Humpty Dumpty
ねえ、トム。マザーグースでどの歌が一番好き? まぶしいほどの笑みを浮かべてそう訊いてきた少女はもういない。冷たい床に打ち伏す赤毛の少女は二度と笑いかけたりはしない。永遠に目覚めることのない眠りに就こうとしている。
魂が失われた身体は青白く、冷たい。そっと手を伸ばして撫でてみたが、まるで物のように感じられた。血の気のない唇に手を這わせ、リドルは口ずさんだ。
『Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses,
And all the king’s men,
Couldn’t put Humpty together again.』
孤児院で習ったいくつかのマザーグース。孤児に母の夜伽歌を教えるとは全くナンセンスだと思っていたが、この歌だけはよく覚えている。一度壊れたものは二度と元には戻らない。世界はこの決まりごとに従っているのだと常々感じていたから。
形あるものはいつか滅びる。生まれたものは死に、出会いがあれば別れもある。そう、決して元には戻らない。戻れない。
全てを知ったジニーは日記帳を投げ捨てた。遅かれ早かれそうなることが分かっていたから、リドルは少しも驚かなかった。ただお気に入りの物を失くしたような軽い喪失感を味わっただけで。
彼はジニー・ウィーズリーを少しは気に入っていた。ほんの些細なことにも大きな反応を示し、得体の知れない日記帳の【記憶】を信じきっていた純粋な少女のことを。
けれど、それ以上に大切なものがあった。自分の身に流れるマグルの血を打ち消す、高貴なスリザリンの血統と偉大なる思想が。そのためだけに五十年の長き時を耐えてきた彼にとって、出会ったばかりの小娘など道端に転がる小石の一つに過ぎなかった。ただよく光る石だったから目にとまった、それだけのことだ。
光る石を磨けば、値打ち物の宝石になるなど思いもしなかった。
だが、あの時…――自分の身を危険にさらしてまでジニーは向かってきた。身体を恐怖に震わせているのに、涙を浮かべたトビ色の目だけは射抜くようにリドルを見据えていた。突きだした杖の重みに崩れ落ちそうなほど弱々しく見えるのに。窓から差し込む陽が金の後光となり、ライオンのたてがみを思わせた。勇気ある者の住まう寮、グリフィンドール生に相応しい姿だった。
その時、はじめてリドルはジニー・ウィーズリーのことを役に立つ道具としてではなく一人の人間として認めた。そう気づいた時にはすでに遅かったが。
武装解除の魔法で取り上げた杖を握った感触と、後ろ向きに飛んでいくジニーが倒れる音がやけに遠く感じられた。リドルは大切なものが砕け散る音を自分の内に感じた。
ジニーを失う時になってはじめて分かった。彼女の他人を思いやる優しさも、誰かのために命を懸けられる強さも…――その全てが本物であったこと。イミテーションと決めつけていたために気づけなかったことを。
「Couldn’t put Humpty together again……」
最後の節を繰り返し、リドルは吐息を吐く。
「元には戻せなくても……もしかしたら壊れた欠片で新たに何かを築くことができるかもしれない。今、僕はそんなことを思ってる。ねえ、ジニー……君はどう思う?」
元には戻せない――真理は分かっていた。けれど、そう思えたらどんなにいいだろうか。
ジニーは固く目を瞑ったまま答えない。冷たい手を握りしめたまま、リドルは耳を澄ました。じきにくるであろうハリー・ポッターの足音が響くのを待って。
(2004/03/08)