【あの人】が恐れた唯一の少女
「ご主人さま……実は……その、以前より伺いたいことがあったのですが」
「なんだ、ワームテールよ」
こわごわと口を開くワームテールを見やり、ヴォルデモートは半ばソファに寝そべりながら不機嫌な口調で答える。
ヒトとして甦ったヴォルデモートはホコリ臭い実家に住み続けるのは嫌だと駄々をこね、マルフォイ邸に無理やり移り住み、ゴージャス生活を楽しんでいたのだが、一つだけ悩みがあった。それは別に宿敵ハリー・ポッターのこととはなんの関係もない。
二、三年ほど前からだろうか。悪夢にうなされ、うまく寝つけなくなったのだ。まあ完全に復活していないゴーストとも生物ともつかない姿だった時はまだいい。まさしくクリーチャーだったのだから、外見を気にする必要もない。
だが、ヒトの姿を取り戻した以上、顔を洗ったり、歯を磨いたりする機会もあるわけで。朝、鏡を見るたび、自分の顔ながらギョッとせずにはいられない。骸骨のような顔はますます痩せ細り、赤い目は充血してますます赤くなったとくれば。
これ以上睡眠時間が削られたら、俺様、ヤバイ。お肌に悪いっていうより、死んじゃうかもーと不安は高まるばかり。
ご主人さまがそんな重い悩みに頭を抱えているというのに、くだらないことを言ったらどうしてくれようかとワームテールを見ると、彼は目を逸らし、言いにくそうにつぶやいた。
「そのぉ……ご主人さま、最近その、うたた寝をしてらっしゃる時に寝言を口にされるのですが……」
「寝言? どんな寝言だ」
ヴォルデモートのこめかみがピクリと動く。ワームテールは先を続けていいのか判断に迷い、口をつぐんだが、とっとと言えとせっつかれ、
「ジニー、と……」
ヴォルデモートの元々悪い顔色がさらにひどくなり、もはや哺乳類だと口にするのもおこがましいような色あいに変色した。
「貴様、ワームテール……何故……いや、それよりも、だ。俺様がジニーという寝言を言っていたことが、貴様に、なんの関係がある?」
動揺を押し隠すように口早に言うと、
「あの、もしや、ご主人さまは夢を見てらっしゃるのではないかと思いまして……その、赤毛の少女の夢とか」
「何…? ワームテール、貴様、その小娘のことを知っているのか?」
いまや滝のように汗を流しているワームテールの言葉に、ヴォルデモートは強く反応した。
彼が毎夜のように見続ける夢の中には、赤毛の少女が現れる。十かそこらの少女で、まだ【ヴォルデモート卿】に転じる以前の【トム・リドル】の名で彼を呼ぶ。仲のいい友達に接するように。
夢の中の彼(推定年齢十五歳)自身、その少女に好意を抱いていたようで、ファミリーネームではなく【ジニー】と親しげに呼んでいた。学生時代うんざりするほどモテまくった【リドル】が、女子達の恋心に期待を持たせないよう、誰に対しても一線を引いていたことを考えれば破格の扱いだ。
俺様は今も昔もロリコンじゃない! ヴォルデモートは悶えずにはいられなかったが、夢の中で彼の分身は彼女にあくまで優しかった。
一体あの小娘は何処の誰だ? ヴォルデモートは必死に思いだそうとした。そんなにもはっきりと顔を見覚えているのだ。ただの夢であるはずがない。けれど、現実に会った人々の顔を一つ一つ思い返していっても、【ジニー】はいなかった。
【ジニー】=赤毛の少女と分かった辺り、ワームテールは彼女のことを知っているのかもしれない。ヴォルデモートがソファから身を乗りだすと、ワームテールが頭をかいた。
「実は、その、私が潜伏していましたウィーズリー家の末娘でして……ご主人さまの【記憶】が彼女に取り憑きまして」
「……なるほどな。ハリー・ポッターに敗れ去った【過去】の【記憶】が、俺様に共鳴してきたというわけか」
「はぁ…。それで、ご主人さま……もしや、と思ったのですが、ジニーに髪の毛をむしられたのですか?」
ヴォルデモートの身体がソファから転げ落ちた。骨ばった手足が床に落ち、ゴンッと音を立てる。骨粗しょう症気味な老人なら骨折しそうなほどの勢いだ。
「なっ……何故そんなことまで知っている!?」
ひゃああ、ご主人さま!――叫び、いそいそと駆け寄るワームテールの手を払いのけ、ヴォルデモートは叫んだ。
そう。友達からほのかな恋へと足を踏み入れた【ジニー】と【リドル】の物語はめまぐるしく展開し、やがて熱情的なものへと変わっていく。
ところが、だ。【リドル】が、とある少女に関心を示した途端、【ジニー】は浮気だと【リドル】を責め、なんと! 罰として髪の毛を一つまみずつむしっていったのだ。
夢の中のすさまじい痛みは現実のようにヴォルデモートを襲い、その身を苛んだ。ワームテールの眼差しが瞬時に憐れみを帯びた。
「ジニーはおっとりとした外見とは裏腹に激情家なんです……私も最初はジニーのペットをやらされたんですけどねえ。彼女のすぐ上の兄に餌を与えてもらって喜んでいたら『あたしのペットなのにロンなんかになついて! いいわ、そんなにロンが好きならロンのペットになっちゃいなさいよ。あんたなんか、もういらないっ!!』って怒鳴られた挙句、投げ捨てられちゃった過去がいるんですよ……その時のショックでこれ……」
寂しい頭を指差し、円形脱毛症になっちゃったんですよーと言うワームテール。
ヴォルデモートは自分の頭に手をやった。かつて…――十数年前まではふさふさとしていた黒髪が、今では見事に抜け落ちている。素っ裸の上にツルッパゲのジイさんがお鍋の中からでてきた時には、ワームテールもさぞかし腰を抜かさんばかりに驚いただろう。彼自身、後で鏡を見てコメディアンのようにスッ転んだのだから。
額を押さえながら、ヴォルデモートは呻いた。
「俺様にこれほどの精神的ダメージを負わせるとは……ジニー・ウィーズリー……ある意味ポッターなどよりも恐ろしい輩かもしれぬ……」
「ええ……絶対に敵には回したくない子ですよ……」
ワームテールは遠い目をして微笑を浮かべた。窓から入ってきた風が彼のうっすらとした頭をかすめて、残り僅かな髪の毛を逆立てた。ヴォルデモートはその時はじめて常日頃役立たずだと罵ってばかりの下僕に親近感を覚えた。
(2005/07/09)