暗い室内に一条の光が差し込んだ。壁に隠された石の扉を開けて、誰かが寮に戻ってきたのだ。
白い長方形に象られた光の中から進みでてきたのは、ほっそりとした少女だった。逆光で、顔は見えない。少女がくぐり抜けると、扉はひそやかに閉まっていく。部屋がまた薄暗闇で閉ざされる前に、少女は杖に明かりを灯らせた。ぼうっと浮かび上がったその顔は血の気がなく、こわばっていた。
少女は足音を忍ばせるように手近なテーブルに向かい、用心深く杖を置いた。ソファに腰かけると、ようやく落ち着けたといった風にずるずると沈み込んだ。ためらいがちに左手を掲げ、初めて見るもののようにまじまじと見つめる。
体つき同様、節の目立たない細長い指だ。白くたおやかで、重い物を持ったり、手仕事をしたことなど一度もないような淑女の手。薬指にはめたシンプルな銀の指輪を撫でさすり、少女は呻いた。
少女の名はアンドロメダ。イギリス屈指の名門、ブラック家の令嬢である……いや、だったというべきか。彼女は今宵限り、一族を捨てる決意をしたのだ。その安っぽい指輪と引き換えに。
彼女が恋に落ちた相手はテッド・トンクスだった。彼はハッフルパフ生だったが、同学年で同じ監督生同士ということもあり、校内の巡回などで顔を合わせることが多く、親しくなっていった。勤勉でいつも誰からも一歩退いたような謙虚さがあり、その誠実な人柄にアンドロメダはいつしか先々までこの人と一緒にいたいと思うようになっていった。けれど、彼との結婚は一族にとって望まれぬことだということも分かっていた。何故なら彼は純粋な魔法使いではなかった。彼の両親も祖父母も、魔法力を持たざるマグルだからだ。
純血を愛し、ことに同族の血ばかりを愛してきたブラック家。テッドへの想いを貫こうとするほどに、自身に脈々と流れるその血が彼女を苦しめた。アンドロメダは両親を、姉妹を、従弟達を深く愛していた。けれど、彼らとの絆を断ち切らねば、テッドとは結ばれない。
一旦は恋人との別れを覚悟したアンドロメダだった。母親と伯母に勧められ、縁続きにあるロジエール家のエヴァンと婚約をし、学校を卒業したらすぐにでも嫁ぐことにしたのだ。エヴァンは元より妹のように接してきたアンドロメダを愛していたし、少しばかり短慮なところがある彼と落ち着いたアンドロメダが結ばれれば、彼の欠点も少しはよくなるだろうと一族からも諸手を挙げて良縁だと祝福された。
そのことを告げた時、テッドの顔には苦渋の色がにじんでいた。が、彼は裏切りを責める言葉を一言も吐くことなく、かえって彼女の幸福を願ってくれた。心が張り裂けんばかりに痛んでいる時に、何故他人をそうまで思いやることができようか。アンドロメダはその献身的な心情に打たれた。
(お父さま、お母さま、ベラ、ナルシッサ、シリウス、レグルス……それにエヴァン。愛しい、我がブラック家……皆と別れるのはつらいわ。しっかりと地に張っていた根を無理やり引き抜かれるように、つらい……悲しみで枯れてしまうかもしれない。
でも、テディだって同じ苦しみに耐えて、言ってくれたじゃない。真心には真心で報いるのよ、アンドロメダ……もう決めたんでしょう、怖がらないで。
震えをとめて部屋にいくのよ。手紙を書いて、皆にお別れしなきゃ。さあ、立って……!)
ソファに置いた両手に力を込め、アンドロメダは立ち上がろうとした。けれど、浮き上がった腰は再び沈む。彼女は病人のようにカチカチと歯を鳴らしていた。
後悔しているわけではないのに、何故こんなに震えているのだろう。アンドロメダは指輪を強く握り締めながら、なんとか震えを鎮めようとした。
「ルシウス?」
カツンと足音が響いた。アンドロメダは失敗を主人に見咎められた屋敷しもべのようにビクンと跳ね上がり、おそるおそる振り返った。階段を上がっている最中に杖明かりが見えたのだろう。駆け上がってきたワルデン・マクネアの険しい顔つきが、困惑したように見えた。
「ミス・アンドロメダ……?」
「……ワルデン」
まさか深夜の談話室で、杖明かり一つ灯してぼうっとしているのが、監督生で首席のアンドロメダとは思いもしなかったのだろう。ワルデンはすぐに言葉がでないようだった。四方の燭台めがけて杖を振り、火を灯すと、談話室が一気に明るくなった。寝入っていた肖像画の住人達が眠たげに目を擦りながら、不平たらたらに廊下の暗がりを求めてでていくのを無視して、彼はアンドロメダの側までやってきた。側とはいっても、三歩分は確実に距離を置いている。
「ルシウスかと思いました。脅かせてしまったなら、すみません」
微かに訛っていて聞き取りづらいが、丁寧な話し方だ。アンドロメダが監督生だからか、それともブラック家の令嬢ということでなのか、ワルデンはいつもこうして目上の者にするように話しかけてくる。皆の前ではお調子者で、笑いを取ってばかりいるというのに。
彼の目線が薬指に走るのを感じ、アンドロメダはさりげなく腕を身体の陰に隠した。
「ルシウスがどうかしたの?」
ホグワーツ入学前に両親を亡くしたワルデンは、マルフォイ家に引き取られて育ったと聞いた。彼がルシウスと始終べったりしているのも、兄弟のように育ったからかもしれない。いつしか疎遠になっていた姉のベラトリックスのことを思い、心がチクリと痛んだ。テッドと駆け落ちしたことを知れば、彼女は烈火の如く怒るだろう。
「目を覚ましたら、あいつがベッドにいなかったんで、てっきり女と……あ、失礼! とにかく、まあルシウスを探してたんです。ミス・アンドロメダは何故こんなところに? 顔色が悪いですが、具合でも?」
「いいえ。ただ明日でホグワーツを卒業すると思ったら、なんだか寝つけなかったの。素晴らしい七年間だったから。ここにもう戻ってこれないかと思うと、寂しいわ。住み慣れた家から引き離されるみたいで」
そう言うと、ワルデンは頷いた。
「結婚をされるとマルフォイ様から聞きました。おめでとうございます、ミス・アンドロメダ。ロジエールも幸せな男ですね。あなたのような女性と結ばれるなんて。純血がますます栄えるよう、お祈りしています」
「ええ、ええ……ありがとう、ワルデン」
純血同士の結婚のお決まりの祝辞が、胸に痛かった。ワルデンに知られるわけにはいかない。駆け落ちすることを誰かに知られれば、一族の皆が服従の呪文をかけてでもエヴァンとの結婚を進めるだろうことは予想がついた。なのに、一旦は落ち着いた震えが、またここにきて甦ってきたのだ。不審に思われると思えば、さらにひどくなる。
ワルデンの目が、じっと自分をとらえている。二つも年下なのに、ルシウスといい、彼といい、どうしてこんな鋭い目を持っているのだろう? 何もかも分かっているというような、怖い目を。
「寂しくなりますね。あなたがいなくなると」
「……寂しい?」
ワルデンの言葉はやぶから棒に聞こえた。特に彼とは親しいわけではないし、どちらかというと彼から煙たがられているのだと思っていた。皆と態度が違うことからも、それは窺えた。真意を測りかねて、アンドロメダが訊き返すと、
「ええ、とても寂しいです。あなたの姿が見えなくなるかと思うと……。
俺の家系は知っての通り、代々処刑人でした。親父を亡くして、マルフォイ家に養われることになっても、その血が変わるわけじゃない。純血の集まりに招かれても、俺はいつも一人だった。誰にも見咎められないように庭の木陰に隠れたりして、帰る時間になるのをひたすら待っていたんです。
俺も純血だ。表立って差別されたわけじゃあない……けど、皆の目が言ってたのは知っていたんです。あれは処刑人の子。罪人の血にまみれた子供なんだと」
過去に思いを馳せるように、ワルデンの目は遠くを見ていた。
「あの日も俺はそうしていた。ブラック家のハウス・パーティーで、はしゃぐ子供達の声を聞きながら壁際に一人突っ立っていた。子供達一人一人にケーキが切り分けられていくのを、遠目で見ていた。俺はいつになったらその馬鹿馬鹿しいパーティーが終わるのか。睨みつければ、そのケーキが早くなくなるんじゃないかと思っていたんです。
その時、黒髪の、とてもきれいな女の子が俺に駆け寄ってきて、たった今自分に切り与えられたケーキの皿を差しだしてきたんですよ。その子の目には蔑みもなければ、哀れみもなかった。俺がどういう子なのかも、分かっていなかったのかもしれない……ただ、おいしいケーキなのに、どうして食べたいと思わないのかと……不思議そうに訊いてきた。覚えていないでしょう、ミス・アンドロメダ?」
突然自分に話を引き戻され、アンドロメダは驚いた。子供の頃からハウス・パーティーなんて何度も開いていたし、そこに招いた子供達をいちいち覚えてなどいなかった。特に目立つ子供――子供ながらに人目を惹く容貌だったルシウスや、いつも不機嫌そうに泣きわめいては周囲の大人達を失笑させていた小さなバーテミウス・クラウチ、あどけない顔で悪戯ばかりをしていたポッター家の一人息子ジェームズなど、何人かの子供達のことは記憶に残っていた。けれど。
ワルデンは穏やかに首を振った。
「覚えていなくて当然ですよ。ただ、俺は蔑みも哀れみもない目を向けられたのが初めてだったから……見返りのない親切を受けたのは、それが初めてだったんです」
ワルデンはそこで言葉を切った。訴えかけるような目を見ながら、アンドロメダは口を開いた。
「そう。私、てっきりあなたに嫌われていると思っていたのよ。いつも私にだけよそよそしくしていたし……初恋の君だから、緊張していたんだと解釈していいのね?」
ワルデンの目に逡巡の色が混じった。けれど、彼は自分自身に言い聞かせるように頷いた。
「そうです。俺にとって、あなたは大切な人だったから……あなたの幸せを祈っています。この先何があっても、あなたの幸せが曇らないように」
「ありがとう、ワルデン……そうね。私、幸せになってみせるわ。何が起こっても、自分の幸せを守り抜くわ」
「ええ。それじゃあ、さようなら。ミス・アンドロメダ」
おやすみの代わりにそう言い残すと、ワルデンは寮をでていった。握手を求めるでもなく、最後まで三歩分の距離を保ったまま。
あなたの幸せを祈っています――テッドと同じような言葉を、同じ目をして言ったワルデン。違いは一つ。想いに応えられないことだけ。アンドロメダは目を瞑った。その拍子に頬を涙が一粒滑り落ちていった。
(2006/06/04)