちない笑みを浮かべながら握手した。
「バーティ・クラウチだ」
「お父上と同じ名前なんだね」
「ああ。君も新入生なんだ」
 レグルスのローブの胸元に目をやり、バーティが訊く。寮章は組分けの後で寮監につけられることを知っているのだろう。頷くと、バーティの表情が見る間に和らいだ。よほど緊張していたらしい。
「ホグワーツに着いたら組み分けの儀だね。僕は父と同じレイブンクローに進むつもりだ。君は……きっとスリザリンだろうな」
「うちの一族は皆スリザリンだからね。兄は違うけど……君は? 兄弟はいるの?」
「いない。だから、お父さ……父の後を継ぐのは僕しかいないんだ。期待に応えないと。父の名に恥じない優秀な生徒になってみせる」
 両手を握りしめ、自らを奮い立たせるように言うバーティにレグルスはドキリとした。直感的に似ている、と思った。この子からは名家の跡を継ぐ者としての覚悟を感じる。この子なら、もしかしたら友達になれるかもしれない。シリウスとジェームズ・ポッターのような打算抜きの、本当の友達に…――
「あのさ」
「やあ、やっぱり君だ。レグルス、君とホグワーツで一緒になるって聞いて楽しみにしていたんだ」
 コンパートメントにぞろぞろと入ってきたのは、ハウスパーティーで見かけたことのある少年達だった。彼らはこぞって親しげな笑みを浮かべていたが、一緒にいるバーティに気づくと露骨に顔をしかめた。
「こいつ、クラウチじゃん。魔法法執行部長の息子だぜ」
 指を指され、バーティは気色ばんだ。
「失礼な奴だな。だったら、どうなんだ。誰だ、お前ら」
 目配せし合った彼らの中で、一番体格のいい少年が一歩前に出た。
「俺はスタンリー・ロジエール。こっちはアゼル・フリント、セルゲイ・ノット」
 いずれもブラック家と類続きの家だ。特にロジエール家はアンドロメダ達三姉妹の母、叔母のドゥルーエラの実家だとレグルスは思い巡らせる。
「闇の魔法使いの一族か」
 吐き捨てるように言うバーティの胸ぐらを、ロジエールが乱暴に掴んだ。
「お前のとち狂った親父のせいで迷惑してるんだよ。思い込みの尋問をされたお陰で省内で浮いてしまったって父さんが言ってたんだ」
「思い込みなもんか! 色々な状況証拠を踏まえた上で捜査を行っているんだ。お父さまを馬鹿にするな!」
「言ったな、こいつ。生意気なチビが!」
 ロジエールは一歩も引かないバーティの首を両手で吊り上げるようにする。苦しげにもがく両手足を、待っていたとばかりにフリントとノットが押さえつける。悲鳴と囃し立てる声が、狭いコンパートメント内を一挙に埋め尽くした。
「やめろ! 彼を放せ……!」
 四人の視線が集中し、レグルスはハッとした。気づけば杖を握り締め、彼らに向けていたのだ。床に下ろされたバーティの苦しげな咳き込みが、耳に栓をされたように遠く聞こえる。
「レグルス。まさか、こいつに味方するっていうのか? 君もグリフィンドールの兄貴と同じだっていうのか?」
「違う! そんなことじゃない。暴力は、よくない……こんなの。寄ってたかって、マグルのクズみたいじゃないか」
 言葉が尻すぼみになっていくのをレグルスは自分自身感じていた。バーティと友達になりたい。けれど、真っ向から庇うことはブラック家の意向にそぐわないかもしれない。
 一体どうすれば…――
 ロジエール、フリント、ノットの身体がふわりと浮き上がったかと思うと、次の瞬間壁に叩きつけられた。三人とも気絶したのか、ぐったりと頭を垂れている。呆気に取られたレグルスは、両膝をついたままのバーティを見た。震えながら杖を握りしめた彼の目に灯っているのは怯えではなく、怒りだった。バーティはカートを手に取ると、ドアの前に倒れたロジエールを力いっぱい蹴り上げた。
「バーティ……!」
 足を止めた彼に対して、レグルスは何度も口を開いては閉じた。何をどう言えばいいのか、分からない。
 口を開いたのはバーティの方が先だった。
「僕が馬鹿だった……君も闇の魔法使いの一族だもんな」
「俺は、君と」
 振り返らないバーティがどんな顔をしているのか分からない。バーティは早口で遮った。
「仲よくなんかなれるはずもなかったのにな。邪魔したな、ブラック」
 そう言い捨て、足早に去るバーティを追いかけることもできず、レグルスは立ち尽くしていた。友達になれるかもしれないと感じた少年ではなく、床に転がった顔を見知っているだけの三人を選んだことに今さらながら気づかされて。
 ホグワーツに着き、組分けの順番は奇しくもレグルスとバーティが前後に並んだ。振り返ってもバーティは顔を背け、二人の視線は交わらなかった。
「ブラック・レグルス――スリザリン!」
「クラウチ・バーテミウス――レイブンクロー」
 既に決まったことを読み上げるように、組分け帽子の決定は速やかだった。

(2021/03/21)